大隈講堂 |
早稲田大学の近くに用事があり出掛けたついでに、早稲田大学のキャンパスに寄って写真を撮ってきました。そこは学問の場という空間だけでなく、明治時代からの政治的、歴史的、建築的空間がありました。
1.大隈講堂
早稲田大学を象徴する建物と言えば、この大隈講堂である。英国流ゴシック様式の建物の設計は、日比谷公会堂などを手がけた佐藤功一、東京タワーなどを手がけた内藤多仲など早稲田大学建築学科の教授陣の設計により、1927年に完成した。
塔上の鐘は、英国ウェストミンスター宮殿と同じハーモニーを一日6回、奏でているという。
文明開化とともに各地の学校や役所に時計台が設けられた。時計塔は文明開化の象徴であり、国の威信を示し、勤勉のシンボルともなった。
大隈講堂 |
大隈講堂 |
大隈講堂 |
大隈講堂 |
2.大隈重信像
大隈講堂を背にキャンパスに入ると大隈重信像が立っている。早稲田を象徴する角帽をかぶりガウンをはおる姿の立像は3メートル弱の高さがある。大隈が1889年にテロに遭い右足を失った後の姿で、杖をついている。朝倉文夫の制作による像で、受験期にはお賽銭を供える受験生もいるという。
大隈重信は明治14年の政変により野に下ったが、その翌年1820年(明治15)に「東京専門学校」を創設した。
大隈は、英国流の近代国家の建設という大きな視野から、教育事業もその一つとして位置付け学校を創設したが、自らが立憲改進党を結成していたことから、学校と党の関係について疑念がもたれることを恐れたため、開校式には姿を見せなかった。ただ、来賓にはモース、外山正一、福澤諭吉、前島密などが参列したという。
実際、大隈が設立に関与していたということから、これを立憲改進党系の学校とみなし、大学教授の出講禁止など、さまざまな妨害や圧力が加えられた。したがって、大隈は学校の具体的運営、教育などについては自らは行わなかった。
東京専門学校の初代校長は大隈英麿(大隈の婿養子)であり、2代目は前島密、3代目は鳩山和夫が、改称した早稲田大学の初代校長にもなり、その後、1907年(明治40)に総長・学長制をひいて、高田早苗が早稲田大学の初代学長となり、大隈が総長となった。大隈自らは、「学校は寺みたいなものだ。私は檀家(だんか)だ」と発言していたという。総長になった時、大隈は70歳であり、早稲田では「大隈老侯」と呼ばれることがあるというのも、こうした後年の功績によるものだろう。
大隈重信は、あくまでも政治家であり、早稲田大学における位置付けは、慶應義塾大学の創設者・福澤諭吉とは対照的といえるだろう。晩年、大隈は自ら「その生涯はことごとく政治に捧げて来たのだ。極言すれば、政治はわが生命である」と述べている。
なお、大隈重信は1922年(大正11)に亡くなり、日比谷公園で盛大な国民葬が行われた。享年85歳。
大隈重信像 |
大隈重信像 |
早稲田キャンパス |
早稲田キャンパス |
早稲田キャンパス |
3.大隈庭園
大隈講堂の横に大隈庭園がある。ここは江戸時代後期には大名庭園であったが、1874年(明治7年)に大隈が入手して邸宅とした。園芸にも熱心であった大隈は庭園に温室や菜園を設けて、洋ランやメロンなどを育てたという。
この隣接地を早稲田大学の前身である東京専門学校の用地とし、1882年(明治15)に開校した。当時このあたり一帯は水田や茗荷畑だったという。早稲田という地名もこの辺りの水田が凶作に備えて早く田植えをしたということに由来する。
近くを流れる神田川を渡れば目白に出るが、以前、拙ブログ(東京異空間37:権力者の館1~音羽御殿と目白御殿2021.6.1)で取り上げた鳩山会館もこちら側にある。鳩山一郎の父、和夫は大隈の要請により東京専門学校の校長となり(1890年明治23)、早稲田大学となったとき(1902年(明治35)にはそのまま初代校長を務め、1907年(明治40)に退任するまで17年間校長を務めた。しかしながら、和夫の息子、一郎と秀夫は一高から東大の道を進んでいる。
なお、鳩山会館にある和夫と春子の像は、やはり朝倉文夫の手になるものである。
今、大隈庭園は大隈会館と、リーガロイヤルホテル東京に囲まれた静かな庭園となっている。
大隈会館 |
大隈庭園 |
旧大隈邸 |
4.會津八一記念博物館
大隈重信像の近くに建つ會津八一記念博物館は、早稲田の教授を務めた會津八一を記念して、早稲田建築科の教授・今井兼次の設計による旧図書館(1925年完成)を再生して1998年に開館した。會津八一のコレクションをはじめ、富岡コレクションなど多くの美術品や考古学発掘資料などを所蔵する博物館となっている。
會津八一は、早稲田で坪内逍遥やラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などに学び、東洋美術史家、また歌人として知られている。ちなみに八一は1881年(明治14)8月1日に新潟で生まれており、その名は、この語呂合わせの良い一と八の生年月日から来ている。
八一は美術史の研究には作品と直に接することが大切であると説き、その実践に、多くの美術品を集め、そのコレクションが博物館の収蔵品の柱となっている。また、実践の一つとして奈良の古寺、古仏を何度も訪ねている。その際に泊った宿が「日吉館」である。この宿には奈良を訪れる学者、画家をはじめとして多くの文化人、学生が常連客となっていた。というのは宿泊料は一泊2千円とユースホステル並みに安くて、しかも夕飯にはすき焼きの御馳走が出た。旅館を切り盛りする女将はNHKのドラマになるほどの名物女将であった。
じつは、私も中学生のときに、この宿に泊まって奈良のお寺、仏像を巡ったことがある。その時の女将さんのこと、料理のことなど、いまだによく覚えている。
日吉館は惜しまれつつ、老朽化を理由に2009年に取り壊された。宿に残された會津八一の揮毫による『旅舎 日吉館』という看板や宿帳などの貴重な品は、この記念博物館に寄贈されている。
會津八一記念博物館 |
奈良・日吉館 |
會津八一の揮毫による旅舎日吉館の看板 |
5.安部球場
日本における野球の草創期である1902年(明治35)に早稲田大学が隣接していた戸塚村の農地につくった野球場で、「戸塚球場」と呼ばれていたが、戦後、初代野球部長と務めた安倍磯雄の功績をたたえ「安部球場」と改称された。
1908年(明治41)には、米大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部がこの球場で対戦し、大隈重信が始球式を行った。大隈が投げた一球を打者が空振りしたことから、以後、今も始球式の際にはどんな球でも空振りするという習わしになっているという。
また、1933年に日本初のナイター設備が導入されたのがこの球場で、時の文部大臣・鳩山一郎が始球式を務めた。
早慶戦⇔慶早戦(慶應側からは)の始まりは、1903年、早稲田が先輩格の慶應に「挑戦状」を送達し、慶應がそれに応じたことによって行われた試合で、慶應の三田綱町球場にて行われた。試合は11-9で慶應の勝利となった。その後、定期戦が行われることになり応援合戦も過熱していった。
安部球場は、1987年に閉鎖され、跡地は学術情報センターとなり中央図書館などが移管され、その旧図書館を改装され、先に述べた會津八一記念博物館となった。
西早稲田の野球グランドは、東伏見の体育会系のキャンパスに移され、2015年には「安部磯雄記念球場」となった。
この野球場は、私がいつも散歩で行く公園の横にあり、グランドからは選手の掛け声、バットの音などが響いてくる。
東伏見キャンパスの安部球場 |
安部球場で練習する野球部員 |
早稲田キャンパスを巡ってみて、学問の場であることばかりでなく、庭園に見る大隈候の政治的空間、大隈候の杖をつく像に見る、その歴史的空間、そして講堂などに見る建築的空間に浸ることができました。
加えて、會津八一記念博物館では、奈良・日吉館に行ったかっての個人的思い出にも浸ることができました。
いつもの散歩コースである公園の横にある東伏見キャンパスの「安部球場」に響くバットの打球音が、こうしたそれぞれの空間にも響いていくようでした。
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