|
本部棟・丹下健三 |
前回は、震災復興に内田ゴシックの建物群がつくられ、キャンパスに統一された空間が形成されたことをみてきました。今回は、その後の戦後から東大紛争(1969年)を挟んで高度成長期、そして現代までを追ってみたいと思います。
3.戦後から現代~モダニズム建築
建築学科の教授でもあった内田祥三のもとから、岸田日出刀、さらに丹下健三らの多くのすぐれた建築家が輩出された。これらの建築家は、本郷キャンパスの建物にもかかわった。しかし、キャンパスはすでに狭隘になるなかで、建物需要は拡大する。そうした状況で、内田ゴシックを引き継いで新築、増改築することが求められた。
(1)丹下健三(1913-2005年)
丹下健三は、本郷キャンパスでは理学部5号館(現・第二本部棟)(1976)と、本部棟(1979)を手掛けている。茶色のタイルと八角形の柱状が内田ゴシックを引き継ぎ、安田講堂とのつながりを感じさせる。本部棟は地上12階建てであり、完成当時は、こうした高層建築は東大構内では目立つ存在であった。
|
理学部5号館(現・第二本部棟) |
(2)前川國男(1905-1986年)
丹下健三の先輩にあたる前川國男は、三四郎池の背後にある山上会館(1986)を手掛けている。山上会館の歴史は古く、加賀藩の支藩であった旧富山藩邸の一部が三四郎池の築山に移築され、「山上御殿」と呼ばれて会議所に使われていた。その山上御殿の跡に建てられたのが、山上会館で、前川國男の遺作となった建物であり、茶褐色の打ち込みタイルが内田ゴシックのカラーを引き継いでいる。現在は、会議室、レストランとして使用されている。
|
山上会館 |
|
山上会館 |
|
山上会館 |
|
山上会館・宇和島「かどや」 |
(3)芦原義信(1918-2003年)
芦原義信
による設計の御殿下記念館(1989)は、グランドの下に設けられた体育施設である。御殿下グラウンドは、加賀屋敷の馬場だった場所で、山上御殿の下にあることから名付けられた。地下レベルに設けた色鮮やかなモールで、内田ゴシックの尖塔アーチの外塀を残している。建築空間を上空だけでなく地下にも求めている。
なお、芦原義信は、1964年の東京オリンピックの駒沢綜合運動場の記念塔、体育館を設計している(「東京異空間20:駒沢オリンピック公園」2020/01/03参照)
|
御殿下グラウンド・内田ゴシックの尖塔アーチ |
|
御殿下グラウンド |
|
御殿下グラウンド・この地下に体育施設がある |
(4)大谷幸夫(おおたにさちお1924-2013年)
大谷幸夫の設計により、総合図書館の広場の東側に建設された文学部3号館と、広場西側に法学部4号館が同時に建てられた。(1987年)。内田ゴシックの軸線である尖塔アーチの連続によって建物を貫くアーケード空間を形成している。大谷は設計に当たり、内田祥三や岸田日出刀たちのつくっった総合図書館とその前の広場というキャンパスの「核心」を荒らすことが絶対あってはならないと、緊張し、気の重たい仕事になったという。
なお、大谷幸夫は、丹下健三の片腕として広島平和記念資料館や旧東京都庁の設計を手伝っている。
|
法学部4号館 |
|
法学部4号館 |
|
文学部3号館 |
|
文学部3号館 |
|
文学部3号館・尖塔アーチ |
|
文学部3号館・尖塔アーチ |
(5)吉武泰水(よしたけやすみ1916-2003年)
高度成長期の1960年代になると、キャンパスの狭隘化が進むいっぽう、産業構造の変化とともに社会的要請も高まり、工学部は拡充の必要性が深刻な問題となった。工学部は本郷キャンパス北端の空地に高い建築を多く建設した。1968(
昭和43)年に竣工した工学部11号館である。設計は工学部教授吉武泰水。9階建で外壁には茶褐色のタイルを貼り、内田祥三の建築群との調和を積極的に考慮した建築である。
しかし、内田ゴシックにみられるような歴史的建築は、アーチなどの入口が建物の正面性を強調しているのに対し、工学部11号館では対称性が崩れ、正面性は強調されていない。こうしたいわゆるモダニズム建築がキャンパスに建てられ始める。
|
工学部11号館 |
|
工学部11号館 |
|
工学部11号館・コンドル像は新建築のほうは向いていない |
(6)香山壽夫(こうやまひさお1937-)
吉武泰水に師事した香山壽夫は、1975年の工学部6号館増築を皮切りに、学内の多くの建物に関わっている。1983年の総合研究博物館、1984年の経済学部赤門総合研究棟増築、1995年の工学部1号館増改築、1995年の工学部14号館などがあり、これらの建物に共通して見られ特徴が、ガラスブロックを使用した外装である。
内田ゴシックのスクラッチ・タイルではなくガラスブロックを多用している。
工学部1号館の増築は、旧建物の一部を残して新しい建物が覆いかぶさるように建てられており、表から見ると内田ゴシックだが、建物裏手はガラス張りになっている。
また、いまは赤門が通行不可となっているため、その横側にある伊藤国際学術研究センターの建物のアーチを通るようになる。この建物は、セブン&アイ・ホールディングスの伊藤雅俊の寄附で、これも香山壽夫の設計で建設された。赤いタイル張りで、アーチや列柱廊もつくられるなど内田ゴシックの特徴を引き継いでいるが、全体はモダニズム建築となっている。
安田講堂の前にある広場の下に中央食堂がある(1976年完成)。地下空間を利用した内部がドーム状になった建物であるが、このリニューアルも香山壽夫が手掛けている。
|
工学部6号館 |
|
工学部6号館・両端の上にガラスブロック |
|
総合研究博物館・三角の上にガラスブロック |
|
経済学部赤門総合研究棟 |
|
経済学部赤門総合研究棟 |
|
経済学部赤門総合研究棟・入口右側にガラスブロック |
|
工学部1号館 |
|
伊藤国際学術研究センター |
|
伊藤国際学術研究センター |
|
伊藤国際学術研究センター |
|
伊藤国際学術研究センター・アーチ |
|
伊藤国際学術研究センター |
|
伊藤国際学術研究センター・列柱廊 |
|
伊藤国際学術研究センター |
|
安田講堂前の広場下の中央食堂入口 |
|
中央食堂入口 |
|
中央食堂 |
|
中央食堂 |
|
工学部14号館・入口の上にガラスブロック |
|
工学部14号館・入口の上にガラスブロック |
(7)岸田省吾(きしだしょうご 1951-)
安田講堂の向かって左側にある工学部2号館は、内田祥三が設計し関東大震災にも被害がなく、1924年に完成した。その改修、増築にあたり岸田省吾が手掛けた。旧2号館に重なるように高層階が建てられ、外側に巨大なV字の柱が設けられビル全体の荷重を支えるような形になっている。
また、グランドの横にある学生支援センターには、内田ゴシックのアーチを入口に復活させている。
|
工学部2号館 |
|
工学部2号館 |
|
工学部2号館 |
|
工学部2号館・巨大なV字柱 |
|
工学部2号館・巨大なV字柱 |
|
学生支援センター |
|
学生支援センター |
|
学生支援センター |
(8)工学部3号館
弥生門の正面の建つ工学部3号館も2号館同様、内田祥三の設計によるものであった(1939年完成
)が、こちらは解体された後、復元された。現在の建物は2013年に建てられ、旧3号館の面影を残すため、外装にスクラッチタイルが採用されている。復元スクラッチタイルをよく見てみると、形状や、色むらなどの再現が工夫されているが、やはり新しさを感じる。
|
工学部3号館 |
|
工学部3号館 |
|
工学部3号館 |
|
工学部3号館・スクラッチ・タイル |
4.戦後から現代~現代建築
これまでは、内田ゴシックのキャンパス空間を維持し、建物の保存、あるいは復元などで拡張に対応してきたが、現代に至ると、本郷通り沿いのかつては桜並木があった土地に現代建築家による新たな建物が登場する。
(1)槙文彦(1928年-)
槙文彦の設計した法学政治学系総合教育棟(2003年)。正門の脇に建てられた半透明のガラス張りの建物は、黄色く色づいた銀杏を映して美しい景色となる。内田祥三がスクラッチ・タイルを張ったのに対し、槙文彦は、一面のガラス張り内となった。内田ゴシックの統一感はない。
|
法学政治学系総合教育棟 |
|
法学政治学系総合教育棟 |
|
法学政治学系総合教育棟 |
(2)安藤忠雄(1941年-)
ベネッセの福武總一郎の寄付により建てられたことから情報学環・福武ホールを名付けられている建物は、安藤忠雄の設計による(2008年)。安藤の特徴であるコンクリート打ち放しがここでも使われている。長さが100m以上あるのに対し奥行きはわずか15mと極端に細長い。しかも地下を使っていて上には伸びていない。京都の三十三間堂をイメージしているという。コンクリートのスリットから内田ゴシックの建物も覗ける。
安藤は、経済上の理由から大学には通えず、いわば独学で建築を学んだ。東京大学特別名誉教授となり、本郷キャンパスに「進研ゼミ」で知られるベネッセの寄付による建物を設計するという取り合わせも偶然だろうか。
|
情報学環・福武ホール |
|
情報学環・福武ホール |
|
情報学環・福武ホール |
|
情報学環・福武ホール |
|
情報学環・福武ホール・打ち放しのコンクリートのスリット |
|
情報学環・福武ホール |
|
情報学環・福武ホール |
|
情報学環・福武ホール |
(3)隈研吾(1954年-)
大和ハウス工業株式会社の寄付により建てられたダイワユビキタス学術研究棟(2014年)は、隈研吾の設計になる。隈研吾の特徴である木を多用した建築がここでも使われており、建物を覆うように杉板をヒダのように貼り付けている。
木造建築は火災に弱いことから、鉄筋コンクリ-トづくりを主張したのが内田祥三である。内田は自らの下町経験も踏まえ、防火対策としての建築基準を法令化した。そのため、市街地においては鉄筋コンクリートづくりの建物に金属板、タイル、モルタルなどの不燃材で覆うようになった。
こうした内田に対抗するかのように、隈研吾は杉板で建物を覆った。ただし、使われている杉板には不燃性の塗料が塗ってあるという。
|
ダイワユビキタス学術研究棟 |
|
ダイワユビキタス学術研究棟・杉板で覆う |
|
ダイワユビキタス学術研究棟 |
(4)小柴ホール
小柴ホールは、小柴昌俊特別栄誉教授のノーベル賞受賞を記念して設立したホールで、理学部1号館中央棟にある(2005年)。理学部一号館の設計は中谷聡(東大建築科を出て日建設計に入社)による。安田講堂の真後ろにある高層建物であることから、安田講堂の写真を撮るときには、後ろに写り込んでしまう。
|
理学部一号館 |
|
小柴ホール |
|
小柴ホール |
|
小柴ホール |
|
小柴ホール |
|
安田講堂の後ろに理学部一号館が映り込む |
(5)コミュニケーションセンター
赤門横にある大学のオフィシャル商品などの販売や、インドメーション機能をもつセンターとして、2005年にオープンした。この建物は、キャンパス内では一番古い建物を利用したものである。その建物は、図書館の付属施設としての製本所であった。図書館は、山口半六、久留正道の設計により明治25年につくられたが、その後、文部大臣による図書館施設に関する訓令が出て、必要に応じ製本室を設けることが示され、明治43年、赤門横に小使室を兼ねた製本所が建設された。
関東大震災により図書館本体は被災したが、製本所自体は震災の被害を受けることなく、図書館再建を契機に、製本所は役目を終え、平成16年にはコミュニケーションセンターとして再生した。
|
コミュニケーションセンター |
|
コミュニケーションセンター |
2000年代に建てられた現代建築は、スクラッチタイルではなく、ガラスやコンクリートの打ち放し、あるいは杉板などで建物が覆われて、内田ゴシックとは、異質なものとなっている。それは、建築家の個性、特徴と言ってよいのだろうが、本郷キャンパスの統一感はなくなっている。また、こうした建物が、寄付により建てられ寄付者の名前も付けられ、かつ有名な建築家の設計にかかるものになっているという共通した点がある。
こうしたキャンパスの新建築をみて、内田はどのように感じるだろうか。内田祥三の建築に対する、そして大学に対する信念を語っている言葉を引用しておく。
「建築は一つ一つではダメだ。配置が大事だ。全体の構想こそ建築家の本領だ」
「私は、東京帝国大学というのが一つのものだから、それが一つのものであるような設計が必要だと考えた。それには個々別々な人に頼んだのでは、いかにデザインの上手な人でも統一がうまくゆかず、思うような大学はできない」
(参考)
「工学部生による東大本郷キャンパス巡り」
https://note.com/riko200702/n/nd0e8da1eb0bc
『東京大学本郷キャンパス 140年の歴史をたどる』 東京大学出版会 2018年
これまで、4回にわたり本郷キャンパスの建築空間を中心に見てきましたが、次回は、キャンパス内のモニュメント、銅像、広場など、いわば学知の空間を観ていきたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿