松濤美術館の近くにある鍋島松濤公園に寄ってみました。
1.大名庭園の沿革
江戸時代、このあたり一帯は紀州徳川家の下屋敷であったところで、鷹狩狩りの際に立ち寄った大名庭園があったかもしれない。しかし、その遺構らしきものは確認されていないようだ。ただ、湧水の池があり、これが大名庭園の面影を残しているのかもしれない。自然の湧水地といわれているが、池というのはもともと庭園の一部であり、文化であることからして、この池も庭園の一部であった可能性はあるだろう。
明治に入ると、佐賀の鍋島家に払い下げられ、最後の佐賀藩主11代・鍋島直大(なおひろ1846-1921)は、失業した元武士の救済策として、ここに茶畑を作った。このように、明治期の殖産興業の流れによって、主要な輸出品であった茶や蚕などに力を入れたため、江戸時代の大名屋敷にあった庭園の多くが姿を消した。
鍋島直大は、茶の栽培に三田用水から水を引き、狭山茶を植え、茶畑を造成し「松濤園」と名付けた。「松濤」とは、 松の梢を渡る風の音が海岸に打ち寄せる海の濤(なみ)のように聞こえることから、茶の湯の釜がたぎる音に重ねた雅名である。茶の銘柄を「松濤」として明治の東京市民に広く愛飲された。しかし、東海道線が開通したことに伴い静岡茶に圧倒されてしまった。(静岡茶も、最後の将軍・徳川慶喜が静岡に移り、それに従った元家臣たちが、牧ノ原台地などを茶畑として開拓したものである。)
そのため、鍋島家の茶園は幕を閉じ、茶畑は畑や果樹園、牧場 となり「鍋島農場」と変わることになった。さらに関東大震災を契機に、大正末期から松濤地区の大地主・鍋島家の農場の宅地化と分譲が始まった。渋谷のシンボルともいえる「忠犬ハチ公」の飼い主・東京大学農学部教授の上野英三郎博士もこの地区に住んでいた。いまや松濤は高級住宅街としてよく知られている。なお、町名に「松濤」が使われたのは1928(昭和3)年である。
また、鍋島家は1924(大正13)年に、ここを児童遊園地として整備し松濤遊園地として公開し、1932(昭和7)年に東京市に寄付された。戦後に渋谷区に移管され、現在の「鍋島松濤公園」になった。
鍋島松濤公園 |
鍋島松濤公園・池と水車 |
鍋島松濤公園・水車小屋 |
鍋島松濤公園・石積み |
池の中島? |
2.鍋島松濤公園
公園としては、それほど広くはないが、池を中心として、緑も豊かである。池の畔には水車が置かれ、都会の中で、田舎風の趣を出している。
公園の一角に木を組み合わせたトイレが設置してある。これは渋谷区が進める「THE TOKYO TOILET」プロジェクトの対象となったひとつ。デザインは隈研吾で、2021年に利用が開始された。吉野杉の板で覆われた5つのトイレ小屋からなり「森のコミチ」と名付けられている。これまでのトイレのように男女別に造られているのではなく、「幼児用トイレ」、「高齢者・妊婦優先トイレ」、中で着替えができる「身だしなみ配慮トイレ」、車椅子の方も使える「だれでもトイレ」といった具合に用途を明確にしたトイレの個室を作っている。
トイレの意図はよくわかるが、はたして公園に来る人がこのトイレを便利と思って使うだろうか、などと余計なことを思った。
公衆トイレ「森のコミチ」 |
「森のコミチ」 |
トイレ・案内板 |
鍋島松濤公園の近くには、松濤美術館のほかにも、戸栗美術館があります。こちらは、かっての鍋島藩のゆかりもあってか、伊万里、鍋島など肥前磁器が多く所蔵されている陶磁器専門の美術館です。
美術館巡りをした後、緑多いこの公園で一休みするのもいいかもしれません。
池の畔の鳩 |
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