2024年9月15日日曜日

東京異空間224:「神輿ーつながる人と人ー」@國學院大學博物館

國學院大學の学園祭「若木祭」で担がれる神輿

國學院大學博物館で開催されていた企画展「神輿つながる人と人」を観てきました。神輿についての絵画資料などが展示されていて、神輿についての歴史などを知ることが出来ました。

展示品は、ほとんどが撮影可でした。



1.神輿のはじまり

神輿を用いた祭礼は平安時代の中頃に成立し、その後、各地に普及していった。

古代において、神霊は「坐(ま)す」という表現が多く使れているという。つまり、古代の神様というのは本来は、その土地と密接に結びついていて、乗り物=神輿に乗って出かけるということは、極めて特異な状況だったという。八幡神ほか、特定の神々を除けば、原則として移動することはなかった。その例外的な事例として、749年に宇佐八幡宮の八幡神が東大寺の大仏建立を助けたいとの宣託を下し、平城宮へ一か月をかけ上京したという話がある。ただし、この時に神輿を使用したかは明確ではないという。

これに対し、神輿の明確な記録は、945年、*志多羅(しだら)神など三基の輿を数百人の老若男女が担ぎだし、摂津国から京へ移動していたという記事があるという。

この時代、平安時代の半ばには、多くの災害、洪水や干ばつ、さらに承平・天慶の乱(平将門や藤原純友の乱)のような内乱も起きるという社会的不安が大きくなっている時代に人々に近いところ神様がやってきてくれる、その神様の乗り物が神輿であった。

その後、神輿で神々が移動する形は、平安京で定着する。その先駆けが972年、疱瘡の蔓延に対処するために始まった祇園社(八坂神社)の御霊会だという。

*志多羅(しだら)神

志多羅神は志多良神、設楽神とも書かれ、当時の新興の神であった。主に西国の民間で勢威があったとされる。945年(天慶87月)に入京した際には、道中で村から村へと移座しており疫神とも考えられている 。

《年中行事絵巻》祇園御霊会:神輿が御旅所より祇園社へ還御する様子を描く。



2.神輿の行列

神輿が移動する際に、多くの人々がその神輿を捧げて動くだけではなく、供え物も持ち、歌って踊って行列を作っていく。神様=神輿を中心にして社会不安を吹き飛ばすような形で、大騒ぎしながらみんなで賑やかに移動する。行列には、神職や天狗などの面をつけた人、芸能の中には獅子舞、お囃子や踊り、祭具や道具には鉾や傘をつけ、それを載せた車輪のついた屋台・山車などが従っていく。

神輿と屋台・山車との違いは、「神輿」は人が担ぐのに対して、「山車」には車輪がついており、人の力で引いたりして移動する。「山車」は天から地上に降りた神様をおもてなしする場所であり、神様は山岳や山頂に降りると考えられていることから、山岳をイメージしてつくられている。そこから「山車」の字があてられたという。「山車」の最も高い部分は山頂を表しており、そこに神様が降りてくる。それをお囃子などでおもてなしするため、人が乗り込むことができるようになっている。なお、「山車」と同じような意味合いを持つものに「屋台」「曳山(ひきやま)」「だんじり」「山笠」などがある。

《香取神宮神幸祭絵巻》:香取神宮を発し香取の海(利根川)辺りの津宮までの行列を描く。



《付喪神絵詞》:行列には巫女、獅子、鉾を持つ付喪神などが続く。



《稲荷神社両御霊神社私祭之図》:行列には「剣鉾」と呼ばれる鉾の剣先が前後に揺れ、神輿が通る道を清める意味がある。


《天王御祭礼宮出之図》:神田明神に鎮座する牛頭天王の祭礼では、現在の銀座、日本橋界隈に設けられた御旅所まで神輿が渡御した。この行列は、神輿を中心に真榊、鉾、玄武、白虎などの四神、太鼓、獅子などが続く。


3.神輿の渡御・御旅所

「渡御」というのは、神霊の移った神輿が移動することで、その場にとどまる場所を「御旅所」という。渡御するところは地域に暮らす人々にとって重要な場所になっていて、陸上のみならず、海浜や川辺に渡御する「浜降祭」、あるいは船載せて海上や川を渡御する「御船祭」など勇壮な祭りがある。

なお、「渡御」には天皇・皇后などがおでましになるという意味もある。

《山王祭礼図屏風》:日吉大社の山王祭の神幸行列を描く。右隻は日吉社を発した神輿が坂本の町を進む様子を、左隻には琵琶湖畔で船に載せられた神輿が沖で、松に象徴される幣帛を捧げられる様子を描く。






《祇園社祭礼図屏風》:神輿が鴨川から祇園社へ還御する様子を描く。神輿に神饌と御幣が奉られ、その前で僧侶・神職によって儀礼が行われている。



《剪刀細工俎上ケ燈篭絵 祇園御祭礼之図》:神田明神の牛頭天王の御旅所の一つ、日本橋界隈の小舟町につくられた。


《和歌浦御祭礼御渡絵巻》紀州東照宮の御旅所の様子を描く。



4.神輿を担ぐ人々

神輿の担ぎ方、掛け声、お囃子や唄、装束などにはそれぞれ地域によって特徴がある。江戸の祭りを参考にすれば、担ぎ方には、2通りあり、一つはそろいの白張や烏帽子を着け、儀式的に静かに担ぐ方法、もう一つは多くの担ぎ手が揉み合うように担ぐ方法がある。神輿を激しく揺さぶるのは、さらに神様の力を高めて豊作や大漁を願うという意味がある。

また、担ぎ手も神社や地域集団によって決められており、誰もが担げるものではない。しかし、神田明神の牛頭天王の祭礼のように地域の若者が決められた担ぎ手を押しのけて担いでしまうこともあった。これは、遊興的な意味だけでなく、神威にあやかろうとする願いも込められていたようだ。

《天王御祭礼之図》:江戸の天王祭の様子を描く。中央には荒々しい男たちが揉み合うように神輿を担いでいる。男たちは「これを担げば疫病を免れる」と競って担いだ。


《東照宮祭礼絵巻》
:日光東照宮の東照大権現=徳川家康の神霊を祭る。白張姿の担ぎ手が粛々と儀式的に担ぐ様子を描く。


担ぎ手としては、平安時代、比叡山の僧兵などが日吉神社の神輿を担ぎ出し、京都へ進入し、神威をもって朝廷への強訴をした歴史もある。その様子を描いた前田青邨の《神輿振(みこしぶり)》は、このあいだ東京国立博物館で観た。

(参照):

東京異空間221:近世・近代の美術@東京国立博物館・本館2024/8/29

5.神輿と地域

京において形成された神輿を伴う祭礼は、他の地域の人々と神社の神職たちによって広がっていった。それは祭礼により、自分たちの神を求め、地域の連帯を形成することにつながっていた。

明治時代になると、北海道が明確に日本の領土に組み込まれ札幌にも神社札幌神社(現・北海道神宮)が建てられ、祭礼により開拓民同士の絆が生まれた。

神と人とをつなぐものである祭りには、人と人とをつなぐ力もあり、神輿は、その象徴ともいえる。疫病や自然災害などにより、人と人との関係や地域が危機に陥った時、祭りの持つ力が、そこからの回復・復興に役立つものとなった。

《官幣大社札幌神社鎮座三十年紀年祭市街御巡幸之図》:明治32年に行われた札幌神社鎮座30年記念の祭礼の様子を描く。


(参考):

図録『神輿ーつながる人と人ー』國學院大學博物館 2024


夏から秋にかけては、各地でお祭りが行われます。その神輿について、この企画展では絵画資料を多く展示し、その歴史や形態、さらにそれを担ぐ人々の姿を浮き彫りにしてくれていました。神輿は、神と人々をつなぎ、さらにそれぞれの地域における人と人とをつなぐ力があるということです。

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