〔黄帆船図〕 1920年代 着彩(パステル)
Ⅱ.寺崎武男(1883~1967)
川村清雄に続いて、もう一人の画家、寺崎武男についても、その主な経歴、作品をみていく。
1.主な経歴
寺崎武男は、1883(明治16)年、江戸・赤坂の生まれ。川村清雄が1852(嘉永5)年であるから、ほぼ30歳の開きがある。何よりも維新の前・後という違いがある。
寺崎武男の祖父は助一郎といい、渡邊崋山に師事した儒学者で、長崎奉公所に駐在し、軍医ポンペやイギリス公使オールコックなど外国要人の通詞をした、やはり幕臣の一人である。こうした外国人との接触機会のある環境により、父・遜(とおる)は、外国語に堪能であった。
遜は彰義隊の一員となったが、神奈川県判事・寺島宗則との出会いもあり、1868(明治元)年に16歳で神奈川県兵になり、その後、1872(明治5)年には電信技術研究の留学生として 英国に留学し、近代日本黎明期の電気通信分野の事業に関わった。また、1888(明治21)年に地方制度調査のためヨーロッパ視察に山縣有朋が出向いた際、遜は通訳の随員とし同行している。さらに、1895(明治28)年から4年間宮内省に勤め、1899(明治32)年の第2次山縣内閣では総理大臣秘書官を任じられている。 寺崎遜は1900(明治33)年に役職を離れ赤坂の自宅で過ごすが、1903(明治36)年に亡くなる。
その前年、武男は 東京美術学校に入学し、西洋画科で岩村透にイタリア美術史を学んでいる。1907(明治40)年、美術学校を卒業後、直ちに農商務省留学生としてイタリアに行き、図案および彫刻、特にフレスコ壁画を学ぶ。翌年には、ヴェネツィア商業高等学校日本語教授となる。この日本語教授の職は、川村清雄から長沼守敬に継がれ、寺崎武男がその後15年間務めた。(後に、武男は、長沼を慕って千葉・館山に住むことになる)
1916年 大正5 に帰国する。その後の、主な業績はつぎのとおり。
2.主な業績
寺崎武男は、その語学力とイタリアで学んだ西洋画法、とりわけ壁画の研究をもとに、絵画の本質を追求し、「萬代迄の絵画」を目指した。作品の制作だけでなく、美術に関してさまざまな活動をしている。そのいくつかをあげる。
(1)明治神宮聖徳絵画館
1919(大正8)年 明治神宮奉賛会より絵画館のための壁画調査を依頼され渡欧し、研究した成果を『明治神宮奉賛会通信』に「調査報告」した。
同時に、1921年(大正10)年、 「ルネサンス諸大家の傑作20枚」を同じ画質と画材と描法で模写し、イタリアから東京へ送ったものの関東大震災で総て消失してしまった。
また、1926年(大正15)年 に絵画館へ第45図『軍人勅諭御下賜の図』を制作している。奉納者、侯爵・山縣伊三郎(山縣有朋の甥・養子)
明治天皇から「軍人勅諭」を押しいただいているのは、大山巌・陸軍卿、右手前に、山縣有朋・参謀本部長
聖徳記念絵画館 壁画集 明治神宮奉賛会 1932(昭和7)年 書籍 |
聖徳記念絵画館 壁画集 明治神宮奉賛会 1932(昭和7)年 書籍 |
(2) 羅馬開催日本美術展覧会
1930( 昭和5)年、横山大観が中心となった「羅馬開催日本美術展覧会」(イタリア政府主催・大倉喜七郎後援)では、寺崎が渡欧し、通訳兼コーディネーターを務めた。 この展覧会は、ムッソリーニの肝いりでイタリア政府から開催希望があり、横山大観を中心として代表的な日本画家たちの力作を展示した歴史的な展覧会とされる。
このとき、武男は、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際展でテンペラの大作《幻想=KUWANNON》が入選する。これは日本人初の栄冠で、イタリア政府に買上げられ、今もヴェネツィア現代美術館(MUSEO DÁRTE MODERNA)の壁画を飾っているという。 (作品の画像はネットからは得られなかった)
(参照):ローマ展に出品した平福百穂《荒磯》について
東京異空間245:美術展を巡るⅣ-4~MOMATコレクション@東京国立近代美術館(2024/11/16)
羅馬開催 日本美術展覧会記念図録 上・下 1930(昭和5)年 書籍 |
羅馬開催 日本美術展覧会記念図録 上・下 1930(昭和5)年 書籍 |
日本美術展覧会ポスター 1930年 ポスター |
(3)法隆寺壁画
武男は、大正期から法隆寺の火災を懸念し、「萬代迄の絵画」を目指す観点から、防火設備 の不備に警鐘を鳴らす論文を書いている。しかし予見 どおり 30 年後の 1949(昭和 24)年1月 26 日早朝、 法隆寺金堂から出火し壁画の大半が焼失してしまった。 すぐ法隆寺に駆けつけて、佐伯定胤管主に会い、焼け残った輪堂に新たな壁画を描くことを懇願して許可を得た。
武男は、これまでの研究を活かして、描法は金堂と同じ方法で、画題は聖徳太子の人生観や哲学観を描いた。1955( 昭和30)年、《法隆寺輪堂壁画》を完成させた。しかし、その後、輪堂が傾いてしまい、描いた壁画が損傷してしまった。新たに制作したこの昭和の壁画も現在、拝観できないとは、なんとも残念なことだ。
なお、1956(昭和31)年、73歳のとき、カトリック碑文谷強化の壁画を制作している。
(4)東京帝大附属病院のアーケード大壁画
東大本郷キャンパスの建物は、関東大震災により多くが損傷したため、新たに内田ゴシックと呼ばれる建物が建てられた。そのうち、1931(昭和6)年から7年かけて、附属病院のアーケードに武男の壁画が描かれた。
ここに描かれたのは病院に相応しく題して『更生』 である。法隆寺の古代壁画を理想とする武男が特に研究して作った絵具を用いた。しかし、この壁画は 長い間、雨風にさらされ、陽にあたり、また医学生の投げるボールをぶつけられるなど、今や何が描 かれているのか判読が困難になってしまっている。かろうじて、一部に TAKEO TERASAKI とサインが書かれていることが判明するという。これも、また残念なことである。
(参照):附属病棟のファサードの外壁には新海竹蔵、日名子實三のレリーフが刻まれている。
東京異空間157:東大・本郷キャンパスⅣ~内田ゴシック(2023/11/19)
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附属病院のアーケード・壁画はほとんど見ることができない |
3.代表作
寺崎武男の戦前の作品は、その多くが焼失、あるいは損傷し、見ることはできないが、1938昭和13)年、55歳を期に日本の画壇からは離れ、館山で、 こよなく房州の海を山を愛し、その自然に育まれ、房総の神話をテーマに、畢生の大作を次々と描いていった。武男が館山に居を構えたのは、1923年(大正12年)、関東大震災の後、師でもあった明治の彫刻家・長沼守敬(ヴェネツィア商業高等学校日本語教授の前任者)を慕ってのことであった。
館山では、房総の神話をテーマに描いた作品が安房神社などに納められている。また、県立安房第一高校の美術講師を4年間、務めている。
展示されていた代表作をあげておく。
(1)《天照大神 永遠の平和》 1945(昭和20)年
まだ戦争が終わっていない1945(昭和20)年8月1日に、平和を願って制作している。海の向こうに描かれた富士山は館山湾のようだが、当時はヤシの植樹がないので、南方諸島のイメージが重なっていると推察される。館山海軍航空隊は、中国への無差別攻撃やハワイ真珠湾攻撃、海軍初の落下傘部隊などの特殊訓練が行われた最前線の基地であった。それらを目の当たりにしてきた武男は、滞欧中の第一次世界大戦の体験が重なり、平和な社会をより強く願ったのではないかとされる。
(2)《平和来る春の女神》 1946(昭和21)年
1946(昭和21)年に制作された。ようやく戦争が終わり、訪れた平和な春を祝福し、戦没者を慰霊した作品。舞台は、館山市布良の阿由戸の浜をイメージしたのではないかと推察される。右手に女神山がそびえ、海の向こうには富士山・天城・大島・利島・新島・式根島‥を眺めることができる神話の里である。
4.展示作品
展示されている作品は、絵画のみならず、イタリアからの手紙などの資料もある。目黒区美術館のほか、千葉市美術館、 NPO法人安房文化遺産フォーラム(館山)などの所蔵となっている。
ヴェニス 1920年代 水彩・紙 |
自画像 1917(大正6)年頃 銅版・紙 |
〔鳥〕 1910(明治43)年 水彩・紙 |
ゴンドラのあるドゥカーレ宮殿 (寺崎渡宛ハガキ) 1915(大正4) |
1916(大正5) 年1月1日付ハガキ 銅版・紙 |
〔ヴェニス サンマルコ寺院〕 1920年代 パステル・紙 |
溜め息の橋 大正期 銅版・紙 |
ドゥカーレ宮殿 1926(大正15)年 銅版・紙 |
(サンマルコ広場) 1926(大正15)年 銅版・紙 |
ヴェネツィア アカデミア橋 大正期 銅版・紙 |
ある婦人像 大正期 銅版・紙 |
ヴェネツィアの船出 1922(大正11)年 石版・紙 |
天正遣欧使節 ヴァチカンへの行列 1917(大正6)年頃 紙本着色(テンペラ)・六 曲一双屏風 |
天正遣欧使節 ヴェネツィアの大歓迎 |
天正遣欧使節 ヴェネツィアの大歓迎 |
天正遣欧使節 |
〔ティエポロ 「クレオパトラの饗宴」模写〕 1921 (大正10)年頃 油彩・キャンバス |
〔ティエポロ 「クレオパトラの饗宴」模写〕 部分 |
〔ティエポロ 「クレオパトラの饗宴」模写〕 部分 |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕 制作年不詳 油彩・キャンバス |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕部分 |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕部分 |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕部分 |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕部分 |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕部分 |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕部分 |
〔ヴェロネーゼ 「レヴィ家の饗宴」模写〕部分 |
ヴェネツィアの女 1923-26年(大正12-15)年頃 フレスコ |
ヴェネツィアの女 部分 |
皇后陛下のご仁慈 (国史絵画より)下絵 1935(昭和10 )年頃 油彩・カンバス |
蝶々夫人 1960(昭和35)年 着彩・紙、 六曲一隻屏風 |
蝶々夫人 部分 |
明治生まれの武男の前半は、イタリア・ヴェネツィアに、後半生は千葉・館山で過ごし、西洋と日本のそれぞれの伝統を生きた生涯であった。
1967(昭和42)年、逝去、84歳。
(参考):
川村清雄に比べると、寺崎武男に関するネットで検索出来る情報は圧倒的に少ない。
『寺崎武男 生誕140年・平和の祈り』NPO法人安房文化遺産フォーラム
川村清雄と寺崎武男というふたりの画家、生まれは江戸と明治で30歳ほどの開きがありますが、ふたりとも、複数の言語を話し、イタリア・ヴェネツィアで西洋画を学ぶも、日本の伝統を重視した作品を描いています。
今回の展覧会で、川村清雄が書籍の装幀等も手掛けていたこと、寺崎武男が千葉・房総と関わりが深いということもはじめて知りました。展示作品が全て撮影可というのも、ふたりの画家の生涯、作品について興味を一段と深めてくれました。
ちなみに千葉、主に房総にゆかりのある画家たちを挙げておきます。
千葉にゆかりのある画家たち
(1)波の伊八(1751-1824)
安房国長狭郡下打墨村(現:千葉県鴨川市打墨)で生まれる。 本名は武志伊八郎信由。躍動感ある波を表した欄間が見事であったため、このような異名で呼ばれる。同世代に活躍した葛飾北斎の有名な《神奈川沖浪裏》などの画風に強く影響を与えたといわれる。
波の伊八の作品は、千葉県いすみ市にある寺院などに残されている。
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欄間彫刻「浪に宝珠」(裏面部分)1809年/いすみ市・行元寺 |
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《神奈川沖浪裏》 |
(2)菱川師宣( 1618-1694)
安房国平郡保田本郷(現:千葉県安房郡鋸南町)で生まれる。「浮世絵の祖」とも呼ばれ、代表作には、《見返り美人図》がある。
師宣は故郷房州保田をこよなく愛した絵師として知られ、落款には「房陽」「房国」という文字を入れたり、保田の別願院には父母や親族の供養のために梵鐘を寄進したりしている。
1694(元禄7)年、師宣は江戸で亡くなるが、遺骨は別願院に葬られたといわれる。
現在、保田(現・鋸南町)には菱川師宣記念館がある。
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《見返り美人図》 |
(3)浅井 忠(1856-1907)
佐倉藩士の浅井伊織常明の長男として江戸屋敷で生まれた。文久3年(1863)、藩命により佐倉へ移住し、少年時代を過ごす。
1876明治9)年、工部美術学校に入学し、イタリア人画家フォンタネージから本格的な西洋美術の基礎教育を受ける。その後、明治31年(1898明治31)年、東京美術学校の教授となりなど、日本の西洋画の先駆者と言われる。
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《春畝》 |
(4)青木 繁(1882-1911)
旧久留米藩士の長男として生まれる。1900(明治33)年、東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝の指導を受ける。
1904(明治37)夏、美術学校卒業したばかりの青木は、画友・坂本繁二郎、恋人・福田たねとともに、小さな漁村・房州富崎村布良(現・館山市)に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルは福田たねだとされている。《海の幸》は日本で最初の国の重要文化財となり、3年後に、やはり日本神話を描いた《わだつみのいろこの宮》も、国の重要文化財となっている。
福田たね(1885-1968) との間に生まれた男児は、《海の幸》にちなんで幸彦と名づけられるが、 入籍をしないまま2歳で別れることになる。故郷・久留米に戻った青木は放浪生活の末、病に倒れ、1911(明治44)年に28歳の若さで亡くなる。 成人した遺児・幸彦は、『笛吹童子』で有名な尺八奏者・福田蘭童(1905-1976)として活躍した。 また、蘭童の子・石橋エータロー(1927-1994)は、クレージーキャッツの一員(ピアニスト)として一世風靡した後、料理研究家として活躍した。
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《海の幸》 |
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《わだつみのいろこの宮》 |
(5)田中 一村(1908-1977)
栃木で生まれる。幼いころから南画に才能を発揮し、「神童」と呼ばれる。1926年、 東京美術学校日本画科に入学する。同期に東山魁夷、橋本明治らがいた。1938年、親戚を頼って、千葉県・千葉寺町に移る、その後中央画壇から離れ、 1958年奄美大島に行き、画壇に認められないまま、奄美の自然を愛し、繊細な花鳥画を描いた。
評価されたのは没後、NHK日曜美術館で、「黒潮の画譜の画譜~異端の画家・田中一村」(1984年12月16日放映)などにより、その独特の画風が注目を集めた。
2010年、千葉市美術館で大規模な展覧会「田中一村 新たなる全貌」が開催されている。
2022年には、千葉市美術館コレクション展として、新たに収蔵された田中一村の作品の展示が行われている。
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「田中一村展」ポスター |
(6)東山 魁夷(1908-1999))
昭和を大補油する日本画家のひとりで、風景画の分野では国民的画家といわれる。東山が認められたデヴュー作が、1947年の日展で特選となった、鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを描いた《残照》である。
東山はこの絵について、次のように語っている。
「冬の九十九谷を見渡す山の上に在って、天地のすべての存在は、無常の中を生きる宿命において強く結ばれていることを、その時、しみじみと感じた。」(『風景との対話』新潮社)
東山魁夷は、戦後まもない1945(昭和20)年から1999(平成11)年に逝去するまでの、およそ半世紀にわたり市川市に住んでおり、市川市東山魁夷記念館がある。
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「残照」 |
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