松崎の港は、大坂から江戸への中継点でもあり、風待ち港として古くから重要視され、伊豆地方では下田港に次ぐ繁栄をみせ、多くの廻船問屋が軒を連ねたという。そのため船大工が育つとともに、屋敷や蔵を建てるに、海からの西風に耐え、火災にも耐えるなまこ壁が発達し、左官が増えたといわれる。壁や蔵造りを担う左官職は、大工職より工賃が高く、その技術も高度になっていった。それを支えたのが富裕層、いわゆる倉持ちである。
江戸から明治にかけて、この町の産業としては、漁業、とくに鰹節、林業として木炭、養蚕、製糸業、そこから海運業、呉服商などが盛んになり、財力が蓄えられ、建物の仕上げになまこ壁を採用する家が多くなり、中には建物全体をなまこ壁にしたり、蔵の扉に鏝絵を飾るなど豪華なものになっていった。
しかし、近代になり、これらの産業が衰退するとともに、鉄道など交通機関がなく、地理的にも次第に町が取り残され、こうした建物が取り壊されず残る形となった。町としては、なまこ壁の建物、長八の鏝絵などを観光の目玉として町おこしに役立てている。
そうした松崎の街を散策した。
なまこ壁の観光スポットとして、まずは那賀川に架かる常盤大橋のたもとにある中瀬邸に行ってみた。
中瀬邸は明治20年(1887年)に呉服問屋として財を成した豪商・依田直吉の邸宅(依田直吉呉服店)として建てられた。依田直吉呉服店の屋号が「中瀬」だったため、現在では中瀬邸と呼ばれている。
依田直吉は長八のパトロンでもあり、先に長八美術館で見た「依田直吉像」が造られている。
邸宅には、名木、良材が使われ、船底天井や、初期のガラス窓などのほか、蔵の扉には鏝絵が施され、蔵は黒光りするほどの漆喰で重厚に造られている。
ガラス窓に映るなまこ壁 |
船底天井 |
黒光りする重厚な蔵の扉 |
黒光りする重厚な蔵の扉 |
中瀬邸の前には、前回のブログ(伊豆の旅Ⅱ:松崎~伊豆の長八の鏝絵)で紹介した時計塔(タイムトラベルマシーン)が建っている。川のそばには火の見櫓もあり、川に架かる「ときわ大橋」の欄干には、桜の花、空を飛ぶ燕が漆喰で鮮やかに描かれている。
時計塔 |
火の見櫓 |
橋の欄干に描かれた桜とツバメ |
この建物は、近藤平三郎という松崎町出身の薬学者の生家。近藤平三郎(1877-1963)は、江戸末期に薬問屋として成功を収めた近藤家に生まれ、東京帝国
大学を卒業後、ドイツに留学、その後、塩野義商店(現塩野義製薬)の顧問、東京帝国大学の薬学主任教授となり、アルカロイドの研究に大きな足跡を残した。
近藤平三郎は、10歳位になると、父平八郎が時々東京へ連れていってくれた。そこで平三郎は、銀座のレンガ造りの建物、ガス燈、洋装の婦人など、「文明開化」を自分の目で確かめながら、心を膨らませていったという。明治人のパイオニア精神が培われていった姿を見るような思いがする。
近藤邸は、今も住まわれているので、内部は観ることはできないが、家のまわりは「なまこ壁通り」と名付けられていて、数十メートルもなまこ壁が続いていて、圧巻である。
4.伊豆文邸
中瀬邸と同じく、明治の呉服商の店舗兼住宅の伊豆文邸は、中瀬邸の23年後、明治43年に建てられた。ここのなまこ壁は、松崎でも一番分厚いなまこ壁だという。また、鉄製の観音開きの窓も独特である。
ピラカンサの赤い実 |
鉄製の観音開きの窓 |
那賀川に架かるもう一つの橋、浜丁橋から、港に続く流れに沿って、美しい曲線を描いてなまこ壁が続く。松崎町の町長を長く務めたという依田四郎の邸宅である。
いまは古民家カフェなどに使われている。
浜丁橋のたもとに |
6.山光荘
江戸後期に造り酒屋として建てられた依田家の屋敷を割烹旅館に改装している。つげ義春の漫画にも描かれ、長八の作品があることから「長八の宿」といわれている。作品を見られるのは宿泊者のみだが、なまこ壁の窓の両袖に「竹林に虎」、柱に「登り龍」庇に「龍」の鏝絵が描かれているという。
依田一族については、町から数キロ離れたところにある「旧依田邸」(依田家の本家)を訪れたので、次回に書くことにしたい。
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