「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」展 |
印刷博物館で開催されていた「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」展を観に行きました(2月12日まで)。小川一眞については、拙ブログでは、明治学院の歴史的人物の一人として、また、楊洲周延の「浅草公園遊覧之図」に関連して、凌雲閣での美人コンテスト、芸妓100人の写真を撮った写真師として、とり上げました。そうした関心から、この展覧会を会期終了間際になってしまいましたが、観に行って来ました。
(参照):
「東京異空間162:明治学院の歴史的建造物と歴史的人物」(2023/12/07 )
「東京異空間170:楊洲周延~文明開化を描いた浮世絵師」(2024/01/10)
1.小川一眞(1860-1929)
小川一眞(かずまさ)は、明治の写真師として、また写真製版の起業家として活躍した。写真師としては、初期に活躍した上野彦馬~内田九一、下岡蓮杖~鈴木真一、横山松三郎、などを第一世代とすると、一眞は第二世代ということになる。また、最新の写真製版技術を米国で学び、それをもとに新たな事業を展開した。そうした一眞の主な業績を略伝風にまとめてみる。
1860(万延元)年0歳:武州行田(現・埼玉県行田市)に忍藩士・原田庄左衛門の次男として生まれる。
1863(文久3)年 3歳:忍藩士・小川石太郎の養子となり、一眞と改名する。
1873(明治6)年13歳:報国学校(有馬学校)に入学し、写真好きの英人教師ケンノンから影響を受け、写真に興味を持つ。有馬学校は旧久留米藩主・有馬頼咸 (よりしげ)が明治5年に浅草西鳥越に開設した英学校。卒業後、湿板写真術を学び、群馬・富岡で写真業を始める。
1882(明治15)年22歳:築地大学校(現・明治学院大学の前身)に入学し語学を修める。アメリカ海軍軍艦に乗り込み、ボストンに行き、写真館に入る。同じころボストンに来た岡部長職(ながもと 旧岸和田藩13代藩主)のすすめで印刷術も研究する。
1885(明治18)年25歳:米国より帰国後、岡部の援助により麹町飯田町(現・飯田橋)に「玉潤館」という写真館を開設する。
横山松三郎の銀座の写真石版社の家屋と石版印刷機械を譲り受ける。
1888(明治21)年28歳:日本初のコロタイプ写真製版印刷業を開始する。コロタイプは、ガラス板にゼラチンの被膜をつくり、ネガを焼き付けて製版するもので、一版から数百枚しか刷れないので、高級美術印刷などに用いられた。現在では特殊な目的以外では使われていない。
九鬼隆一、岡倉天心、フェノロサらで構成される近畿宝物調査が行われ、小川は撮影の任を帯びて参加する。
1889(明治22)年29歳:美術雑誌『國華』の写真図版をコロタイプ印刷で制作する。『國華』は、現在も刊行が続く美術雑誌としては世界で最も古い雑誌の一つ。小川は創刊号から1907(明治40)年の第211号までの約18年間を担当した。
1889(明治22)年29歳:『写真新報』を発行。英文名称は「Photographic News」としたように海外の写真事情を含めた国内外の写真情報を報道した。
日本で最初の写真団体である「日本写真会」を結成。会長に榎本武揚。後に副会頭に岡部長職(子爵)が就く。
1891(明治24)年31歳:小川が玉潤館で撮影した芸妓100名の写真を凌雲閣(浅草十二階、W.K.バルトンの設計)内に飾り人気投票を行うというイベントを行った。
10月28日に起きた濃尾地震の被災地にW.K.バルトンらが向かい被災状況を撮影する。翌年,『The Great Eathquake in Japan.1891』として出版する。
1893(明治26)年33歳:シカゴ万国博覧会にあわせて開かれた、万国写真公会に商議員として渡米した。小川にとっては最初の渡米(1882 年~83 年)から約10年後、2 度目の渡米であった。このときアメリカの網目版印刷の実用価値を認め、写真銅板製造機械を購入し帰国。帰国後、日本で初めて写真銅版印刷事業を経営する。
1894(明治27)年34歳:日清戦争の記録作成を依頼され写真班を組織。『日清戦争実記』を発行。写真銅板印刷を用いることにより数万枚の印刷を数時間内で刷ることができた。
1896(明治29)年36歳:三陸沖地震の津波被害状況の写真を制作。北海道枝幸での皆既日食を撮影。
1898(明治31)年38歳:『日本美術帖』全12巻を出版。『日本鉄道紀要』を刊行。
1899(明治32)年39歳:『國華』の次に手掛けたものに『真美大観』(全20冊1899-1908年)がある。これは仏教の信仰心を喚起し、布教活動に役立てるため、仏像、仏画などを掲載した美術全集である。
1900(明治33)年40歳:コロタイプ印刷の『真美大観』、『Histoire de l'Art du Japon』がパリ万博に出品され金賞を受賞。『東京帝国大学』写真帖も出品された。
1901(明治34)年41歳:北京皇城内諸宮殿の建築学的調査のため小川は写真を担当する。このとき、東京帝国大学の伊東忠太が調査に参加している。
東京帝国大学史料編纂掛が刊行した『大日本史料』、古文書の翻刻である『大日本古文書』の図版制作を行う。
1902(明治35)年42歳:牧野富太郎『大日本植物志』植物「ささゆり」などの撮影印刷。ほかにも牧野の植物図鑑の標本を撮影印刷している。
1903(明治36)年43歳:大阪で開催された第五回内国勧業博覧会で「百美人写真展」を開催し、大変な評判となる。
板垣退助の三女、婉子と再婚する。
1904(明治37)年44歳:日露戦争に関する写真製版印刷、発行業務を陸地測量部より正式に委嘱される。『日露戦役写真帖』(全24干を刊行。
1905(明治38)年45歳:靖国神社臨時大祭にあわせ「日露戦役彩色大写真展覧会」を上野公園内で開催し、人気を集める。
1907(明治40)年47歳:平塚に日本乾板株式会社を設立し自ら専務取締役となる。しかし、内輪もめが起こり乾板製造は中止となる。
1909(明治42)49歳:日比谷公園で行われた伊藤博文の国葬の模様を撮影。『故伊藤侯爵国葬写真帖』を刊行。
竣工した東宮御所(現・迎賓館)を撮影。設計は片山東熊。
1910(明治43)年50歳:帝室技芸員を拝命。写真師では初めて。
1911(明治44)年51歳:小笠原、八丈島の写真を写真帖にして献上、天覧の栄に浴す。
1912(大正元)年52歳:明治天皇の御大喪の儀の写真団の団長となり、夜間撮影も行う。『御大喪儀写真帖』を出版。
喪章をつけた夏目漱石を撮影。その写真が千円札に使われることになった。
1913(大正2)年53歳:日本乾板株式会社解散。その一部を買い取り小川写真化学研究所を開設。
1914(大正3)年54歳:東京大正博覧会に肖像写真の他にコロタイプで古書画、画帖を複製して出品。小川はこれらを「原本大光筆画」と称した。
1916(大正5)年56歳:大山巌の国葬を撮影。その後、写真帖を制作。
1918(大正7)年58歳:国産の乾板製造に成功する。小川写真化学研究所で製造販売。
1929(昭和3)年68歳:小川写真化学研究所の事業を日本写真工業株式会社に継承し、小川は同社の顧問となる。
1929(昭和4)年69歳:平塚の自宅にて没す。青山霊園に葬られ墓所には新海竹太郎による胸像が置かれている。
小川の死去後、小川が顧問を務めていた 乾板製造会社である日本写真工業株式会社はオリエンタル写真工業株式会社と合併し、小川が 生涯拘り続けた国産の感光材料の研究はオリエンタル写真工業株式会社に引き継がれること になった。
(参考):
『帝国の写真師 小川一眞』岡塚章子 国書刊行会 2022年
図録『明治のメディア王 小川一眞と写真製版』印刷博物館 2023年
「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」展 |
小川一眞の略歴に観るように、少年のころから写真に興味を持ち、英語を学び、米国に渡り最新の技術をまなび、その技術を活かして起業するといった、いわばアントレプレナーのような活躍ぶりである。
明治の西洋化、近代化の波に乗り、写真という新しい技術を撮影から印刷、さらに出版と一連の事業を展開した。そこには美人写真、風景写真のほか、日本美術や建築に関わる写真、日清、日露の戦争に関わる写真、また大喪の儀の撮影など時代を反映した幅広い写真が撮られ、印刷され、出版され、新たな「メディアの王」となった。
しかしながら、小川一眞の名は、展覧会のタイトルにある「メディア王」といわれるほど知られてはいない。むしろ「忘れられた」メディア王となっている。それは、小川の写真師(家)として撮影した仏像など日本美術品などは、写真の正確性が求められたものであり、あるいは戦争や葬儀の写真は、その記録性が求められたものであり、写真の芸術性が求められるようになった写真史からは、忘れられた。また印刷・製版技術という面では、その時代から大きく技術革新が進み、コロタイプ印刷などは、よほど特殊なものでしか使われなくなっており、やはり忘れられた、といえるだろう。そして、何よりも、新聞、雑誌、映画、テレビといった新しいメディアが次々に登場してきて、一眞のメディアとは時代性の違いがあり、忘れられたといえるだろう。 岡塚章子氏が『帝国の写真師 小川一眞』とタイトルを付けたように、大日本「帝国」の時代の人であった。
明治人の革新に向かう志の高さを知る展覧会でもあった。
2.印刷博物館
印刷博物館は、2000(平成12)年に凸版印刷(現TOPPANホールディングス)が100周年記念事業の一環で設立し、印刷文化に関わる資料の蒐集や研究活動、活版印刷などの印刷を実体験するなどの実践・啓蒙活動を行っている。
初代館長は粟津潔が就任し、クリエイターとしての大胆な発想による展示空間の実現と、博物館を伝える独自の要素を創りあげた。
2代目館長に樺山紘一が就任。2005年から16年間にわたり館長を務め、学問的基盤に立脚した調査・研究によるコンテンツの充実と、学識経験者や教育施設との強固な繋がりを目指す博物館をつくりあげた。
企画展は、「印刷文化」という視点からユニークなものが多く開催されている。中でも「百学連環-百科事典と博物図譜の饗宴 」(2007年9月~12月)はその題名からも印象に残っている。百学連環(ひゃくがく れんかん)とは、西周が<Encyclopedia>を翻訳した言葉で、一言でいえば「知の体系」ということだろう。古今東西の百科事典、博物図譜などの資料が展示された。
常設展においても、印刷の日本史、印刷の世界史の展示があり、なかでも興味を引くのは古書、ケルムスコット・プレスの『チョーサー著作集』やディドロの『百科全書』などが展示されている。
TOPPAN 印刷博物館 |
印刷博物館 |
印刷博物館・印刷工房 |
ケルムスコット・プレス『チョーサー著作集』1896年制作 |
ディドロ、ダランベール『百科全書』1751-72年 |
ヨハネス・ケプラー『宇宙の神秘』1623年 |
『ルター ドイツ語訳聖書』1534年 |
ヨハン・グーテンベルグ『42行聖書 原葉』1455年頃 |
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