2026年5月10日日曜日

東京異空間420:彫刻・工芸~東京国立近代美術館コレクション展

 

平櫛田中《鶴氅》 

東京国立近代美術館コレクション展の中から、彫刻と工芸の作品を取り上げてみました。いずれも超絶技巧による素晴らしい作品です。

1.彫刻

米原雲海(1869-1925)《清宵》 1907

米原雲海は、高村光雲の門下で山崎朝雲と並び「光雲門下の双璧」と称された彫刻家。本作は彼の卓越した彫刻技術と、近代的な表現への挑戦が結実した一品である。

この作品は、幼少期に「阿呼(あこ)」と呼ばれた菅原道真が、月明かりの下で梅の花に感銘を受け、初めて漢詩「月夜見梅花」を詠んだという有名なエピソードに基づいてい る。阿呼の視線の先には梅の枝があるという設定である。この逸話を「阿呼詠詩(あこえいし)」といい、日本画や彫刻の画題となっている。

漢詩:「月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉芳馨」

大意:月の光は晴れた日の雪のようであり、梅の花は輝く星のようだ。月が空を巡り、庭には玉のような梅の香りが漂っている。





平櫛田中(1872-1979) 《鶴氅》 1942

岡山県井原市に生まれる。大阪で人形師に師事した後、東京で高村光雲や岡倉天心の指導を受け、伝統的な木彫技術に写実的な精神性を融合させた作品を多く生み出した。100歳を超えても「30年分の材料」を購入して制作を続けたエピソードで知られ、130歳まで働く意欲を持っていたという。 

「鶴氅」とは鶴の羽で織られた、神仙がまとうとされる非常に高貴な衣のこと。着ているのは東京美術学校の初代校長を務めた岡倉覚三(天心)。また、日本美術院の創設者であり、平櫛田中は天心に直接指導を受け、深く尊敬していた。

鶴氅をまとい、遠くを見つめる天心の姿は、現実を超越した高尚な人物として描写されており、岡倉を神聖化しようとする意図が読み取れる。







新海竹太郎(1868-1927)《ゆあみ》  1907

山形の仏師の長男に生まれる。 初めは軍人を志し、1888年近衛騎兵大隊に入営した。手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官だった北白川宮能久の薦めもあり、彫刻家志望に転じた。軍より北白川宮能久親王騎馬銅像の制作依頼を受け、1899年に原型を完成させた (現在、北の丸公園内に設置)。1900年に渡欧し、 ドイツでアカデミックな彫刻技法を身につけた。

代表作《ゆあみ》は、日本における近代裸婦彫刻の先駆的な作品であり、ドイツで学んだ高度な西洋彫刻技術と、日本的な主題を融合させた記念碑的な傑作とされる。 日本人女性をモデルにしているが、そのプロポーションは西洋的な理想美に基づいた八頭身に近いラテン型に調整されている。一方で、髪型は天平風のまげを結い、手には手拭いを持たせるなど、細部には日本的な要素が取り入れられている。

当時はまだ裸体を芸術として見る意識が低かったため、その表現が大きな物議を醸した。新海はそうした批判を予見し、裸婦の手元に手拭いを持たせ、腰回りをわずかに隠すような控えめなポーズをとらせることで、単なる裸体ではなく「入浴」という日常的な主題(世俗性)の中に芸術的な崇高さを表現しようと試みた。ところが、この配慮が、かえって裸体表現の妥当性を巡る議論を加速させることとなった。

当時の裸体像は、ギリシャ神話の女神のように現実離れした理想の姿であれば、高尚な芸術として(建前上は)許容される傾向にあった。しかし、手拭いを持たせ「ゆあみ(入浴)」という日常の文脈を与えたことで、観る者に「近所の女性の入浴シーン」という生々しい現実を連想させてしまい、「これは単なる猥褻な姿ではないか」という疑念を強めてしまうこととなった。 しかも、手拭いで一部を隠そうとするポーズは、見る側にとっては「隠されているからこそ、その下の裸体が意識される」という心理的効果(チラリズムに近い感覚)を生み出し、これが、純粋な造形美を鑑賞する邪魔になり、かえって劣情を煽るものだと批判される原因となった。その結果、当時の硬直した「芸術か 猥褻か」の対立構造の中では、火に油を注ぐこととなってしまった。









高村光太郎(1883-1956) 《兎》  c1899

父は近代木彫の巨匠・高村光雲であり、幼少期から卓越した彫刻技術を学んでいた。この作品は、光太郎が東京美術学校在学中、あるいは留学前(1617歳頃)の若き日の小品である。

父・光雲の技術を受け継ぎながら、後のロダン風の力強い作風とは異なり、繊細で写実的な動物の姿を捉えている。




高村光太郎 《手》 c1918

この作品は、ロダンの強烈な影響下で制作された。ロダン風の、筋肉や腱が強調された指先まで意志が通っているような動き(生命感)を表現している。また、 ロダンと同様、身体の一部(手や足)だけで、全身と同様の感情や概念を表現した

親指を反らせて薬指と小指を曲げ、手の内部にある骨格や血管、そして精神的な緊張感まで表現されている。この手は、仏像の印相の一つである「施無畏印」をモチーフにしているとされる。これは、人々の恐れを取り除く、慰めるという意味を持つ。 この作品は光太郎自身の左手を石膏で型取りし、それを基に再構成して制作されたと言われており、単なる肉体の一部としての表現を超え、光太郎自身の内面や精神のドラマが手という部分に結晶した作品とされている。

当時、光太郎は妻である智恵子との生活や創作活動の中で、彫刻家としての自己の存在を極限まで追求していた。この「手」は、ものを創り出す手、愛する人を抱く手、そして苦悩する手として、彼自身のアイデンティティを象徴しているようだ。





オーギュスト・ロダン(1840-1917)《トルソー》 制作年不詳

「トルソー」とは人間の胴部を指すイタリア語。当時の美術界では、手足が欠けたギリシャ彫刻は「時の流れによる破損」とされていたが、ロダンはそこに「不完全であるからこそ、むしろ身体の本質(生命力や塊)が強調される」という新たな美を見出しました 手足がなくても、筋肉のうねりや、背中、腹部のトルソーだけで、人物の感情やエネルギーを十分に表現できるとし、あえて仕上げを途中で止めることで、観る者の想像力を掻き立て、作品に動きや生命感を与える作品を生み出した。

ロダンのトルソーは、単なる破損した彫刻ではなく、「人体が持つ生命の根源的な力」を凝縮して捉えた、近代美術における最大の発明の一つとされる。





橋本平八(1897-1935) 《幼児表情》 1931

橋本の故郷は伊勢神宮の近くで、神仏を尊ぶ価値観や仏教彫刻に触れ、自身でも仏像などを多く製作するなど少なからぬ影響を受けていた。一方で弟の北園克衛を通じて、シュルレアリズムなどの西洋美術なども研究し、 古今の洋の東西を超越した前衛的な表現を追求した。

この木彫は、角材から幼児が掘り出されたかのような直立姿勢が特徴。腕を体に密着させ、装飾を削ぎ落とした直線的な表現には、エジプト彫刻のような安定感と静謐さが漂っている。

平八は自著『純粋彫刻論』の中で、この作品を「1歳前後の幼児の野獣性と人間性との交叉を取り扱ったものであって歓喜の情である」と述べている。





舟越桂(1951-2024) 《森へ行く日》 1984

彫刻家・舟越保武の次男として生まれる。 小学3年生のころには父と同じように彫刻家になることを漠然と意識していた。高校生時代はラグビーの練習に明け暮れていたが、美術予備校の夏期講習に参加したことで彫刻家になる意思を固めたという。

作品は、クスノキに着彩し、大理石の眼(玉眼)をはめ込んだ、静謐で詩的な人物像が多い。特徴的なのは玉眼の配置。ふたつの黒目はわずかに水平をずらして外向きに開き、視線の焦点は追い切れない。前に立ってもこちらと目が合わない。

この玉眼の手法は、材質に迷っていたとき、父親のアトリエにあった大理石を使用したのが始まりである。半球の大理石をコーティングして光らせ、竹の釘で留めたあと接着剤で補強する。これは鎌倉時代の仏像の技法をアレンジしたものである。





舟越直木(1953-2017) 《Monday 2006

舟越直木は、戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武を父に、現代彫刻の第一人者である舟越桂を兄に持つ芸術家一家に生まれた。父や兄が人物像など具象彫刻で知られるのに対し、直木は絵画から出発し、後に抽象的かつ詩的な彫刻へと転じた。

この作品は、タイトル「Monday(月曜日)」が示す通り、週末の休息を終えて新しい週の始まりを感じさせるような、内省的あるいは静かなエネルギーを持つ作品で、 抽象的なフォルムや質感の表現に重きが置かれており、光と影の陰影によって作品の表情が変化する特徴がある。



父・保武、兄・桂、三男・直木の三人の特徴は次のようである。

舟越保武:崇高な美と信仰
ロダンの影響から始まり、日本における本格的な石彫の先駆者となる。カトリック信者として《長崎26殉教者記念像》など、宗教的な敬虔さと気高さ、そして「未完成の完成」とも評される、磨きすぎない大理石の質感を大切にした。

* 舟越保武《長崎26殉教者記念像》


舟越桂:現代の肖像と異形
父の石彫とは対照的に、楠による木彫で「自分と向き合う」人物像を確立した。一見写実的だが、長く伸びた胴体やスフィンクスのような異形性を取り入れることで、現代人の心の深淵や遠い記憶を表現している。

舟越直木:自由な形と詩心
具象にこだわった父や兄に対し、直木は「不定形の塊」によって、特定の意味を押し付けない自由な表現を求めた。《Monday》のように、石膏を少しずつ盛り上げ、削り、再び盛るというプロセスを通じて、絵画のドローイングのようなみずみずしい気配を空間に立ち上げている。

直木は、偉大な父や兄の影に隠れることなく、「形にならないものを形にする」という独自の抽象表現を切り拓いた「もうひとりの異才」として評価されている。

メダルド・ロッソ(1858–1928) 《この少年を見よ》 c1920-25

メダルド・ロッソはイタリアの彫刻家。 ロッソの作品を比類なきものとしている大きな理由の一つは蠟(ワックス)を用いた造形で、この半透明の素材により、彫刻はその表面に光を孕み、周囲の空間と溶け合い一体となるような表現となる。ロッソの彫刻はしばしば絵画的とされ、またフランスの印象主義との関係が指摘される。

この作品は、イギリスの富豪からの依頼で制作され、モデルは依頼主の子供である6歳の男の子。 ロッソがロンドンにある依頼主の邸宅を訪れた際、窓辺のカーテンから覗く、あるいはカーテン越しに現れた子供の姿に光の印象を感じ、それを形にしようと試みた、というエピソードが伝えられている。

タイトルの「Ecce Puer」の意味は、ラテン語で「この少年を見よ」を意味する。これは、ポンティオ・ピラトがイエス・キリストを指して言った「エチェ・ホモ(この人を見よ)」という聖書の言葉を引用したもので、子供の純真無垢な表情を崇高なものとして表現している。 ちなみに、フリードリヒ・ニーチェの自伝的な書物 『この人を見よ』(原題:Ecce Homo)は、よく知られている。





2.工芸

初代宮川香山(1842-1916) 《鳩桜花図高浮彫花瓶》 c.1871-82

初代宮川香山は、京都の陶工・真葛長造の四男として生まれ、明治初期に横浜へ移住して「眞葛窯」を開いた。

当時、明治政府は「殖産興業」を掲げ、日本工芸品を海外へ輸出して外貨を稼ぐことを奨励していた。香山はこの期待に応えるべく、欧米人の目を引く、斬新で立体的な「高浮彫」技法を確立した。

この作品は、桜の木にとまる鳩の姿が今にも羽ばたきそうなほどリアルに、かつ大胆に盛り上げられている。





駒井音次郎(1842-1917) 《鉄地金銀象嵌人物図大飾皿》 c.1876-85

音次郎は、京都の刀剣商・駒井清兵衛の三男として生まれた。13歳の頃に肥後の金工師・三崎周助から「布目象嵌」の基礎技術を学んだ。

駒井家は、1841年に駒井清兵衛が創業したとされ、代々武士のための刀剣類や刀装金具の制作を手がけていた。明治9年(1876年)の廃刀令により、刀装具の仕事が完全に途絶える危機に瀕する。しかし音次郎はこれに先んじて、明治6年(1873年)頃から外国人向けの置物や装飾品の制作を開始し、国際貿易港であった神戸で販売を開始していた。この先見の明が功を奏し、欧米人の間で絶大な支持を集めた。

この大飾皿には、駒井家が得意とした「布目象嵌」の技術が惜しみなく投入されている。布目象嵌とは、鉄の表面に細かい格子状の溝を刻み、そこに金や銀を打ち込んで緻密な模様を描く技法で、これにより漆黒の鉄地に映える絢爛豪華な世界が表現されている。

この作品は、武具製作で培われた日本の伝統技術が、近代化という荒波の中で「芸術」へと昇華したプロセスを証明する貴重な資料 のひとつとなっている。





金森宗七(1821-1892) 《花鳥文様象耳付大花瓶》 c.1892

富山県高岡の金屋町に生まれる。 24歳で独立し、御馬出町に銅器問屋「金宗」を構え、当初は仏具などを扱い、東北から西日本まで全国に販路を広げた。

宗七は、廃藩置県により失職した加賀藩の腕利きの御細工師を高岡に招き入れ、地元の職人を養成した。これにより、もともと実用品中心だった高岡の鋳物に、武家金工の高度な装飾技術が融合し、世界に通じる美術工芸品へと進化を遂げることになった。

1873年のウィーン万博や1878年のパリ万博でも受賞を重ね、高岡銅器の名声を世界に確立した。また、明治政府の「図案配布制度(温知図録)」も積極的に活用し、常に世界の需要に合わせたデザインを追求していた。

金森宗七の「花鳥文様象耳付大花瓶」は、明治時代の高岡銅器を代表する傑作であり、当時の日本が国家を挙げて工芸品を海外へ発信しようとした歴史的背景を色濃く反映している作品とされる。








鈴木長吉(1848-1919) 《十二の鷹》より四、五、六 1893

1848年に武蔵国入間郡(現在の埼玉県坂戸市)で生まれる。叔父の岡野東龍斎に師事して5年間「蝋型鋳造」を学び、18歳で独立して江戸で開業した。明治維新後、工芸品の海外輸出を担った「起立工商会社」の鋳造部監督に就任する。1876年のフィラデルフィア万博や1878年のパリ万博など、数々の国際博覧会で金賞を受賞した。

この作品は、異なる姿勢や特徴を持つ12羽の鷹が、それぞれ異なった台座(岩など)の上に配置された置物シリーズで、「蝋型鋳造」により、鳥の繊細な羽一本一本まで金属で精巧に表現され、着色技術によって生々しい表情が加えられている。

「蝋型鋳造」とは、 蝋で作った原型を土で包み、焼いて蝋を溶かし出した後の隙間に、溶けた金属を流し込む手法で、長吉は、この技法に加えて金属の色彩を自在に操る技術を持っていた。化学反応や熱処理によって、金属を「栗色」「青紫」「瑠璃色」など、多種多様な色に発色させ、動物の生々しさを表現した。この技法によって12羽すべてが異なる表情やポーズで命を吹き込まれている。

長吉はリアリティを追求するため、実際に鷹を数羽飼育してその習性や骨格を観察した。さらに、鷹匠への取材や古文書、名画の研究を重ね、江戸時代の将軍の儀式を復元する形で4年の歳月をかけて完成させた。

この作品は、1893年に開催されたシカゴ・コロンブス世界博覧会への出品を目的として、パリを拠点に活動した美術商・林忠正が発案し、当時「鳥の長吉」として名高かった鋳金家・鈴木長吉に制作を依頼したもので、制作には、彫金、漆工、染織など各分野の専門家24名が動員された。

鈴木長吉の《十二の鷹》は、まさに「日本の美」を金属という硬質な素材で体現した、明治の職人魂が詰まった傑作である。なお、近年の修復調査により、失われていた「架垂(かたれ)」と呼ばれる装飾布や、脚をつなぐ「大緒(おおお)」も当時の姿で復元された。












香川勝廣(1853-1917) 《銀製置物 蓑亀之彫刻》 1908

江戸の下谷で生まれた。若くして様々な芸術技術を学び、13歳で能面師の有吉吉長に木彫り、柴田是真に絵画を学んだ。その後、野村勝守や明治の金工界の第一人者である加納夏雄に彫金を師事した。

師・加納夏雄から受け継いだ、堅実な「片切彫り」を基調としている。片切彫りとは、鏨(たがね)の角度を変えることで線の太さや濃淡を表現する、絵画的な彫技である。

この作品は、長寿の象徴とされる蓑亀(甲羅に藻が付着し、蓑のように見える亀)をモチーフに、純度の高い銀を主材とし、片切彫」の技法で、亀の背に生えた藻(蓑)の質感を表現し、高肉象嵌の技法で、模様を立体的に盛り上げ、亀の甲羅や手足の肉感など、生命力あふれる造形を生み出している。




平櫛田中の言葉に、「いまやらねば いつできる わしがやらねば たれがやる」、あるいは 「六十、七十ははなたれこぞう、おとこざかりは百から百から」といった人生の哲学を語る言葉があります。

ここにとりあげた彫刻、工芸の作品を創り上げた作者は皆、こうした人生哲学を実践した人たちではないでしょうか。

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