久々に出かけて目白の鳩山会館を訪れた。ここは戦後首相となった鳩山一郎の邸宅であり、約2000坪といわれる広大な敷地に建てられた英国風洋館は、かってはここの地名から「音羽御殿」と呼ばれていた。
音羽御殿から約1キロほど離れて、もうひとつ、目白といえば田中角栄の「目白御殿」がある、というより、あったというべきだろう。いまは大部分が公園となっているが、ここも訪れてみた。
1.音羽御殿
地下鉄江戸川橋駅から目白通りを歩いていくと右手に「鳩山会館」の看板がある。門には鳩の紋章がある。ゆるやかな坂をのぼっていくと、3羽の鳩がお出迎えしてくれた。すぐに車寄せの屋根が樹々の間から見える。
車寄せの天井はヴォールト様式となっていて教会の天井のようだ。入口の階段は、大理石で赤絨毯が引かれている。
ヴォールト天井 |
入口の階段 |
大理石と赤い絨毯 |
(1)鳩山一郎とその一族
音羽御殿は、鳩山一郎が関東大震災の後大正13年に建てた。この土地は、一郎の父和夫が息子たち(一郎と秀夫)のためにと購入したものである。設計を手がけたのは中学時代から同窓であった岡田信一郎である。
鳩山一郎は生え抜きの政党人として首相となった。その間の政治史を簡単に見てみると。
昭和21年(1946)、戦後初の総選挙で一郎の率いる自由党は第一党になり、幣原内閣のあと首相になる予定であったが、直前にGHQから公職追放となり、吉田茂が首相となった。昭和26年(1951)公職追放が解除される直前に今度は脳溢血に倒れた。その後、昭和29年(1954)に、吉田内閣総辞職とともに鳩山内閣が成立し、一郎が総理大臣になった時は、音羽御殿にはたちまち祝いの客が殺到し、提灯行列までも来て「鳩山ブーム」とまで言われた。
昭和31年(1956)には日ソ共同宣言を結ぶなど外交にも力を発揮した。戦後政治史において一郎の功績として挙げられるのは、自由党と民主党との保守合同により「自由民主党」を結成し、いわゆる「55年体制」を築いたことであろう。
鳩山一郎 |
一郎の旅行鞄 |
TIMEの表紙を飾った一郎 |
こうした戦後政治史の舞台となっていたのが、「音羽御殿」であった。今の音羽会館には、鳩山一郎をはじめ一族の銅像などが置かれている。それぞれの肖像を見ていこう。まずは父和夫と母春子である。
一郎の父、和夫は、安政3年(1856)美作勝山藩に仕えた藩士の子として生まれた。 薩長の藩閥政府から外れ大隈重信のもとに外務次官 衆議院議長などを務めるも、政治家として大きな功績は残していない。むしろ教育の面で、専修学校(のちの専修大学)の設立に大きな貢献をするとともに、東京専門学校(のちの早稲田大学)の校長などを務めた。
母春子は、息子一郎と秀夫を育てるにあたり、早朝4時には起こし勉強をさせたという、今でいう教育ママの先駆けであったという。また共立女子学園の創設者の一人である。
なお弟秀夫は東大を大学始まって以来の優秀さで卒業し、法学博士となっている。
和夫と春子の銅像 |
和夫と春子の銅像 |
和夫と春子の銅像(朝倉文夫作) |
一郎の妻、薫はこの姑春子の薫陶を受け、教育だけでなく、一郎の選挙応援などに力を発揮し、本人よりも人気が凄かったという。一郎が脳溢血で倒れた後も政治家として活躍できたのは薫夫人の存在であった。それは「薫夫人の存在はツエ以上の貴重さ」と評されるほどであった。
一郎 |
薫夫人 |
母・春子 |
一郎と薫の長男が威一郎である。母・薫の薫陶(?)よろしく、東京帝国大学法学部をトップで卒業し大蔵省に入る。大蔵事務次官として、田中角栄の日本列島改造論を背景に超大型予算を組むなどを行い、政界に入る。毛並みの良い「大物官僚」出身の政治家として期待されたが、病気がちで政界では目立った活躍は出来なかった。
威一郎が鳩山一族に大きな貢献をしたのは、ブリヂストン創業者石橋正二郎の長女安子と結婚したことである。石橋正二郎は一代で「石橋財閥」ともいわれる巨大企業グループを形成し、鳩山一郎の政治の金の面でも支えた人物である。このブリヂストンの金脈を得たことが、息子由紀夫と邦夫の政治家としての活動も支えた。そればかりでなく、莫大な相続税の支払いにもブリヂストン株などの資産があったればこそ、音羽御殿を鳩山一族のシンボルとして「鳩山会館」を残すことにつながった。
威一郎と息子・由紀夫と邦夫 |
威一郎の妻・安子(日の丸には石橋正二郎の名も) |
威一郎の長男・由紀夫 |
威一郎の長男由紀夫は東大工学部を卒業し研究者として教授などを務めた後、1986年自民党・田中派の候補者として祖父の代からの地盤であった北海道から出馬し当選した。政治改革を巡り自民党を離党した後、新党さきがけや民主党など野党時代を経て、2009年国民新党・社会民主党の連立与党が成立し自民党政権を倒し、内閣総理大臣となる。
吉田茂元首相との政争に勝利を収め、1955年の保守合同で自民党を結成した鳩山一郎首相。その孫の由紀夫が、吉田茂の孫である麻生太郎総裁が率いた自民党に引導を渡し、「55年体制」は崩壊した。それが歴史のアイロニーということだろうか。
歴史の評価はともかくとして、鳩山家4代のうち一郎、由紀夫と二人の首相を輩出し、いずれも戦後政治史に大きな節目を残したという事実は間違いない。
音羽御殿は、そうした政治史の舞台であったが、実のところ政治史のコマを動かしていたのは、その表舞台ではなく、同じ敷地の奥にある緑に囲まれた日本建築の和室(非公開)であり、麻布永坂にあった石橋邸の部屋であり、そして軽井沢の別荘といった、いわば裏舞台で演じられたのであった。
さらに、政治史の表舞台を裏で支えていたは、鳩山家の女性陣であった。ノンフィクション作家の佐野真一は彼女らを次のような植物に譬えている。
「男勝りの春子はどんな木よりも堅い樫の木に、才色兼備の薫は壁にしっかりとまとわりついて生命力を伸ばす蔦に、﨟長けた(ろうたけた)安子は雪折れしないしなやかな柳に」
彼女らによって、政治家鳩山の「権力とカネ」が支えられていたともいえる。
金婚式の記念にも鳩 |
一郎がオーストリアの貴族クーデンホーフ=カレルギーの友愛思想に影響を受けて信条として掲げた「友愛」という言葉とともに、この英国風洋館は鳩山一族にとってシンボル的存在であった。しかし、それは政治の世界のリアリズムとはかけ離れたものだと言わざるをえないだろう。政治の歯車はここではなく裏舞台で回っていたようだ。
(2)西洋建築・岡田信一郎
鳩山邸の設計を手がけたのは、岡田信一郎(1883-1932)で、一郎とは同じ年に生まれ、中学校から東大と、同窓の親友であった。音羽の家の改築にあたって岡田に相談せずにことを進めようとした一郎に「お前が家を建てるというのに、俺に相談しないという法があるか」と怒ったという。
岡田信一郎は、鳩山邸の英国風洋館のほか、鉄筋コンクリートで和風意匠を表現した歌舞伎座(今の歌舞伎座は第5期にあたり隈研吾の設計である)、日本における西欧式建築の最高傑作といわれる明治生命館など、和洋を問わず歴史的な建築様式を自在に用いた建築家である。また、東京美術学校、早稲田大学で教壇に立ち、教育者として多くの建築家を育成した。その第一の弟子にのちに考現学を提唱した今和次郎がいる。
広い芝生の庭 |
サツキが満開となっていた |
バラ園もある |
鳩山邸の設計の特徴として、一階の応接間は部屋の境扉を取り外して連続して広く使えるような工夫されていたり、サンルームからは広い芝生の庭にすぐに出ることができるようになっている。こうした広い空間があることで、多くの政治家ばかりでなく、提灯行列で祝う地元住民などが多くの人が集まることができた。
第二応接室 |
一郎は、右の椅子に座って賛美歌を歌ったという |
サンルーム |
サンルームから芝生の庭へ |
食堂 |
2階・大広間 |
天井に光の影が |
天井に光の影が |
また建物の装飾に、鳩山に因んだハトやミミズクなどの鳥や鹿がモチーフとして多く用いられているのも西洋風といえる。
2階テラスの上・鹿 |
2階テラスの上・鹿と鳩 |
建物の脇にも鳩 |
屋根にミミズク |
屋根にミミズク |
ミミズク |
池の縁にも鳩 |
鳩と羊 |
窓にはステンドグラスが多く用いられており、これらは小川三知の作として知られる。
小川三知と組んだ建築家は多いが、中でも群を抜いて多く仕事をしたのが岡田信一郎であった。
(3)ステンドグラス・小川三知
小川三知(1867-1928)は、橋本雅邦に学び高い日本画の素養を持ち、アメリカに渡ってガラス技法を学んだ日本初のステンドグラス作家のひとりである。
鳩山邸には、ステンドグラスの窓が多く取り入れられているが、一番、小川三知の優れた技量をうかがわせる作品は、階段の踊り場にある五重塔に鳩が舞う大きなステンドグラスであろう。他にも、鳩、花などをモチーフとしたステンドグラスが英国風洋館に日本的な落ち着きを与えているように思える。
日本のステンドグラスは、震災や戦災などで多くが失われ、また十分に調査もされず、舶来品、外国製とされてきたものも多いという。鳩山会館のステンドグラスについても修復時にデザインが裏返しになり、そのうえ小川三知のものでもないサインが焼き付けられているという。(やはり「裏」舞台ということか?)
階段踊り場の五重塔と鳩 |
階段踊り場の五重塔と鳩 |
五重塔のまわりに鳩が舞う |
サンルームに面したステンドグラス |
サンルームに面したステンドグラス |
玄関の上にあるステンドグラス |
玄関の上にあるステンドグラスに18匹の鳩 |
かっての音羽御殿は政治史を語る建築空間として存在していたが、いまは鳩山会館として、その建築の素晴らしさ、ステンドグラスの美しさ、とくにバラの花が咲く時期には多くの人が訪れ、「はと」バスの観光スポットのひとつにもなっているという。もはや権力者の館という政治的空間から、広く魅力ある異空間を形成しているといえるのではないだろうか。
2.目白御殿
同じ目白に、音羽御殿とは対照的な「目白御殿」があった。かっての田中角栄の邸宅である。これについては稿をあらためてアップする。
参考:
『父の映像』筑摩選書 (昭和11年東京日日、大阪毎日新聞社刊の復刊)
『鳩山一族』伊藤博敏 平成22年 彩図社
『鳩山一族 その金脈と血脈』佐野真一 文春新書2009年
『鳩山一郎とその時代』増田弘・中島政希 平凡社 2021年
『権力の館を歩く』御厨貴 毎日新聞社 2010年
『日本の建築・明治大正昭和』第8巻様式美の挽歌 伊藤三千雄、増田彰久・写真小学館 昭和57年
『日本のステンドグラス 小川三知の世界』増田彰久・写真、田辺千代・文 白揚社2008年
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