2024年5月29日水曜日

東京異空間202:谷中を歩く1~朝倉彫塑館

 

台東区立朝倉彫塑館(建物の上に人物像が)

JR山手線の日暮里駅から徒歩5分程度のところに朝倉彫塑館があります。ここはかつては朝倉文夫のアトリエ兼自宅でしたが、いまは台東区立朝倉彫塑館として、一般公開されており、朝倉の作品などを展示する場所となっています。

NHK日曜美術館でも新しくMCとなった坂本美雨が、ここを訪れています(3月17日放送)。

朝倉の作品とともに、朝倉が自ら設計したという彫塑館にも不思議な見所がいっぱいありました。

1.朝倉文夫(1883-1964)

朝倉文夫(あさくら ふみお)は、明治161883)年、大分県(現・豊後大野市)で、村長であった渡辺要三の三男として誕生した。9歳の時に朝倉家の養子となり、19歳で実兄の彫刻家・渡辺長男(おさお)を頼って上京する。

兄・渡辺長男は、人物彫刻を得意とし、明治天皇騎馬像や井上馨像、太田道灌像、広瀬中佐像など、数多く製作した。また、よく知られているのは日本橋の欄干の麒麟と獅子のブロンズである

その兄の影響を受け、彫塑の技法に魅せられ、明治361903)年に東京美術学校彫刻家選科に入学。大学卒業後、研究科に進学した25歳の時、明治411908)年に、第2回文展で『闇』が最高賞の2等賞を受賞した。この受賞で世間から注目されるようになり、その後も官展で受賞を重ねることで作家としての地盤を固め、日本の彫刻界をリードする中心的な存在として活躍した。その写実的な表現から、「東洋のロダン」とも呼ばれた。

2.朝倉彫塑館

彫塑館に入るときに建物の上を見上げると、来る人たちを見下ろすように人物像《砲丸 》が置かれている。入口の横には男性の裸像《青年》と、多数の人がかたまった群像《雲》が置かれている。それぞれ、朝倉の作品である。エントランスから早くも不思議な雰囲気がある。入口で履き物を脱いで入る。

人物像《砲丸 》

男性の裸像《青年》

群像《雲》

(1)アトリエ

まずはアトリエで、いまは作品が多く置かれている。高さ3.78m の大きな《小村寿太郎像》が置かれている。他にも《大隈重信像》や、代表作である《墓守》、そして女性像である《三相》などが展示されている。

《小村寿太郎像》

《大隈重信像》

《墓守》

《墓守》

《三相》

ところで、一般に彫刻(sculpture)と言われる作品には、木や石を刻んでつくる「彫刻(carving)」に対し、粘土を盛り上げて像を造り型を取って、ブロンズなどでつくる「彫塑(modelling)」があり、これらのプロセスにて造形された作品を「彫塑」という。朝倉はこの「彫塑」をつくる技術を学ぶ塾としてこの建物を造った。そもそも、朝倉は、自ら設計目的が多すぎると言っており、「アトリエであり、住宅であり、別荘であり、彫塑塾であり、友人の倶楽部もよかろう、宿泊所もよかろう、そして外人観光を迎える設備もやろう」と。とくに当時、外来人が日本の美術家の生活を見たいといっても、それを受ける設備のあるところがないので、そうした用途を含めた建物を設計したという。

アトリエは高さ8.5mもあり、大きな作品が作れるようになっている。しかも、地下室があり、そこから7.8mの昇降台(エレベーター)が作られており、「ピット」と呼ばれている。これは、普通、作品の周りに足場を組んで登り降りしながら制作するのに対し、昇降台の上に作品を乗せて上げ下げすることで安全かつ楽に作業をすることができる工夫である。こんな不思議な仕掛けのあるアトリエは他には見られないだろう。(一般には観ることが出来ないが、NHK日曜美術館で紹介されていた)

次の部屋には、天井までの高さの書棚が設けられ、美術関係等の書籍がぎっしり並べられている。とくに洋書は、朝倉の恩師であった岩村透の蔵書であったものが没後、古書店に売られたのを買い戻し、岩村文庫として保管している。蔵書の散逸が「先生のお身体を切りきざむように思われて偲びず」として、三千円で売られた蔵書を、銀行から5千円を借り、古書店に千円の利を付けて買い戻し、未亡人に千円をお届けしたという。

岩村透(1870-1917)は、東京美術学校で西洋美術史を教えるなど美術評論家として活躍した。1914には、美術学校を休職し、私費でヨーロッパ外遊し、ロダンと会見している。岩村の十三回忌に朝倉は銅像を制作し、お墓のある本瑞寺(三浦市)に建てている。

書斎

(2)庭園

中庭には大きな石を用いた庭園があり、「五典の水庭」と呼ばれている。湧水を利用した池のまわりに自らが選んだ形の美しい石を配置して、そこに若干の樹木を植えている。狭い中庭にこれだけの巨石を配置しても、不思議に全体がまとまり、落ち着いて見える庭となっている。石は真鶴石という海の石で波に洗われ丸く形良くなっている。

朝倉はこの庭を自己反省の場として各室から眺められるように設計したという。「五典」というのは、儒教の説く「仁・義・礼・智・信」という人が守るべき五つの道で、それを石によって造形化した。(配石図)

仁も過ぎれば弱(じゃく)となる

義も過ぎれば頑(かたくな)となる

礼も過ぎれば諂(へつらい)となる

智も過ぎれば詐(いつわり)となる

信も過ぎれば損(そん)となる

また、池の周りの樹木は1月の梅に始まり、12月の山茶花で終わるまで、すべて白い花の木が植えられている。それは朝倉が白い花を純粋の色とみて、純粋さを持ち続けるたいと希ったことからきているという。しかし、完璧さを避けるために、一本だけ、赤い百日紅が植えられている。

「五典の水庭」

「五典の水庭」

「五典の水庭」

「五典の水庭」

配石図

(3)屋上庭園

階段を上がり、屋上に出ることができる。屋上に庭園が造られているのは、ここが彫塑塾の必修科目「園芸」の実習の場として利用されたからである。朝倉は、芸術は自然を対象にしたものでなければならない、という考えから、園芸を取り入れていた。

現在は一部に菜園を再現し、またオリーブの木や四季咲きのバラなどが植えられている。

庭園の端には彫刻が置かれている。彫塑館に入るとき上から見下ろしていた彫刻《砲丸》である。また、階段の上にも肖像彫刻が置かれている。コンクリートで制作された《ウォーナー博士像》 である。

ラングドン・ウォーナー(1881-1955)は、ボストン美術館で岡倉天心の助手を務めた美術史家であるが、大平洋戦争において、京都が爆撃されなかったのは、ウォーナーが、空爆すべきでない地名のリスト(ウォーナー・リスト)を作成して米政府に進言し、美術品を守ったからだとされた。しかし、これは、今では事実としては否定され、伝説的な美談として語られるようになっている。

屋上庭園・《砲丸 》

《砲丸 》

屋上庭園・《砲丸 》

屋上庭園・《砲丸 》

《ウォーナー博士像》

《ウォーナー博士像》


(4)猫百態

屋上から3階の展示室に降りると、そこには猫の彫刻が数体展示されている。朝倉は、無類の愛猫家としても知られ、数十体にのぼる猫の作品を残している。愛猫の日々の様子や一瞬の愛くるしさを生き生きととらえた作品群は、猫たちに対する温かな情感も伝えている。朝倉は、1964年には東京オリンピック開催記念として〈猫百態展〉を準備したが、直前に病のために他界した。




3.朝倉の作品~「東京異空間」から

朝倉は、生涯、肖像彫刻を400点余りを制作したという。自ら、「世界の彫刻家で私が記録だろう。ロダンが百二十ぐらい、ミケランジェロが八十ぐらい、日本で百つくったひとはいないだろう」と言っている。

(参考):

『私の履歴書』文化人6 日本経済新聞社 昭和58

これらの作品は、屋外に配置されており、拙ブログ「東京異空間」でも、これまでいくつもの朝倉作品を観てきた。それらを並べてみる。

(1)《大隈重信像》:早稲田大学キャンパス

《大隈重信像》

《大隈重信像》

(2)《大隈綾子像》、《 田中穂積像 》:早稲田大学・大隈庭園

《大隈綾子像》

《 田中穂積像 》

(3)《平和来》:慶應義塾大学三田キャンパス

《平和来》

《平和来》

(4)《小山内薫像》:慶應義塾大学三田キャンパス

《小山内薫像》

《小山内薫像》

(5)《隈川宗雄像》:東京大学本郷キャンパス

《隈川宗雄像》

(6)《青年像》:国立競技場 

朝倉彫塑館の入口に立つ像と同じ

《青年像》

(7)《鳩山和夫・春子夫妻像》:鳩山会館(音羽御殿)

《鳩山和夫・春子夫妻像》

(8)《大谷米太郎像》:ホテル・ニューオータニ

《大谷米太郎像》

(9)《渋沢栄一像》:常盤橋公園

《渋沢栄一像》

《渋沢栄一像》

(10)《鳩ぽっぽの歌碑》:浅草寺

浅草寺には彫塑館入口と同じ《雲》が《慈雲の泉》として置かれている。

《鳩ぽっぽの歌碑》

(11)《井上勝像》:東京駅丸の内側駅前広場

《井上勝像》


朝倉彫塑館は、もちろん朝倉文夫の作品を観ることができますが、それ以外に、中庭に造られた庭園、そして屋上庭園など建物と彫刻が不思議にマッチして、魅力的な見所がたくさんありました。


0 件のコメント:

コメントを投稿

東京異空間249:明治神宮御苑を歩く

  明治神宮 明治神宮へは参拝に訪れることはありますが、明治神宮御苑には入ったことがありませんでした。 10 月下旬に訪れました。 (参照): 東京異空間 81 :明治神宮 ( 内苑)と神宮外苑Ⅰ ( 2023.3.19 ) 東京異空間 171: 明治神宮外苑はいかにして造ら...

人気の投稿