井の頭池 |
井の頭公園に行ってみました。ここは桜の時期は多くの人で賑わいますが、まだ春のはじめ3月上旬では静かな様子でした。(アップするのが遅くなりました)
また、井の頭池は、神田川の源流で、江戸時代には神田上水として江戸城、日本橋、神田あたりに水を供給していました。今回は、池の周囲と畔にある弁才天と神田川の基点を見て回り、その歴史にふれてみました。
1.弁才天と石造物
公園の中心は、大きな井の頭池で、スワン・ボートがたくさん並んでいる。ここで、恋人とボートに乗ると、弁才天(女神)に嫉妬され別れてしまうという噂があるそうだ。その弁才天は池の西側に祀られており、ご本尊は8本の手を持った八臂像で、大変優しいお顔をした美しい姿をされている、という。秘仏であるため普段は公開されていないが、12年に一度、巳年(次は2025年)にご開帳されるという。
弁才天は、七福神の一つであり、水の神様でもあることから、海や湖、川などの水に関わる場所の近くの祀られている。そこから弁天島、弁天池、弁天町など地名としても、「弁天」はよく使われている。
また、弁才天は財宝神としての性格が強調され、「才」の音が「財」に通じることから、お金を水で洗うと御利益があるという銭洗い弁天が江の島や竹生島など各地にある。
弁天堂の周囲にある石仏を見てみる。まず、とぐろをまいた蛇の上に頭がある。これは老翁であろうか、「宇賀神」という。弁才天が財をもたらす福神である宇賀神と習合した姿とされる。台座は石鳥居の標石であったという。
また、横にある七井不動尊の周りにも、同じように「宇賀神」が置かれている。後ろに回ると、三体の地蔵菩薩が祀られている。池の畔には、小さな地蔵仏が赤い帽子とよだれ掛けをつけて佇んでいる。堂の横には、庚申塔も置かれている。それぞれ庶民の信仰をあらわしている。
弁天堂の前には、ちょっと可愛い狛犬が一対置かれている。弁天島に架かる太鼓橋の橋桁には、「壱番講」と「湯屋」の文字が刻まれている。江戸の町にある湯屋(風呂屋)が、ここから来る水を大切に思い寄進したのだろう。
橋の両側に立つ石灯籠には「日本橋」の文字が刻まれている。その寄進者のひとりは、伊勢屋伊兵衛とあり、日本橋に今もある老舗、「にんべん」の屋号だという。
さらに、弁天堂を背にした階段の足元には「両國」の文字があり、両国の人々が寄進したものである。
これらの石造物は、どれもが江戸時代の中期から後期に造られたものであり、ここを源流とする神田上水を生活の水に利用していた江戸の町の人々の信仰、寄進によるものである。
スワンボートが並ぶ |
弁天堂 |
銭洗い弁天 |
宇賀神 |
宇賀神:とぐろをまいた蛇の上に頭・老翁 |
七井不動尊 |
宇賀神 |
宇賀神:頭の上にとぐろを巻いた蛇と顔 |
地蔵菩薩 |
地蔵菩薩 |
赤い帽子とよだれ掛けを付けたお地蔵さま |
庚申塔 |
狛犬 |
狛犬 |
橋桁に「壱番講」と「湯屋」の文字 |
石階段の下に「両國」の文字 |
石灯籠に「日本橋」の文字 |
弁天堂 |
2.江戸の水源
井の頭池の西端に「お茶の水」という湧水がある。いまはポンプでくみ上げているそうだが、かってはこの湧水(井)が神田上水の水源であった。「お茶の水」というのは、家康が自らの手でこの水を汲みお茶を淹れて飲んだところから名付けられたという。
また、井の頭池は、もとは七井の池といわれていたように、この辺りには多くの湧水=井があった。その井のうちの一番=頭であるとして井の頭となった。名付けたのは三代将軍家光で、池の畔にあったコブシの木に「井之頭」と切りつけたという。
この辺り一帯は、いまも「三鷹」という地名に残っているように、幕府の「お鷹場」であったことから、こうした言い伝えも生まれたようだ。
江戸の町が大きくなり、飲み水の確保が必要になり、ここから神田上水として江戸の人々の飲み水として利用された。江戸っ子は「神田上水の水を産湯に使い、云々」といわれるように、この水は江戸の生命線ともいわれる存在であり、水道として、また米や野菜を運ぶ輸送路としても重要なものであった。
池の東側に神田上水の始まりがあり、水門となっている。そこに、神仏分離令の際に撤去された鳥居の柱石が転用されている。
「神田川」と刻まれた石碑が、川の始まりを示している。また、水門橋という橋が架かり、その側には「ここが神田川の源流です」という看板も立っている。神田川は、ここからさらに善福寺川、妙正寺川と合流して、東に向かって流れ、水道橋駅辺りで日本橋川と二つに分かれ、柳橋の先で隅田川に流れ込んでいる。
なお、江戸時代は「神田御上水」と呼ばれていた神田上水は、昭和39年の河川法改正により源流から隅田川に至るまで一貫して「神田川」と呼ばれるようになった。
「お茶の水」 |
お茶の水(湧水)から池に架かる橋 |
井の頭池に架かる橋 |
ひょうきん橋に鳥居の石柱が架かる |
「神田川」の石碑 |
水門橋 |
神田川の源流の看板 |
ここから神田川 |
3.井の頭公園
井の頭公園は、正式には「井の頭恩賜公園」といい、下賜された公園である。大正2年(1913)に、宮内省から東京市に井の頭、御殿山の御料地を公園地として下賜することになった。大正6年(1917)に日本最初の恩賜公園として開園した。
明治になると、御殿山が民間に払い下げされたり、再び政府により買い上げられたりと、明治初期の激動を反映し、その管轄が目まぐるしく変わった。明治22年(1889)には、一帯が宮内省管轄の御料林となり、水源保護のため一千本の杉が植樹された。
明治31年(1898)に、近代水道設備が整備され、江戸の町に送られた水道であった神田上水は廃止された。明治43年(1910)には東京市会に公園計画案が提出された。この公園化を後押ししたのが、渋沢栄一である。
渋沢は、娘婿であった東京市長の阪谷芳郎と、宮内省に働きかけ、郊外の公園計画を推進し、この地に「井の頭恩賜公園」をつくった。
また、渋沢は明治5年(1872)に、窮民救済のための施設「養老院」の初代院長となり、小石川にあった養老院の一部をこちらの御殿山に移し、非行少年を更生させる施設として明治38年(1905)に「井之頭学校」をつくった。御料地である御殿山に非行少年の更生施設をつくるという大胆な発想に慈善事業に尽くす渋沢の信念を感じる。
参考:
『井の頭公園 まるごとガイドブック改訂版』安田知代 2016年 ぶんしん出版
歌川広重「井の頭の池 弁財天の社」:背景に見える山並みは家康を祀る日光の山といわれる。 |
歌川広重「井の頭の池 弁財天の社 雪の景」 |
川瀬巴水「井の頭の春の夜」(昭和6年作):杉林の前に若木の桜 |
井の頭の江戸から明治にかけての歴史の一端にふれてみて、そこには江戸の人々の暮らしや信仰、渋沢に見るような明治人の強い信念、慈善事業にかける熱意を感じました。
井の頭「恩賜」公園は、桜の名所でもあります。御料地の杉林から桜の名所になってきたのは戦後になってからだといいます。今回は桜の時期に訪れることはできませんでしたが、来年の春、できれば弁才天が御開帳される2025年にも、また訪れることができればと思います。
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