東京帝国大学理科大学附属植物園『東京名所図会 小石川区之部』より |
小石川植物園・入口 |
小石川植物園については、先に「小石川植物園前史」として江戸時代の御薬園~養生所を中心にまとめてみましたが、その後しばらく間が空いてしまいました。今回、明治になって「小石川植物園」としての歩みを見てみました。植物園に関わる様々な人物ーその中には朝ドラ「らんまん」の主人公である牧野富太郎もいますーを取り上げてみることによって、植物園の歴史に留まらず、明治から戦後にかけての歴史の一端を見ることができたように思います。
(参照):
東京異空間210:小石川御薬園~小石川植物園前史(2024/6/27)
1.小石川植物園の沿革
(1)御薬園から小石川植物園へ
御薬園は、幕府崩壊後、明治になって、東京府の管轄となり、以降、「小石川植物園」から、現在の「東京大学理学部付属植物園」となるまでの沿革を追っておく。
・明治元年(1868年)東京府の管轄に移し、「大病院附属御薬園」となる。
・明治2年には昌平黌の流れをくむ大学東校の管轄となって、「医学校薬園」と称する。医学校は神田・一橋付近にあった。
・明治4年には「大学東校薬園」と呼ばれた。大学校が廃止され文部省の管轄となり、博物局に併合された。
・明治6年には太政官博覧会事務局への併合された。
・明治8年に文部省所管教育博物館附属となり、「小石川植物園」と称し、名実ともに博物学の研究の場としての植物園が発足した。最終的に植物園に落ち着いたのであるが、誰が植物園という名称を提唱したか定かではないという。
・明治10年に東京大学の創立とともに大学附置の植物園となった。
・明治10年東京大学の設立に伴い、植物園は大学の附属となり、「東京大学法理文三学部附属植物園」となった。 その後まもなく、「東京大学小石川植物園」となる。
・明治17年には小石川植物園の名が外され「東京大学付属植物園」となる。
・明治19年に東京大学が帝国大学となったのに伴い、「帝国大学植物園」と称する。これ以後、植物園の名称に小石川の地名が付くことはなくなった。
・明治30年には、「東京帝国大学理科大学付属植物園」と改められる。その後も、大学の学制改革とともに正式名称も度々変わった。
・昭和22年(1947)に現在の「東京大学理学部付属植物園」となった。「小石川植物園」というのは通称となっている。
この沿革に見るように御薬園から植物園に至る過程で、次から次へと所属や名称が変わってきた。明治という激動の時代社の中で植物園の存在も変わらざるを得なかったということだろう。
(2)医学か理学か
このように小石川植物園は、ともかくも東京大学の所属となったが、その所属を巡って二つの見方があった。その一つは、小石川植物園は元来が薬草園であるのだからこれを医学部の所属とすべしとするものであり、他は植物学の研究を目的とすべきであり理学部の所属とすべしとする見方である。この両方の見方のいづれを採るかは容易に決まらなかったらしい。もし、大学校がそのまま引き継がれていたならば、東京大学医学部付属薬園として現在に至ったかもしれない。
こうした対立する見方があった中で、小石川植物園が最終的に理学部の「專ラ主管スル」こととなったことは、後の日本における植物学の発展にとって実に大きな意義をもつことになる。
(2)本草学から植物学へ~ 伊藤圭介と矢田部良吉
東京大学発足当時、その教育は多くのお雇い外人教授によって行われていたが、植物学は、はじめから矢田部良吉によって教授されていた。 大学の教授に選出された15名のうち13名がお雇い外国人であり、日本人は3人しかいなかった。そのひとりが植物学科の矢田部貞吉であった。たとえば動物学科は、大森貝塚を発見したエドワード・モースであった。
また、植物学科は日本人スタッフだけで運営されていた。その背景には、伊藤圭介の江戸時代からの本草学の蓄積があった。いっぽうで、矢田部良吉がアメリカ・コーネル大学に学び、近代的植物学を導入した。二人の略歴をみてみる。
*伊藤圭介(1803-1901)
1803年、伊藤圭介は名古屋で町医者の子として生まれ、尾張徳川藩の医者でもあり本草学者として名を知られていた。
1829年 、伊藤は、シーボルトから直接教えを受け、ツュンベルクの『日本植物誌』を翻訳し、『泰西本草名疏』を著してリンネの植物分類法を紹介している。
1861年、幕府の番所調所物産所出役に登用される。
1875(明治8)年、圭介73歳の時、政府の要請で植物園に出仕を命ぜられる。
1877(明治10)には東京大学理学部員外教授に任じられ、講義にはかかわらず、専ら植物の調査研究に当たらせた。この時、圭介は75歳。彼は同じ明治10年に『小石川植物園草木目録』を東京大学理学部印行として出版したが、これは東京大学の最初の学術出版物であるといわれる。この植物図譜は、画の質や印刷が当時の欧米の水準に達しており、世界の植物研究者から注目され、小石川の名前が世界に知られる契機となるものであった。
1881(明治14)年、圭介79歳にして、正式に東京大学教授となる。それから5年後、1886(明治19)年、老齢を持って非職となり、以後植物園への通勤も免ぜられた。
1888(明治21)年、日本初の理学博士の一人として学を受ける。また初代の東京学士会院会員となった
1901(明治34)年、数え99歳で永眠。
ちなみに、伊藤は雄しべ、雌しべ、花粉という言葉を作った事でも知られる。
(参考):
『伊藤圭介』杉本勲 吉川弘文館人物叢書 昭和63年新装版
伊藤圭介 |
*矢田部良吉(1851-1899)
1851年、伊豆国韮山で生まれる。父は蘭学者。長じて慶應初年、中浜万次郎らについて英語を学んだ。開港後は横浜に出てさらに英語を修めた。
1869(明治2)年には開成学校の教授試補になり、のちに転じて外務省に入り、森有礼に随行してアメリカに渡航した。
1872(明治5)年、矢田部22歳のとき、国費による留学生としてコーネル大学に入り、植物学を学ぶ。
1877(明治10)年、東京大学教授に任じられる。このとき27歳であった。
1882東京植物学会創立。初代会長となる。第1回の会合は小石川植物園を行われた。
1888(明治21)年東京高等女学校校長を兼任。理学博士号される。 なお、同じ年に伊藤圭介も日本初の理学博士号を授与されている。
1891(明治24)突然、東京大学教授の非職を命じられる。免官になったのは1894(明治27)年。
『日本植物図解』序文に「此業ヲ卒ヘンニハ勿論数年ヲ要スベシ」とあるも、以後続刊は絶えた。
1898高等師範学校校長
1899鎌倉の海岸で遊泳中不慮の死を遂げた。享年47。
矢田部が突然非職を命じられた背景には、*東京大学理科大学長・菊池大麓などと植物学教室の設置についての対立があったという。米国に随行させてくれた森有礼が、1889(明治22)年大日本帝国憲法発布式典の日、国粋主義者によって暗殺されたことにより、矢田部はいわば後ろ盾を失ったことにより対立の構図が変化してしまった。矢田部は非職に伴い、高等師範学校校長を務めるが、植物の研究の道は閉されてしまった。
伊藤圭介による本草学の系譜は、明治に入り近代植物学への引継ぎとなったが、伊藤の死をもって、矢田部良吉による近代植物学へと進んでいった。しかし、矢田部も学内の対立から、非職となり、植物研究を続けることはできなかった。
その後、近代植物学は、矢田部の後任となる松村任三や大久保三郎らによって進められることになり、その研究の場として小石川植物園があった。
矢田部良吉 |
*菊池大麓(1855-1917)
1877(明治10)年、英国留学から帰国し、矢田部と同時期に東京理科大学教授となり、近代数学を初めて日本にもたらした。菊池は数学者・教育者であるとともに政治的手腕もあり、後に文部大臣、貴族院議員となっている。しかし、「菊池には英語による和算の紹介以外に研究業績はない」と科学史家・中山茂は言い切っている。
菊池大麓 |
(参考):
『帝国大学の誕生』中山茂 講談社学術文庫2024年
『東京大学物語』中野実 吉川弘文館 1999年
『イチョウの自然誌と文化史』 長田敏行 裳華房 2014年
2.小石川植物園の建物
小石川植物園内にある建物について見ていく。
(1)旧東京医学校本館
小石川植物園の北隣にある洋館は、明治9年(1876年)に建造された擬洋風建築である旧東京医学校本館の前半部分で、国の重要文化財となっている。
東京医学校は東大医学部の前身であり、森林太郎(鴎外)もここで学んだ。当初は本郷キャンパス鉄門の正面に建てらたが、1911年に赤門わきに移築され、さらに1969年に小石川の現在地に移築された。現在は東京大学総合研究博物館小石川分館となっているが、耐震の関係から閉鎖されている。
池の畔に、明治の瀟洒な建物は落ち着いた佇まいを見せている。
当初の東京医学校本館 |
旧東京医学校本館 |
旧東京医学校本館 |
旧東京医学校本館 |
(2)本館~内田祥三・林達夫
本館は昭和14年竣工。東大の数々の校舎を設計した内田祥三によるもので、内田ゴシックの建築の一つとなっている。
(参照):
東京異空間157:東大・本郷キャンパスⅣ~内田ゴシック(2023/11/19)
この建物については、林達夫が戦前、「植物園」と題して『思想』1939(昭和14)年11月号に掲載された次のような厳しい見方があるので、少し長いが引用しておく。
「小石川植物園の門を這入ってだらだら坂を上ってゆくと、高台の突端に近ごろ新しく建った近代風な望楼づきの、何とも言えず散文的な洋館が見られる。私はこの一年ばかりのあいだ、たいがい月に二、三回その傍を通る習わしになっているが、それを見上げるごとにいつも一種不快の念を禁じえない。他の場所においてならそれほどまでに気にならないかも知れぬこの建物が、そこの年古りた、落着きのある環境のなかにあると、まるで西洋の話に出る感化院の監視塔のように殺風景に見えて、植物園の歴史的伝統をも自然的景観をも完全にぶちこわしているのである。当事者の文化感覚の低劣さに今更あきれざるをえない次第であるが、しかしこの建物に対する私の反感は、そうした心なき文化的蒙昧者の審美的ないし歴史的ぶちこわしに由るばかりでなく、それがまたわが国「官僚」文化の通弊たる本末転倒というものをあまりにも露骨に示していることからも来ていることが明らかである。」(『思想』1939(昭和14)年11月号)
*林達夫(1896-1984)が、この評論を発表したのは、『思想』1939(昭和14)年11月号である。この時期は、1937年に日中戦争が、1939年9月には、第二次世界大戦が、1941年には大平洋戦争が勃発し、1940年には大政翼賛会が発足するなど、次第に戦時体制が強化されていった。林は、戦後に書かれた『歴史の暮方』の序で、この時代を「わが国は世を挙げてあたかも一大癲狂院と化しつつあるの観があった」と述べている。ここに収められた評論「植物園」は、本館の建物に象徴させて、時代の流れに抗している。明治以降、東京大学が帝国大学となり、官僚たちを輩出し、国の流れを大きく形成してきた。そうした官制エリート、アカデミズムに対する鋭い批判が込められている。
令和の植物園が「歴史の暮方」とならないように願いたいものだ。
*林達夫は、戦前戦後をとおして知識人として活躍したが、最近ではその名もあまり知られなくなったようだ。今年、2024年は没後40年である。林の仕事のひとつとして編集者としての顔がある。とりわけ、平凡社『世界大百科事典』の編集責任者として最大の仕事を成し遂げている。
(参考):
『歴史の暮方』林達夫 中公クラシック 2005年
本館 |
本館 |
本館 |
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(3)柴田記念館~ 柴田桂太
内田ゴシックの本館の向かい側には、瀟洒な小さな建物が建っている。理学部植物学教室の教授であった柴田桂太が大正7(1918)年に「フラヴォン族化合物の植物界に於ける分布及其生理学的意義に関する研究」に対して帝国学士院より恩賜賞を受け、大学に寄付した基金により「生理化学研究室」として大正8年に建設された建物で、 柴田もこの建物で研究した。
今は植物園のいわばミュージアムショップのようになっていて、柴田記念館と呼ばれている。柴田桂太(1877-1949)略歴をみておく。
1877(明治10)年 東京に生まれる
1899 東京帝国大学理科大学植物学科卒業
1910 ドイツ留学 植物生理学を学ぶ
1912 東京帝国大学理科大学助教授、日本で最初の植物生理学・生化学の講座を開いた。 18年教授
1919 植物生理化学実験室を私費で設立
1933 東京帝国大学理学部長
1938 東京帝国大学を定年退官 日本植物学会長
1949 逝去(享年72)
植物生理化学の開拓に意欲を燃やした柴田は、新しい研究室を自力で建てた。たまたま受けた恩賜賞副賞1000円を基に、慶應幼稚舎時代にの友人が不足分を提供し、5000円を大学に提供した。実際に要した金額は総額5061円だったという。
柴田記念館 |
柴田桂太 |
(参考):
『近代日本生物学者小伝』木原均ほか監修 平川出版社 1988年
3.記念樹
園内には、いくつかの記念樹がある。そのうち、イチョウとソテツはその精子発見となった記念樹である。記念樹にも、それにかかわる人と歴史が込められている。
また、柴田記念館の近くにリンゴの木とブドウの木が植えられている。こちらは世界的にも知られている人物に関わる記念樹である。
(1)精子発見のイチョウとソテツ~平瀬作五郎と池野成一朗
本館の前の道を進んでいくと、樹齢約300年というイチョウの木がある。この木から平瀬作五郎によってイチョウの精子発見された。それは、近代植物学を西洋から学ぶ日本人による世界的な大発見の第一号であるといわれる。
平瀬作五郎(1856-1925)は、福井県生まれで、藩校で勉学し、油絵を学び、岐阜県中学校の図画教師であった。東京大学へ来るようになったきっかけは当時の植物学教室の教授である矢田部が画は不得手ということで、画工を欲していたことによる。画工は、洋画を学んだ人が植物画を描くために技士、助手として小石川植物園に抱えられていた。ところが、研究熱心で器用な平瀬は技士を経て、助手となり、研究に従事したのである。 そして、1896(明治29)年に、運動するイチョウ精子が平瀬により観察されたとき、傍らにいてその意義を直ちに理解して、それを発信したのは*池野成一郎であるといわれている 。研究の上でもまた論文発表に関しても、池野は平瀬を大いに助けた。
しかし、平瀬は、イチョウ精子発見という世界的大発見の翌年に東京大学を辞職して、彦根中学校の教員として赴任している。その後、花園中学校へ移動し、南方熊楠との交流とわずかの論文発表が知られるのみで、表舞台に出ることはなかった。
(追加)南方熊楠との交流について
平瀬は東大を辞職した後は、研究を続けられなかったように思えるが、実は、1906年にはイチョウの研究を再開し、クロマツやマツバランの発生についても手掛けていた。1907年頃からは、南方熊楠とマツバランの共同研究を始めている。平瀬は何度か田辺に熊楠を訪れ、マツバランの発生の研究を行った。しかし、オーストラリアの学者に先を越され、結果として二人の努力は実らなかった。
東大を追われたというと、研究など全くできず、後世を過ごしていると思われがちだが、案外、好きな研究を気楽に打ち込めていたようだ。(参考:『在野と独学の近代』志村真幸 中公新書 2024年)
平瀬の辞職の理由は、やはり自分を採用してくれた矢田部良吉の非職と関連していると推定されている。また、矢田部を補佐してきた*助教授大久保三郎も非職となっており、これによって矢田部の関係者は一掃された。大久保も高等師範学校の教授となったが、東京大学を辞した後はまったく植物学に関係した論述を行っていない。こうした矢田部の東大内部での争いの関連で平瀬作五郎も退職したのであろうと考えられている。
平瀬のイチョウの精子発見とほぼ同時にソテツの精子が池野成一郎(当時、農科大学(農学部)助教授)によって発見された。のちに、池野は、1912年にソテツ精子発見により帝国学士院恩賜賞を受けるのであるが、その際、初めは池野のみ推薦されたが、平瀬と一緒なら受けてもよい、ということで両者の受賞が決まったという。
平瀬が東大を去ったのち、表舞台に出ることはなかったが、唯一の例外は池野成一郎とともに学士院恩賜賞を授与された時であった。
平瀬作五郎 |
イチョウの精子発見の記念碑 |
ソテツの精子発見 |
ソテツの精子発見 |
ソテツ |
*池野成一郎(1866-1943)
池野成一郎は東京駿河台生まれの江戸っ子で、正統的な高等教育を受けた。予備門、東京大学理学部、大学院を経て、駒場にあった東京帝国大学農科大学の講師として勤め、助教授、教授と進み、1912年にはソテツ精子発見により帝国学士院恩賜賞を受け、1913年には学士院会員に選出された。
研究領域としては、当初は顕微鏡を駆使して、ソテツ精子発見をはじめ、細胞学研究を推進したが、当時の顕微鏡はアーク燈を用いていたため、発生する紫外線で眼を痛め、また酷使により視力を著しく損なった。このため、後に育種学、遺伝学方面へと転じ、日本遺伝学会の初代会長となった。
池野成一郎 |
*大久保三郎(1857-1914)
幕臣で後に東京府知事・子爵となった大久保一翁の子として生まれた。1883 (明治16)年、助教授に昇進し、 矢田部良吉を補佐し、標本施設拡充や日本植物学会の設立などに貢献した。 また、牧野富太郎と連名でヤマトグサを日本で初めて学名をつけて発表した。
1865(明治28)年に、それまで一講座であった植物学科に新たに第二講座が設置されることになったが、その担当教授となったのはドイツ留学から帰国した後輩の三好學であった。大久保は教授となることなく、同年、やはり非職となった。
東大内部の権力争いにより、矢田部、大久保が非職となり、正規の学歴を持たない平瀬は助手として採用されるも、その軋轢に巻き込まれていたのだろう。
大久保三郎 |
(参考):
『イチョウの自然誌と文化史』 長田敏行 裳華房 2014年
『画工の近代』蔵田愛子 東京大学出版会 2024年
(2)牧野富太郎と池野成一朗
池野が助けたのは平瀬だけではなく、矢田部良吉から植物学教室の出入りを禁じられていた牧野富太郎も、呼び戻され、平瀬とともに助手に任命されている。富太郎は、『自叙伝』のなかで、池野との友情は生涯、忘れられないものだった、と綴っている。
牧野富太郎については、2013年にNHKの朝ドラ「らんまん」の主人公として取り上げられ、その生涯も広く知られるようになった。
牧野富太郎は、高知・佐川から東京に出て、1884(明治17)年に東京大学で研究を許され、矢田部に師事して日本植物の調査研究を鋭意行っていた。しかし、その後、1889(明治21)年には、東京大学の正規の学生ではなかったことから矢田部により出入りを禁止された。
しかし、1893(明治26)年に、平瀬がイチョウの研究をはじめ、植物学教室の助手に抜擢されたとき、矢田部から植物学教室の出入りを禁じられていた牧野富太郎も、呼び戻され、平瀬とともに助手に任命されている。これも池野の援助によるとされる。
牧野は助手となり、矢田部の後任となった教授・松村任三の下で働くことになった。 ここでも、牧野と松村は学問的な対立というよりは感情的な対立になってしまい、松村は牧野を追い出そうとした。これに理科大学長となっていた箕作佳吉(かつて矢田部と対立していた)が反対し、箕作のあとの新学長となった桜井錠ニも特に理由もなく牧野をやめさせるのはおかしいという立場だった。
結局、牧野は講師の立場で採用されることになり、松村の追い出し工作は失敗して、むしろ助手の時代よりも待遇がアップしてしまった 。
松村は、1922(大正11)年、定年のために東京帝国大学を退職することになるが、いっぽう牧野は講師であり、教授と違って1年契約の繰り返しなので定年がない。大学は牧野富太郎との契約を打ち切ることはなかった。結果、松村任三が去っても牧野富太郎は残ることになった。牧野は、1912(明治45)年(牧野49歳)から1939(昭和14)年(77歳)まで東京帝国大学理科大学講師を勤めた。
牧野の一途な「植物愛」は、権威主義的な松村や、研究室の同僚との軋轢を生じたが、それを乗り越えて生涯を植物研究に没頭させたということだろう。まさに「らんまん」(天真爛漫)の人生であった。
牧野富太郎 |
松村任三 |
(2)ニュートンのリンゴ
物理学者ニュートン(1643-1727)が、リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したという逸話は有名である。ニュートンの生家にあったその木は接ぎ木によって、イギリスだけでなく、アメリカ、ドイツ、スウェーデンなどの科学に関係ある施設に分譲されて育てられている。植物園の木は1964(昭和39)年に英国物理学研究所長サザーランドから日本学士院長柴田雄次に贈られた枝を接ぎ木したもの。
このニュートンのリンゴは、「ケントの花」と呼ばれる品種で、収穫前に落果する性質が強い品種だという。もしこれがあまり落果しない性質のりんごであったら、万有引力発見の逸話は生まれなかったかもしれない。なお、食べてもおいしくないそうだ。
ニュートンのリンゴ |
(3)メンデルのブドウ
遺伝学の基礎を築いたメンデル(1822-1884)が実験に用いた由緒あるブドウの分株で、「メンデルのブドウ」と呼ばれている。これは第2代園長を務めた三好學が、1913(大正2)年チェコのブルノーに、メンデルが在職した修道院を訪ねたとき、旧実験園に残っていたブドウの分譲を依頼して、その翌年に同地から送られてきたもの。この後、メンデル記念館のブドウは消滅したことがわかり、本園のブドウを里帰りさせて、現地にも同じブドウの株を復活させた。
なお、このブドウの木を株分けした大分県の公的機関がワインを非売品としてつくったことがあるという。ワインの専門家によると、古いタイプの品種であろうと評価されたが、品種名までは判明していないという。
メンデルのブドウ |
メンデルのブドウ |
文京区シビックセンターの展望ラウンジから眺めると、緑に囲まれた小石川植物園が見えます。都会の真ん中にある緑は憩いの場のように見えます。しかし、その歴史をたどってみると、江戸時代の御薬園、養生所から明治になって東京大学の付属植物園として植物学研究の場となっていました。その東京大学(帝国大学)内部では、派閥争い、権威主義的な人事が行われていたようです。
この植物園に関わる人々を通してその歴史の一端を見ることが出来ました。かつて林達夫が「歴史の暮方」と言ったような時代にならないように、植物園が研究の場、そして憩いの場として存在し続けて欲しいと思います。
文京区シビックセンターの展望ラウンジから見る小石川植物園・手前に本館の塔が見える |
小石川植物園・案内板 |
小石川植物園・道路標識 |
東京帝国大学理科大学附属植物園 |
『東京名所図会 小石川区之部』 監修:宮尾しげを 睦書房 1969年
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