2021年6月6日日曜日

東京異空間37:権力者の館2~音羽御殿と目白御殿


田中邸

先に権力者の館1.音羽御殿をアップしたが、続けて、鳩山会館から1キロほどにある目白御殿に行ってみた。

 

2.目白御殿

目白御殿とは、かっての田中角栄邸であり、目白通りに面して一番広い時には3000坪もあったという。

この地に、昭和28年(1953)に490坪を購入してから、 33年271坪、37年292坪、39年109坪、40年85坪、41年117坪、42年973坪、と買い増していった。その間、田中は32年には郵政大臣として初入閣し、その後、36年党政調会長、37年、大蔵大臣、40年党幹事長、46年通産大臣、そして47年に「日本列島改造論」を提唱し、ついに首相の座に就く。権力へのステップ・アップとパラレルに土地の拡張につながっていた。まさに<権力とカネ>を絵にかいたように目白御殿をつくりあげた。

実際に、こうした敷地拡張だけでなく、邸宅の建築・改築にあたって、一級建築士たる田中本人が関与して建てられたといわれる。(『権力の館を歩く』御厨貴)

 

目白御殿は音羽御殿と対照的であり、いくつかの点を対比してみると、

ロケーションの点では、音羽御殿は小高い丘の上に建っているので、道路からはゆるやかな坂を上って玄関に至ることになる。それに対し、目白御殿は目白通りに面して建てられている。それによって、陳情団はじめ毎日多くの訪問客を受け入れることができたという。

建物自体の点では、音羽御殿は英国風洋館であるのに対し、目白御殿は多くの和室がある日本建築である。庭は、広い芝生のある音羽御殿に対し、目白御殿は、鯉の泳ぐ池のある庭園である。庭で、鳩やミミズクなどの彫刻と庭のバラを愛でる鳩山の姿に対し、一方では背広を着てゲタを履いて、池の鯉にエサをやる田中の姿がある。

目白御殿

背広にゲタ履きで、鯉にエサをやる角栄

 

このように対比してみると、当然のことではあるが、それぞれの館に権力者のスタイルが強く反映されていることを知ることができる。

 

田中角栄が庶民派宰相といわれるように、学歴も専門学校まで、に対し鳩山一郎は東大卒のエリートで、いわば貴族的宰相といえるだろう。

しかし、どちらも生え抜きの政党人であり、外交上の功績としては、一郎が日ソ国交回復したのに対し、角栄は日中国交回復を果たした。(1972年)

 

また、鳩山一族と田中角栄との関わりを見ると、一郎の子・威一郎は、大蔵次官のときに、角栄の日本列島改造論を背景とした総理の至上命令により超大型の予算を組んだ(1972年)。その後、参議院全国区で当選し政界入りした

さらに、威一郎の長男・由紀夫は政界には田中派の候補として当選している(1986年)。次男・邦夫は兄より早くから政界入りを志し、田中のもとへ行き、秘書となって、政界入りするなど、いずれも田中角栄という政治家によって政界に入ることになった。

 

こうした鳩山と田中とを結び付けていたのは、やはり音羽御殿と目白御殿が同じ目白エリアで近かったということが一因となっているのだろう。

 

角栄の後年は、ロッキード事件(1978年)により逮捕されるも、その後の選挙でもトップ当選をするなど影響力を持ち続けたが、1985年に脳梗塞を起こして倒れ、自らの政治生命を絶たれたことに伴って、目白御殿の生命も終わった。

そして巨額な相続税のため、御殿の土地約3200㎡が物納された。その物納された土地は、2009年に、国家公務員共済組合の目白台運動場跡と、合わさって広さ1万㎡の広大な「文京区立目白台運動公園としてオープンした。今は、周囲の人々の憩いの場、あるいはスポーツの場として利用されている。

 

音羽御殿は、相続で規模を縮小することなく改修を経て鳩山会館となって、優れた建築遺産として、また観光スポットの一つとして公開されている。

一方、目白御殿はその土地のほとんどが公園となり、都民のレガシーとして残った。公園に隣接して今は長女・眞紀子とその家族の邸宅がある。門には「田中」の表札がかかっており、周囲は高い塀に鉄条網が張り巡らされていて中を窺い知ることはできない。

 

音羽御殿は鳩山家の歴代の女性が支え、いまにその姿を残しているが、目白御殿は角栄の娘が引き継いだものの、御殿を支えるような身内の女性はいなかった。結局、一代で途絶えてしまった。

「権力者の館」といえども、その実は女性によって支えられた館でもあったと言えよう。

目白台運動公園

目白台運動公園

塀に囲まれた田中邸

塀には鉄条網がめぐらされている

塀に囲まれた田中邸

よく読めないが注意の看板

田中邸の横にあった不動産の広告

 

3.教育の館

音羽御殿から東京カテドラルの横を通り、椿山荘の前に出て、目白通りを歩くと、「和敬塾」がある。ここは前川製作所の創設者・前川喜作が旧細川家の敷地7000坪と邸宅とを買取り、男子学生寮として建てた。なかにある旧細川侯爵邸は、年に数回公開されるようだ。

 

目白通りをさらに進むと、広い「目白台運動公園」があり、その横にかっての目白御殿がある。田中邸の前には日本女子大学があり、「目白の女子大」といわれ、明治時代に最初の女子の高等教育機関として成瀬仁蔵によって創られた。この地は三井財閥からの寄付によるものだという。

なお、鳩山春子は、共立女子大学創立者の一人で、津田梅子・津田塾大学、安井てつ・東京女子大学、成瀬仁蔵・日本女子大学などと並んで日本の女子高等教育の基盤をつくった一人とされている。

また田中眞紀子は、日本女子大学付属中学、高等学校を経て早稲田大学に進学している。

 

日本女子大学から、さらに目白駅の方向に進むと学習院大学がある。明治初期に皇族・華族のための教育機関として開校された。

なお、鳩山安子は、女子学習院高等科(現・学習院女子大学)を出ている。

 

目白エリアには、権力者の館のみならず、こうした教育の館がある。今回は中には入れなかったが、機会をみてまた訪れてみたい。

和敬塾

日本女子大学

学習院大学

JR目白駅


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