東京駅丸の内のJPタワー
ビルの2,3階にあるインターメディアテクに寄ってきました。ここは近くに来て時間があれば寄ってみるところです。もちろん無料ということもありますが、広いスペースに、東京大学が明治10年の創学以来、蓄積を続けてきた学術標本コレクションを、保存し、陳列し、公開しているミュージアムです。ここのコレクションは、展示の仕方も含めて「知の迷宮」のようで、迷い込んだらなかなか出られません。いくつかの迷路に分け入ってみます。
写真撮影も可となっています。
(参照):
東京異空間145:「インターメディアテク」(IMT)を観た(2023/8/29)
1.肖像:胸像、肖像画
東京帝国大学の教授などの肖像彫刻が多い、これらは朝倉文夫などによって製作されており、近代彫刻史の迷路のよう。
肖像彫刻、肖像画、さらには肖像写真いった肖像は、その人物を語るだけでなく、歴史を語っている。インターメディアテクに展示されているだけでなく、東京大学のキャンパス内にある肖像彫刻は80点、肖像画は100点を数えるという。
(参照):
東京異空間159:東大・本郷キャンパスⅥ~学知の空間(2023/11/29)
「瀧精一像」 1934年
制作者:堀進二
瀧精一(たき
せいいち/1873-1945)東京帝国大学教授、美術史家。
東京生まれ。瀧和亭の長男。東京帝国大学の文学部に美術史学講座が開設された際に初代教授となり、昭和9年(1934年)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。『国華』の編集に携わる。
堀進二
(1890−1978)
堀進二は、東京に生まれ、太平洋画会研究所に入り、新海竹太郎に師事し、太平洋画会、文展、帝展、日展で活躍した彫刻家
した。東京帝国大学工学部建築学科で彫刻の非常勤講師を務め、新海竹太郎のあとを受け、彫塑の講義を受け持った。東大の歴代教授の肖像彫刻を多数手掛けている。本郷キャンパス内には「濱尾新」、「古市公威」の彫像、他にも「澁澤栄一翁像」(如水会館)がある。
「呉秀三像」 1939年 制作者:石川確治(方堂)
呉秀三(くれ
しゅうぞう/1865-1932)東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。
日本における近代的な精神病理学を創立した。「日本の精神医学の父」と呼ばれる。
石川確治(1881-1956)
石川確治は、山形県山辺町出身。明治38年東京美術学校彫刻科本科を卒業、卒業後は東京帝国大学文科で心理学を学び、再び東京美術学校で彫刻を学ぶ
。新進気鋭の作家として文部省美術展覧会(文展)や帝国美術展覧会(帝展)で入選・受賞を重ね、帝展では審査員を務める
。
「加藤弘之像」 1915年 制作者:朝倉文夫
加藤
弘之(かとう ひろゆき/1836-1916)
外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、藩校・弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。
東京大学法・理・文学部の綜理を務め、のち帝国大学第二代総長を務めた。初代総長は渡辺洪基、第三代総長は濱尾新である。
朝倉文夫(あさくら
ふみお/1883-1964)
明治から昭和の彫刻家(彫塑家)で、「東洋のロダン」と呼ばれた。
「加藤弘之像」は、1916年の第10回文部省美術展覧会に出品された。
(参照):朝倉文夫について
東京異空間202:谷中を歩く1~朝倉彫塑館(2024/5/29)
「長与又郎像」 1937年 制作者:日名子実三
長与又郎(ながよ
またお/1878-1941)
医学界の重鎮・長与専斎
(1838-1902)
の三男として東京神田に生まれた。東京帝国大学医科大学に進学。卒業後、医学修行のためドイツのフライブルク大学に留学した。
帝大野球部長も務め、次のようなエピソードが残っている。
野球部の寮である「一誠寮」の看板は長与の揮毫による。この時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なったが、これを指摘した選手たちに「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったという。東大の六大学野球最高位は1946年春季の2位であるため、以後も「ノ」の部分が欠けたままとなっている。
なお、弟・長与善郎は白樺派の作家。
日名子
実三(ひなご じつぞう/1892-1945)
大分県臼杵市出身。学生時代から朝倉文夫の弟子として学ぶ。金鶏、八咫烏を意匠とする従軍記章、八紘一宇の塔(現・平和の塔)などを制作する。八咫烏を意匠日本サッカー協会のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。
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オオトカゲが頭の上に! |
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噛まれた! |
「チャールズ・ディッキンソン・ウェスト像」 制作年不詳 制作者:沼田一雅
チャールズ・ディキンソン・ウェスト(Charles
Dickinson West/1847-1908)
工部大学校のお雇い外国人教師。アイルランドのダブリンに生まれ、ダブリン大学トリニティ・カレッジで機械工学を修め、1869年に卒業したあと、5年余りイギリスのベルケンヘット製鉄場で働いた。造船の知識をこの時に得ている。1882年に来日し、機械工学とともに造船学も教えた。そのまま日本に留まり、1908年に没した。
工学部1号館前
にも台座付きの胸像がある。
沼田
一雅(ぬまた かずまさ/ぬまた
いちが/1873-1954)
福井に生まれ、上京して竹内久一に師事、1894年に東京美術学校助手、1896年に助教授となる。1903年、海外窯業練習生としてフランスに留学、国立セーブル陶磁器製作所で学ぶ、このころ、ロダンにも就いて学ぶ。1906年に帰国し、再び東京美術学校で教鞭をとった。
「モーゼ像」(ミケランジェロのモーゼ像の模刻) 1879年 制作者:大熊氏廣
大熊氏廣(おおくま
うじひろ/1856-1934)
鳩ケ谷宿近くの武蔵国足立郡中居村八幡木(現・埼玉県川口市八幡木)で農家の次男として生まれた。
1876年(明治9年)に開校した工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザのもとで学んだ。1882年に首席で卒業し、翌年、コンドル設計の有栖川宮邸の建築彫刻を担当、1884年に工部省に入り、明治宮殿の造営などに関わった。
日本初の西洋式銅像とされる靖国神社の大村益次郎像(1893年)で知られる。
また、東京国立博物館・表慶館前のライオン像(1908年)なども制作。
「E.ベルツ
」Erwin
von Bälz 肖像写真
エルヴィン・フォン・ベルツ( Erwin
von
Bälz/1849-1913)は、お雇い外国人として東京医学校に着任し、主に基礎医学,内科学,産婦人科学を指導した。当初の予定は2年間であったが,契約を延長して25年にわたって教鞭をとった.その後数年は宮内庁の侍医となり,1905年に帰国したが,29年間にわたる滞日はいわゆる「お雇い外国人」
の中で最長であり,黎明期の日本の医学に最も大きな影響をおよぼした外国人であった.「日本の近代西洋医学の父」とも言われる。
ベルツの交際は皇室や伊藤博文・井上馨ら多くの高官をはじめとしてあらゆる階層の人々に及び、長男トクの編による『ベルツの日記』(岩波文庫)は原題を「黎明期日本における一ドイツ人医師の生活」といい,明治の医学事情だけでなく明治裏面史の記録となっている。
東京大学附属病院に向かってベルツ(内科)とスクリバ(外科)の胸像(長沼守敬 作)が並んで建てられている。この像の除幕式は1907(明治40)年に行われた
。
「田口和美」1894(明治27)年/高橋勝蔵画/布に油彩
田口和美(1839-1904)
田口和美は東京大学医学部解剖学教室の初代教授。1893(明治26)年に日本解剖学会が設立されると、その会頭を努めた。肖像画はこの頃のもので、東京大学内に現存する最古の肖像画である。
この肖像画の額縁には、明治工芸の趣味が遺憾なく発揮されている。
高橋勝蔵(1860-1917)
高橋勝蔵は、現在の宮城県亘理町の生まれ。明治4年に伊達家の開拓団に加わり北海道に移住した。その後、日本画家を志して上京、1885(明治18)年にはアメリカに渡り、カリフォルニア・デザイン学校で西洋画を学んだ。1897(明治30)年頃、小林清親に入門。川村清雄、二代目五姓田芳柳の巴会にも参加した。文展に出品し、入選を果たすも、晩年には北海道に戻り、1917(大正6)年(1917年)没。享年57。
2.写真: 映写機、大判写真機、古写真
幕末から明治にかけての古写真など、写真の歴史の迷路のよう。
(1)35ミリ映写機:年代未詳/株式会社富士機械/金属
(2)
8×10大判蛇腹式写真機
(3)古写真
①東宮御所御写真:1909(明治42)年/小川一眞撮影/2帙154枚、コロタイプ印刷、黒革製帙、木製外箱/田中儀一旧蔵品
東宮御所(現迎賓館赤坂離宮、国宝)竣工時の写真。皇太子嘉仁親王(大正天皇)の住居として建設されたネオ・バロック様式の欧風宮殿建築。設計は片山東熊。当代一流の建築家、美術家、技術者等が結集し、十年もの歳月をかけて完成した。写真は建物外観、各室内装、浴室、廊下、地下設備など建物全体を網羅する。本コロタイプ版は写真師小川一眞自身が製作し、関係者に頒布されたもの。小川は翌1910年に写真師として初めて帝室技芸員を拝命した。
(参照):
東京異空間181:「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」展@印刷博物館(2024/2/19)
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東宮御所 |
②幕末から明治の古写真
「徳川慶喜」 1867年 撮影者:フレデリック・サットン
フレデリック・ウィリアム・サットン(1832
–
1883)は、イギリス海軍の測量技術者で、初期のアマチュア写真家であった。英国公使パークスはサットンに徳川慶喜の写真撮影を依頼した。サットンは、コロジオン処理したガラス乾板を使って慶喜の肖像画を撮影し、
1867年8月10日の「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された。
「徳川昭武」 1867年 撮影者:ディスデリ
ディスデリ(1819-1889)は、フランスの写真家。彼は4つのレンズがついた特殊なカメラを使って1枚の写真乾板に8枚の写真を撮影する技術を発明し、1854年に特許を取得し、
これにより多くの肖像写真が安価に写されることになり、このシステムを使って有名人の肖像を複写複製して売り出した
。
徳川昭武は(1853-1910)は、最後の将軍・慶喜の異母兄弟であり、慶喜の名代としてパリ万博への派遣を命じられ、1867(慶応3)年に使節団28名を率いて約50日をかけて渡仏し、パリ万博を訪問している。写真はその際に撮られたものであろう。なお、この使節団の会計係として澁澤栄一が同行していた。
「渋沢栄一」 1867年 撮影者:ナダール
渋沢栄一(1840-1931)は、1867(慶応3)年に開催されたパリ万国博覧会に、徳川昭武に随行する形で渡仏した。この経験が、彼のその後の人生に大きな影響を与え、日本の近代化に貢献する原動力となる。写真はこの時に撮られたもの。
ナダール(1820-1910)は、フランスの写真家。数多くの文化人や重要人物を撮影し肖像写真家として名を馳せた。ナダールは新技術である写真による肖像の探求に打ち込み、パリに写真スタジオを開いた。当時、写真はダゲレオタイプに代わり温式コロジオン法が開発され、普及するなど技術革新が進み、パリ中に写真館が登場し、肖像写真を撮ってもらうことがブームとなっていた。
「池田長発」 1864年 撮影者:ナダール
池田長発(いけだ
ながおき/1837-1879)
幕府直参旗本の池田長休の四男として江戸に生まれ、備中国井原領主となる。少年時代は昌平黌に学び、成績は抜群に優秀だったという。
1863(文久3)年、長発は27歳にして、34名からなる
第二回遣欧使節(「横浜鎖港談判使節団」)
の正使として一行を率いて渡欧。貿易の抑制政策が進む横浜港の全面的封鎖を談判する目的でまずフランスへ赴いたが、パリ約定の締結により大譲歩を余儀なくされた。他国との交渉も諦めて帰国した池田は、使命を達しなかったとして幕府から譴責を受けた。
長発は開国の重要性を力説したが、幕府はパリ約定を破棄。長発は隠居するが、1867(慶応3)年には一転して罪を許され軍艦奉行となる。しかし、健康を害していたため数カ月で職を辞して備中・井原に戻り、以後政治には関わらなかった。
なお、1862(文久元)年の第一回遣欧使節団(「文久遣欧使節団」正使・竹内保徳)には、福澤諭吉(29歳)、福地源一郎(22歳)、松本弘安(のちの寺島宗則)が団員として加わっていた。
ナダールは、この一行の肖像写真を撮っている。
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パリのナダールの写真館で撮影された遣欧使節団の一員の写真(中央はナダールの息子) (ウィキペディアより) |
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福澤諭吉 |
「河津祐邦」 1864年 撮影者:ナダール
河津
祐邦(かわづ
すけくに/1821-1873)河津祐邦は、江戸幕府の旗本。徒目付として蝦夷調査を行う。その後、外国奉行となり、文久3年(1863年)
第二回遣欧使節(横浜鎖港談判使節団)の副使としてパリに行く。
交渉に当ったが、開国の必要性を感じて横浜の鎖港を断念。池田長発と共に幕府に建議したが、逆に咎められ、免職、逼塞を命ぜられる。
のちに逼塞を解かれ、1866(慶応2)年、長崎奉行に就任。
1868(慶応4)年、鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が新政府軍に敗れたという報を聞いた後、イギリス船に乗って長崎を脱出し江戸に戻り、外国事務総裁となった
。
「島津忠義」 年代未詳 撮影者:未詳
島津忠義(しまづ
ただよし/1840-1897)
島津忠教(久光)の長男として生まれる(「忠義」は維新後に改名)。伯父である11代藩主・斉彬の養嗣子となり、斉彬没後、その遺言により跡を継ぐ。薩摩藩12代(最後の)藩主で、島津氏29代当主となる。
1867(慶応3)年のパリ万博では幕府とは別に薩摩琉球国として出展した。
写真撮影や花火作りなどにも興味を持つなど、幅広い趣味を持つ人物だったという。次のようなエピソードがベルツの日記に記されている。「1889(明治22)年の大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながら髷を切らずにいたことに驚いた」と。
西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる。
「明治天皇」 1873年
撮影者:内田九一
内田九一(うちだ
くいち/1844-1875)
長崎に生まれ、幼少にして両親を失う。蘭医ポンペに舎密学を、松本良順を通じて筑前福岡藩士・前田玄造などに写真術を学んだ。慶応元年(1865年)大坂に写真館を開業し、後に横浜・馬車道と東京・浅草で開業した。
1872(明治5)年、明治天皇の西国御巡幸の際、宮内省御用掛の写真師第一号として随行し、名所旧跡の写真を数多く撮影。御巡幸出発前の明治5年4月に束帯姿と小直衣・金巾姿の天皇を、翌年10月には洋装礼服(フランス式軍服)姿の天皇を撮影した。
このとき、天皇は洋装化したが、まだ皇后は和装であった。
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フランス式軍服姿の天皇 |
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束帯姿の天皇(ウィキペディアより)
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「昭憲皇后」
1873年
撮影者:内田九一
昭憲皇太后は、明治天皇の皇后。旧名は一条
美子、左大臣・一条忠香の三女。
諱は勝子、のち明治元年(1869年)、美子(はるこ)と改名。
欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。
明治5年に写真師内田九一(くいち)によって初めて撮影された和装の昭憲皇太后の御肖像。小袿(こうちき)に長袴(ながばかま)をお召しになり,檜扇(ひおうぎ)を開いている。
宮内卿に就任した伊藤博文は天皇は洋装、皇后は和装というアンバランスな状態に不満で、皇后宮大夫を通じて皇后に洋装の説得にあたった。皇后は「国ノ為メナレハ何ニテモ可致」と述べていたが、天皇が「ナラヌ」と述べて退けた。天皇は宮中を完全に西洋化させることにはしばしば反対を示した。天皇の反対のために皇后洋装化はなかなか実現できず、明治19年(1886年)、
ようやく天皇のお許しがおり、1886(明治19)年の華族女学校行啓の際に皇后の初めて洋服をお召しになった。
なお、よく知られる洋装の大礼服を召した御写真は1889(明治22)年に写真師鈴木真一、丸木利陽によって撮影されたものである。
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洋装の昭憲皇太后(ウィキペディアより) |
「日本人女性」写真 年代、撮影者とも未詳
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日傘を持つ日本人女性 |
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日本人女性 |
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三味線を持つ日本人女性 |
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日傘を持つ日本人女性 |
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日本人女性 |
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日本人女性 |
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座る日本人女性 |
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二人の日本人女性 |
③微小貝写真
2012年制作/インクジェット・プリント/1994年標本採集/鹿児島県加計呂麻島沖水深310メートル。
写真の微小貝はテンジククダマキ類の一種で、乾燥標本原寸4ミリメートル。
3.民族彫刻
アフリカなどの民族彫刻、素朴でだが生活を感じさせる不思議な形の迷路のよう。
「ドゴンの彫像」 マリ共和国 19世紀
ザポテカ文化「骨壺」 メキシコ南部 2-7世紀
ソンギ族彫刻「女性の仮面を付けた人を表わす彫像」コンゴ共和国20世紀
アフリカ彫刻 自然木をそのまま使用 時代未詳
民族彫刻
4.爬虫類など:骨格標本
大型の動物などの骨格標本、野生動物たちの迷路のよう。
ミンククジラ
2009年/骨格標本/東京大学農学部旧蔵/東京大学総合研究博物館研究部制作・所蔵
概要体長7-8メートル、体重8トンほどになるが、ヒゲクジラとしては二番目に小型。
ヒョウモンリクガメ
2017年/骨格標本
マチカネワニ
1964(昭和39)年5月、大阪府待兼山の新生代中期更新世(約45±5万年前)の地層から発見された化石のレプリカ。この発見により、「マチカネワニ」の名が付けられた。
ワニ
5.鳥類:標本、図譜
様々な鳥たちの剥製、あたかも生きている鳥たちの迷路のよう。
ホルス
ホルスはエジプト神話に登場する天空と太陽を司る神である。本像がハヤブサであるように、猛禽類の姿で表現される。ホルスの右眼は太陽を、左眼は月を象徴し、左眼のかたちがアルファベットの「Rx」に似ていたことから、西洋では処方箋を表すものとして「Rx」マークが用いられてきたという。このことから本像は薬学に縁の深いモチーフとして、東京大学薬学部の建物の装飾に用いられていたものと考えられる。
オオフウチョウ
20世紀後半/剥製標本。ニューギニアの森林に分布する。フウチョウ科鳥類の雄は飾り羽を広げ、雌に対し求愛ダンスを行う。飾り羽の色や形は種によってさまざまである。フウチョウ類の羽毛は装飾として用いられたために乱獲されたが、現在は国際的に商取引が規制されている。
オナガドリ
土佐尾長鶏として特別天然記念物に指定されている。尾羽が生え変わらず伸び続け、10mに達した例があるという。
オジロワシ
タンチョウ・オオヅル
2005年剥製標本/井の頭公園自然文化園旧蔵
タンチョウは、国の特別天然記念物。日本では北海道に見にみられるが、江戸時代には荒川にも越冬地があり、保護されていた。
オオヅルは、ツル科最大種で、体調1.5mを超える。パキスタンから東南アジア、オーストラリア北部に分布する。
コサギ(冬羽)
1980(昭和55年)/(旧)老田野鳥館旧蔵
鳥図譜:ギメ・ルーム「驚異の小部屋」
アジア美術の蒐集家として知られるエミール・ギメ(1836-1918)ゆかりの古展示ケース6台の寄贈を受けた。このコーナーをギメ・ルーム「驚異の小部屋」と名付けている。
6.仏像/仏画、キリスト磔刑
日本の仏像からチベットなどの仏画、さらにはキリスト磔刑など、宗教の迷路のよう。
「脱活乾漆仏」 模造 菊池敏正 2007年
菊池は、様々な彫刻文化財の調査•修復に携わり、修復技術の研究 伝統技法研究を行う。
「秋篠寺乾漆仏」復元作品 菊池敏正 制作 2008年
「唐招提寺如来形立像」模刻 土屋仁応 2003年
土屋仁応(つちや
よしまさ/1977-)は、東京芸術大学美術学部彫刻科卒業後、同大学院美術研究科文化財保存学専攻にて仏教美術の古典技法と修復を学んだ。
「法隆寺金堂薬師如来像」(写真)
「磔刑のキリスト」 木彫 1700年前後
用材はセイヨウシナノキ(別名リンデンバウム)
「タイ仏画」
「チベット仏教 仏画」 17-19世紀
7.ミラー:鏡像 球面
さまざまな光に照らされ写し出される不思議な球体、まさに迷路に入り込んだよう。
「地球儀」(2800万分の1)1963年改訂/渡辺雲晴
株式会社渡辺教具製作所は、地球儀などの天文関連教材の製造、販売を行うメーカー。地球儀でのシェアは、日本トップクラスである。
創業者・渡辺雲晴は、1937(昭和12)年、地球儀製作の個人商店として、現在の東京都中央区築地にて創業。地球儀製作に関しては、創業者が築地本願寺の住職から薦められて、その事業を開始したという経緯を持つ。
築地本願寺に僧籍を持ちながら記者として活動していた渡辺雲晴はシンガポールで記者をしていた時に見た夜空に感動し、地球儀・天球儀の研究を続け渡辺教具製作所を創業したという。
渡辺教具製作所H.P
地球儀(800万分の1)1937年以前/ベルギー/白地図に彩色/ベルギー政府寄贈
1923(大正12)年9月の関東大震災により、大学の図書館蔵書50万冊が灰燼に帰した。それに対し国内外から援助の手が差し伸べられた。ベルギー政府からは図書と義援金が寄せられ、その善意の記念として、同国に大地球儀の製作を依頼。しかし、大地球儀が贈呈された1937(昭和12)年は日中戦争の最中であり、ベルギーは連合国の一員であったため、震災時に寄せられた友情はすでに過去のものとなっていた。そのためか贈呈された地球儀は「白地図」であった。当時の記録よると「ベルギー国地理学協会側では、特に日本側の好みを考慮し、彩色を施さず白地のままなり」とある。彩色は日本側により、1939年に始められた。
「形象的形態(木彫人頭骨)」2011年/菊池敏正 制作/檜
日本には古くから「木骨」という伝統がある。江戸時代末期まで、医学研究の現場で「真骨」を扱うことが、仏教上の制約もあり、禁じられていたからである。整骨医は、仏像制作を専門とする仏師に依頼し、「木骨」を用意し、それを教育研究に使っていた。これは、現代の彫刻家が、その伝統の再興を試みたものである。
鏡・球面
8.その他のコレクション:
少し異質なコレクションも展示していて、自然史とは違う歴史の迷路のよう。
日英博覧会1910年「東京帝国大学工科大学受賞日英博覧会大賞賞状」
1910年/ロンドン(英国)/紙、印刷/東京大学工学部旧蔵
日英博覧会は1902年に結ばれた日英同盟のもと、1910年5月14日から10月29日までロンドンのシェファーズブッシュ19万坪の広大な敷地で開催された国際博覧会。名誉総裁は伏見宮貞愛親王。日露戦争の勝利により、欧米列強と肩を並べたと自負する日本は、英国と対等の近代国家日本を宣伝し、日本製品の対英輸出拡大を図る好機と捉えていた。
「モース日本陶器コレクション」
エドワード・シルヴェスター・モース( Edward
Sylvester Morse*1838-1925)
モースは、1877(明治10)年、腕足動物の標本採集に来日し、請われて東京帝国大学のお雇い外国人教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。文部省に採集の了解を求めるため、横浜駅から新橋駅に向かう汽車の窓から、貝塚を発見した、それが「大森貝塚」であり、日本の人類学、考古学の基礎をつくることになった。また、日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。
モースは当時の日本の習俗、文化にもたいへんな関心をもち、絵画や服飾、道具、玩具など数千点にのぼるコレクションをなしている。「大学には博物館が必要である」とのモースの進言にもとづき1880年に設置された東京大学理学部「博物場」に展示されていた標本である。この施設は当時のキャンパス、千代田区神田にあったが、1885年、東京大学が文京区本郷に移転されるに際し廃止されてしまった。ここに展示する日本陶器コレクションは、その忘れ形見でもある。
なお、大隈重信は
所蔵の全陶器を贈ったという。
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エドワード・シルヴェスター・モース |
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日本陶器コレクション |
「バーク型帆船模型」
18世紀に英国王室海軍が開発した型式で、19世紀には海運の主軸を担った。
9.建築:建築模型、大時計、東京駅
かつて東京大学にあった建築の模型などを見て、外を見ると高層ビルを背景にリアルな東京駅が建つ、建築の歴史の迷路のよう。
「東京帝国大学法科大学講義室」 設計 山口孝吉 1914(大正3)年 模型製作1997年
「旧東京医学校本館」 改修設計 山口孝吉 移築改修1911(明治44)年 模型製作1997年
旧東京医学校本館は、現在、小石川植物園に移設され保存されている。手前の模型。
「東京帝国大学理科大学動物学・地質学・鉱物学教室」 設計・文部省営繕掛1910(明治43)年模型製作1997年
「東京帝国大学医科大学法医学教室」 設計・山口孝吉 1906(明治39)年 模型製作1997年
これらの模型は、イタリアで最高の木工職人として知られた故ジョヴァンニ・サッキとその工房によって制作された。
ジョヴァンニ・サッキと建築模型製作の伝統
建築模型の製作は、ルネサンス期以来の豊かな歴史を有するものであり、この復元模型にも、連綿と受け継がれてきたイタリア木工細工の伝統の技術を見いだすことができる。
「大時計」:東京帝国大学大講堂(現・安田講堂)/旧東京中央郵便局
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東京帝国大学大講堂の大時計 |
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東京帝国大学大講堂の大時計 |
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東京帝国大学大講堂 |
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旧東京中央郵便局・大時計の針 |
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旧東京中央郵便局 |
JPタワー「KITTE」
東京駅・丸の内側
(参照):
東京異空間156:東大・本郷キャンパスⅢ~歴史的建築物(2023/11/4)
東京異空間222:小石川植物園にみる歴史(2024/9/6)
東京異空間19:日本銀行~東京駅・辰野金吾(2019/12/29)
今回は、肖像彫刻、肖像画、古写真や、動物の骨格標本などを観てきましたが、ほかにも昆虫、魚介類、植物や鉱石の標本、機械類、精密機器、医療器具などなど、珍奇な物までたくさんの迷路があります。また、この知の迷宮を訪れたいと思います。