馬頭観音 |
観音菩薩像、地蔵菩薩像が並ぶ |
長命寺の石仏巡りも、三回目となりました。長命寺には前回に取り上げた十王や十三仏など数多くの石仏がありますが、今回は印象に残ったいくつかの石仏をまとめてみました。
1.馬頭観音(明暦元年(1655)造立)
ここにある馬頭観音は、頭上に馬頭をいただき、「かっ」と口を開いた忿怒の相をしている。三面六臂で、横の顔は光が咲き込んで目をつむり黙想しているようにも見える。
手には、斧、鈴、弓などを持ち、蓮の蕾である未敷蓮華(みふれんげ)を左手に持つ。
馬頭観音は、「六観音」においては、人々を畜生道から救う観音とされる。また、馬頭を持つことから、身近な生活の中の「馬」と結び付けられ、民間に信仰された。
2.十一面観音・千手観音
十一面観音は、頭部に十一の顔をいただく。左手には蓮を持つ。六観音の一つで、修羅道に配置される。病気治癒などの現世利益を祈願と、救済の観点からも多く祀られた。ここの十一面観音は丸顔で、どこか素朴な感じがする。
千手観音は、千手千眼観音ともいられるように、千の手を持ち、それぞれの手掌に眼をもち、全て漏らさず救済する慈悲を持っているとされ、十一面観音と同様、多く祀られた。六観音のうちの一つで、餓鬼道に落ちた人々を救うとされる。
千手観音の像容を石仏でつくることが難しいからか、ここの石仏の千手観音は珍しい。
3.聖観音・如意輪観音
如意輪観音は、全ての願いを叶えるという如意宝珠と、煩悩を破壊するという法輪を持ち、多くは六臂を備え、右膝立ちに両足裏を合わせてすわり、頭を右に傾けて思惟の相を示している。六道の役割では、天道に配される。
女性的な優しい姿から、亡くなった女性の供養塔として祀られることが多い。
聖観音は、本来の観音の姿という、これまでの変化(へんげ)した観音と区別して、聖(正)の字を冠する。大慈悲の円満な相を表わし、蓮華を持つ。六道では、地獄道に配される。
ここの聖観音は、大きな光背をもち、左手には長い未敷蓮華(みふれんげ)を持っている。
阿弥陀如来像か |
八角形の石柱の、それぞれの面に六観音と勢至菩薩の文字を刻み、残り一面には紀年銘が刻まれている。これは、月の17日から23日の間、順次、観音を本尊とした「七夜待供養塔」といわれる。七夜待における各夜の本尊は千手観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音の六観音と勢至菩薩である。
こうした月待行事は、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという民間信仰で、江戸時代、文化文政のころから広まったという。
同じような宗教行事として、庚申の夜、仲間が集まり一晩を過ごすという「庚申信仰」がある。(これについては、東京異空間52:庚申塔~民間信仰を見る 2022.2.2で取り上げた)
七夜待供養塔・こちらの面には種字(梵字)と十一面観音の文字 |
4.庚申塔(青面金剛)
長命寺にもいくつかの庚申塔を見ることができる。中には、かなり風化した青面金剛像もある。
ここには3体の庚申塔・青面金剛像を取り上げておく。そのうちの顔がかなり損傷している青面金剛が左手にショケラ(女人)の髪をもっている姿は、おどおどろしく見える。
邪鬼は下半身だけが残り、頭部は青面金剛の右足とともに破損していて原型をとどめない。三猿は両脇の二匹が手足が細長く、特に右の猿は猿というよりも人間のようにも見える。
この青面金剛の顔はほとんど潰されてしまっている。
足元に異形の邪鬼が横たわり、その下に三猿。よく見ると、三匹の猿の間に二鶏が彫られている。こうした構図は珍しい。
5.地蔵菩薩
六地蔵については、すでに三宝寺、閻魔堂でも見たが、ここ長命寺の奥の院に続く道の両側には、三体の地蔵菩薩像が向い合って置かれている。丸彫りのかなり大きな地蔵菩薩像である。
六地蔵の後ろには庚申塔を中心に五基の石仏が並ぶ |
六地蔵のほかにも、美しい地蔵菩薩、相当痛みが激しい地蔵菩薩、可愛らしい地蔵菩薩など、いろいろな地蔵菩薩を見ることができる。
左膝を立てた地蔵菩薩坐像も、あまり見ないものだろう。光背、手には錫杖と宝珠を持つ姿は美しい。
石塔の上に大きな手で合掌している地蔵は坐像である。空中浮揚しているようにも見える。合掌している慈悲の姿が美しい。
逆に、ほとんどお顔がつぶれてしまった地蔵菩薩、おそらく首から折れてしまったのだろう、修復して、頭に包帯を巻いたような地蔵菩薩、目がつぶされた地蔵菩薩、それぞれの地蔵にどのようないきさつがあったのか、それでも、人々は地蔵の慈悲にすがったのだろう。
「百霊菩薩」と刻まれている |
合掌する地蔵、慈悲の姿 |
木の根元に、かろうじてその姿をとどめている小さな石仏、よく見ると、静かに合掌している姿は、愛おしく感じる。
かわいらしい双体の石仏、同じ顔をした二人が並んで合掌している姿は微笑ましい。これも地蔵菩薩だろう。
6.弘法大師像・行者像
弘法大師像で、三鈷杵と数珠を持つ。下の台には靴と水瓶が浮き彫りされている。
像の手前に丸い盤があり、四国の伊予、土佐、讃岐、阿波とそれぞれの地名が書かれている。四国巡礼を表わしているのだろう。
こちらは、行者の姿である。わらじを履き、左手には鉦(かね)をもち、右手には笠をもつ。笠には「奉納四國八十八箇所・奉順拝」とあり、やはり四国巡礼を表わしている。
また、二人の行者像が並んでいる。十二日講の引導者の一代目と二代目だという。どちらもリアルな像で、明治35年と45年に造立されており、当時の引導者の巡礼の姿を表わしている。
「講」を組織し、決められた日(日曜、十二日など)に仲間で一夜を過ごし、飲食、読経を行い、お金を拠出して、くじなどで代表者を決め、そのお金を融通することによって引導者に連れられ巡礼の旅にでかけることを行っていた。こうした引導者の像を造り供養するぐらいに強い親睦の絆、それは即ち信仰の絆を持っていたのだろう。
7.鳥霊供養碑
これは石仏ではなく、石碑であるが、梵字が5文字刻まれ、その下に「為鳥霊菩提」と刻まれている。背面には、「施主 鳥店田中長七 日本橋人形町」とあることから、鳥を料理しているお店が、仏教では殺生が五戒の一つであることから、鳥の供養のため奉納したものだろう。今でも、日本橋には老舗の鳥料理店がある。
因みに梵字は本尊となる仏を想起するためのシンボルとなるので、植物の種に譬えて「種子(しゅじ)」といわれる。
ここに見た石仏の多くは、江戸時代に造られたものであり、観音、地蔵などそれぞれ江戸の人々の信仰の姿を窺わせるものです。そのころの人々は、こうした石仏を供養として納めることにより、現世利益とともに来世の浄土を一心に信仰していたように思われます。
また、明治になって造られた行者像などを見ると、当時の人々は、「講」をつくり、一晩、仲間とともに念仏を唱えたり、皆でお金を出し合い、くじなどで参拝する代表人を選び、お金を融通して、引導者に連れられ、巡礼の旅に出たり、仲間との親睦とともに信仰の絆を深めていたように思います。
さらに講によって葬式も執り行われていたといいます。つまり、講は、相互扶助の組織であったわけで、それによって葬式後にこうした石仏などを造り、供養塔、墓碑として納められるようになりました。
このような宗教行事は、いまや、ほとんど見られなくなったのではないでしょうか。しかし、現代でも、七五三、結婚式などの祝い事は神社へ、葬式、三回忌などの弔事・法要は寺院へ行き、初詣となると、神社もお寺もどちらへも出掛け、神社では柏手を打ち、寺院では合掌することが、一般的に見られます。
また、葬儀も、専門の葬儀社に任せ、昔のような講といった仲間が行うようなことはなくなりました。都市化が進展し、次第にお寺の役割や檀家という意識も薄れているように思います。先祖の供養として、お彼岸やお盆の時期にはお墓参りに行かれる人もいますが、墓じまいや樹木葬などが増えているといいます。
さらに、住宅事情もあり、家に神棚、仏壇を備える人も少なくなってきているでしょうから、家で神を祈りや先祖を供養することは少なくなってきているのではないでしょうか。
このように、いまや宗教の領域が狭められて、信仰心が希薄になってきています。しかし、身近な人の死に会ったり、自らの死を考えたり、死後のことを想像したり、心の拠り所、心の安心、家族・社会の安寧を願う気持ちとしての宗教、信仰といったものが大切になってきていると思います。
仏教では、「生老病死」といわれ、生きる苦しみ、老いる苦しみや、病気にかかる苦しみ、また人は誰でも死ぬという究極的な苦しみは、どれだけ頑張っても今の科学や経済などでは乗り越えられないことであり、個人の思い通りにならないことであるからこそ、宗教、信仰が求められているのではないでしょうか。
現実に目を向けると、コロナ・パンデミックが中国から引き起こされ、ウクライナへの侵略がロシアによって行われ、世界中で死者が増え、しかも死に目にも会えない、さらには残虐な死まで行われています。いまこそ、特定の宗教や信仰というわけでなく、平和を求め、幸福を祈る心が大切になっていると思います。
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