2020年11月13日金曜日

伊豆の旅Ⅳ:松崎~岩科学校・旧依田邸・三聖苑

岩科学校

1.岩科学校

松崎の町の中心からは、バスで数キロ離れたところに重文岩科学校がある。岩科学校は、甲府の旧睦沢学校(明治8年)、松本の旧開智学校(明治9年)に次いで、古く明治13年に完成した。地元の大工棟梁、菊地丑太郎、高木久五郎の設計施工による擬洋風建築で、玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、洋風のアーチ窓、半円バルコニーが組み合わさり、なまこ壁も造られている。岩科学校のこの擬洋風建築を参考にして、石山修武は長八美術館を設計したという。

 

正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣・三条実美の書で、その上に飾られている龍は、入江長八が棟梁の鑿(のみ)を借りて彫ったと伝えられている。

長八は、階上の日本間の欄間に「千羽鶴」が、それぞれ日の出を目ざして飛ぶ姿を描いている。この「千羽鶴」は、左官技法と色彩技法を巧みに融合させた長八の傑作の一つとされている。

 

建物を出たところに立つ看板には「岩科起て」という力強い文字が書かれている。この由来は、地域の草相撲で、岩科代表の力士に対して「岩科起て」との大きな声で声援したという話にヒントを得て、大正時代、弱冠32歳で赴任した外岡千代蔵校長が、「起て」という言葉に「どんな逆境にも負けない」という心意気、岩科人の根性をこめて、この小学校の標語とし、児童生徒の教育、社会教育の方針とした。その精神は、その後も伝統となって、この岩科の地に脈々と受け継がれているという。

 

こうした松崎の教育には、依田佐二平など地元有力者の支援とともに、旧会津藩士が招かれ、その一人山口昌隆が初代校長となっている。




半円バルコニー


太政大臣・三条実美の書による扁額と長八による龍


半円バルコニー

「千羽鶴」


「千羽鶴」

「鳳凰」長八の弟子の作とされている


授業風景



2.旧依田邸


松崎から下田行のバスに乗って10分ほど、大沢温泉口で降り、すこし歩くと旧依田邸(かっては大沢温泉ホテルとして営業されていた)がある。

 

旧依田邸は、富裕な名主の住居として使われた大規模な民家建築で江戸・元禄期、今から300年ほど前に建てられた母屋と、200年ほど前に建てられた離れ、幕末に建てられた蔵3棟(道具蔵、米倉、醤油蔵)があり、それぞれに見事ななまこ壁が造られている。

 

松崎の街で、たくさんのなまこ壁を観てきたが、そのほとんどが依田家に関わる邸宅であった。なまこ壁をつくることのできる町の繁栄を支えてきたのが、依田家といえる。

 

依田家は甲州武田氏に属したとわれており、戦国時代の終わりに甲州から移ってきて当地に根を下ろしこの地で名主として地域を支え、代々家を守り続けてきた。江戸時代には山を活用した木炭生産と廻船で地域を支え、明治になってから、11代当主、佐二平は製糸業を中心に殖産興業を行い、国会議員となって地域に尽くした。弟の勉三は晩成社を創立し、北海道十勝開拓を手がけた。その開拓の功労者として、札幌にある開拓神社(現北海道神宮)、間宮林蔵、松浦武四郎などとともに37柱の一つとして祀られている。

旧依田邸

旧依田邸・母屋

道具蔵、米倉、醤油蔵

道具蔵、米倉、醤油蔵

道具蔵、米倉、醤油蔵

3.花の三聖苑

旧依田邸から桜並木の川沿いを歩いていくと、山神社があり、その手前には蚕の神様の石が置かれてあった。神社の近くに三聖会堂・大沢学舎がある。ここは道の駅にもなっている。

 

蚕の神様の石

山神社

三聖会堂は、松崎が生んだ三聖人、幕末の漢学者である土屋三余、明治期の実業家として名を馳せた依田佐二平、その弟で北海道 十勝平野の開拓者である依田勉三という、幕末から明治期にかけて活躍した3人を記念して建てられている。

 

大沢学舎は、その三聖人の一人、依田佐二平が私財を投じて、明治6年に大沢村の自邸内に洋風2階建ての公立小学校として開校した。その後、町役場などに使われ、現在の地に移築、復元された。

三聖会堂


三聖人:依田佐二平・土屋三余・依田勉三

大沢学舎

花の三聖苑


 4.松崎の偉人たち


三聖人といわれる土屋三余依田佐二平依田勉三だけでなく、松崎には偉人が多く輩出している。名前を挙げると、なまこ壁の邸宅で見た依田善吾(山光荘)、依田直吉(中瀬邸)、依田四郎(浜丁)、長八美術館の設計を石山修武に任せた町長依田敬一、といった依田家の人々。鏝絵の入江長八、浄感寺の宮大工石田半兵衛、薬学者近藤平三郎(近藤邸)など、すでにみてきた人々がいる。

他にも、下岡蓮杖のもとに入り、写真術を磨いた鈴木真一、国鉄総裁になった石田礼助、異色なところでは俳優の三国連太郎も松崎の出身である。

 

これらの人々に見ることが出来るのは、江戸や未開の地、北海道、さらに米国、ドイツなどの海外に出て、新しい分野の開拓に取り組んでいること。自ら学舎を建てるなど教育に熱心であったこと。

その例として、土屋三餘のエピソードを記しておく。早くに父母をなくし、浄感寺に通って学問を学び、江戸に出て勤王の志士たちとも交流を持ち、ハリスが下田に領事館を開いたときには、行って黒船を見て、水兵たちと筆や墨、日本紙と、ビール3缶、缶詰と交換したりしたという。また、魂の通い合った教育でなければ混乱の時代に対応した人材を教育できないとして「三余塾」を創設している。

 

こうした精神と行動力を持った偉人を多く輩出した理由としては、依田佐二平にみるように地域をまとめ率いる優れたリーダーがいたこと、幕末から明治にかけての激動の時代という歴史の中で、浄感寺の寺子屋、岩科学校、大沢学校、三余塾など教育の果たした役割が大きかったこと。また松崎の港、風待ちの港であったことから、新しい文化、異質な文化と接触する場があったことも要素として考えられるだろう。

しかしながら「栄枯盛衰は世の習い」といわれるように、依田家は、その家を守ることはできず、製糸業、海運業なども衰退し、町は、そうした歴史遺産としての鏝絵、なまこ壁などを目玉とした観光に力を入れてきた。

いま、NPOやボランティアの人々が街の活性化のために頑張っているようだ。『松崎起て』と声援を送りたい。

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