2022年2月2日水曜日

東京異空間52:庚申塔~民間信仰を見る

 

庚申塔と馬頭観音塔

石神井公園に行く途中に、路傍の石仏があります。これは「庚申塔」といわれるものです。Googleマップで「庚申塔」を検索してみると、散歩に行く範囲でもいくつか見つかりました。

今回は、石神井公園の周辺、武蔵関駅の周辺にある庚申塔を訪ねるとともに、その背景となっている庚申信仰、さらに本尊ともいうべき「青色金剛像」について調べてみました。


1.庚申信仰

庚申というのは庚(かのえ)申(さる)という、十干・十二支の暦で60日ごとにある庚申の日かのえさるのひに行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教に起源があるとされる。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうという。そこで、長生きしたければ、三尸さんしの虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、徹夜して一日中眠ってはならない、とする「庚申待」が行われたこうした風習は平安貴族の間にもみられ、「庚申待」という教えが、庚申信仰へとつながっていった。

三尸の「」という字は、ヒトが体を硬直させ横たわった姿を表す象形文字で、「屍」、つまり死体の原型である。そこから死を伝染する「伝病(でんしびょう)」の原因となるのが、この虫とされた。

また、三尸という虫は、腹の中にいて病気を引き起こすと考えられ、そこから「ハラノムシ」という奇妙な虫たちが想像されてきた。昔の人々は、それを信じ、鍼灸などの治療も施された。

参考:『戦国時代のハラノムシ』長野仁・東昇 国書刊行会 2007年

虫(しちゅう)『戦国時代のハラノムシ』より


いつの時代でも、死・病は恐れられるものであり、医療が不十分な時代では、そのための有効な対策と考えられたのが「庚申待」であり、江戸時代には民衆に広く浸透していった。庚申待の夜には寝ないように皆が集まって酒宴を開くなど娯楽的要素も加わり、しだいに、その集団が組織化され「講」がつくられた。

また、庚申信仰は他の信仰とも複雑に習合していった。神道では、「猿」と「申」の関わりから猿田彦神を祀る神とも結びつき、「幸神」(=庚申こうしん)とされた。さらに、天台宗と密接な関係にある日吉大社を本尊とし、猿を神の使いとしている山王信仰とも習合した。そのほか、富士信仰や道祖神信仰などの民間信仰とも結びつき、豊作、招福、厄除け、良縁、健康長寿、病除けなどの現世利益の神として広く浸透していった。

しかし、幕末から明治にかけ近代化とともに、「迷信」として避けられるなど、庚申信仰は衰退していった。庚申待も回数を減らしたり散会時間を早めたりと、地域の繋がりの希薄化や他の娯楽の発達に伴い講としての活動は徐々に縮小されてきた。しかしながら、現在でも自治会や町会の有志が地元の庚申塔の周辺整備やお参りを続けるなど、少なからず信仰が続いている地域もあるようだちなみに練馬区内には130余りの庚申塔があるという。


2.青面(しょうめん)金剛像

三尸さんしの虫の活動を封じ込める」という庚申信仰の目的から、青面金剛はその強力なパワーを発揮し、病気を駆逐する神として、庚申の主尊とされた。

青面金剛は、もともとは病を流行らせる悪鬼であったが、改心して病を駆逐する神となったとされている。インドのヒンドゥー教のヴィシュヌ神が転化したものではないかという。

ヴィシュヌ神(ウィキペディアより)

その名の通り、体は青色で多(四、六が多い)で、手には法輪・弓・矢・剣・錫杖・羂索、ショケラ(後述)などを持つ。忿怒の相で、頭は焔髪(怒髪)、足元には邪鬼を踏みつける姿である。

庚申塔には、青面金剛の上には、日月雲が描かれ、足元には鶏が二羽、さらに三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫られている。庚申が60日周期であり、月日を知らせる日月雲、徹夜明けの暁を告げる鶏、三猿は悪事を見ず、聞かず、言わず、ということから、青面金剛とあわせて庚申塔を構成している。

今回、訪れたそれぞれの庚申塔(塚)で、その図像を見てみる。


3.庚申塔(塚)

(1)石神井台4丁目(旧早稲田通り沿い)にある庚申塔

旧早稲田通りの交差点には「庚申塚」の信号機がついている。その通り沿いに、赤い屋根の祠があり、中に4基の石造が置かれている。向かって左から二番目に青面金剛像が置かれている。

日月雲青面金剛立像 青面金剛は合掌して六臂。鋭い二つの眼の上に三眼がある。足の両脇に二鶏が浮き彫りされている。磐座の下に比較的大きな三猿が彫られているが、邪鬼は見当たらない。元禄5年(1692)。

お水とお賽銭があげられていた。

赤い屋根の祠の中に庚申塔

「庚申塚」と付いた信号機

青面金剛立像


三猿

(2)石神井公園・野草観察園近くにある庚申塔

農道のような脇道にある庚申塔。通りがかった女性は塔に手を合わせてから歩いて行った。

宝珠付きの唐破風笠を持った角柱型の石塔は立派である。日月雲青面金剛立像。青面金剛は合掌して六臂。足元に邪鬼はない。下部には三猿。三匹の手と足がくっつき菱形状に彫られている。その下に向かい合う二鶏。元禄四年(1691)と刻まれている。

石塔の脇には御幣が捧げられていた。

唐破風笠の付いた庚申塔

日月雲の下に青面金剛

六臂

元禄四年と刻まれている

三猿と二鳥、石塔の脇に御幣

三猿

(3)池淵史蹟公園内にある庚申塔など

練馬区のふるさと文化会館の横にある公園で、縄文時代の住居跡や古民家が建ち、周辺には庚申塔ばかりでなく、馬頭観音なども置かれていた。

公園の隅に3基の石塔が並んでいる。手前が①笠付きの青面金剛像、奥が②駒形の青面金剛でショケラを持つ、中央は③文字塔。公園内には他に、庚申塔3基④、⑤、⑥と、馬頭観音三基⑦、さらに力石➇がある。

3基の石塔(手前から①、中が③、奥が②)

唐破風笠付き角柱型正面中央を舟形に彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像を彫る。青面金剛は合掌六臂。足元に邪鬼、邪鬼は頭と背中を押さえつけられているが、眼は様子を窺うようにもみえる。両脇に二鶏線刻され、それぞれ邪鬼のほうを向いている。下部には正面向きの三猿が彫られ、それぞれ眼、耳、口押さえているのがよくわかる。享保12年(1727)。


外に日月雲、内に青面金剛

唐破風笠付

合掌六臂

三眼


踏みつけられる邪鬼、三猿、横に二鶏が線刻

塔の右側面には「奉供養庚申塔石橋一所諸人快樂祈処」と刻まれており、石橋供養塔を兼ねたもの。石橋供養塔は、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災いが入り込むのを防ぐ意味があると伝えられている。

村の名は「豊嶋郡中荒井村」(現・練馬区豊玉周辺)で、願主の名は「田中半左衛門」と読める。

庚申塔の横側に刻まれている文字

駒型の石塔の正面日月雲青面金剛立像六臂。手には法輪、宝剣、弓などを持ち、左手にはショケラといわれる女人の髪の毛をつかむ。ショケラは足を曲げ合掌している。足の両脇には二鶏半浮き彫り。雄鶏も雌鶏も後ろを振り向いているようだ。足元には邪鬼が頭を踏みつけにされ、その下に三猿が彫られている。明和2(1765)

手に法輪、宝剣、弓、ショケラを持つ


邪鬼と三猿

頭を踏みつけられる邪鬼

見ざる

中央庚申塔は、駒型の文字塔。梵字「ウン」の下に「奉造立青面金剛心願成就祈所」と刻まれている。文政元年(1818)

文字のみの庚申塔

舟形光背に日月雲青面金剛立像。青面金剛は合掌して六臂。三眼でしかめ面をしている。頭が尖るほど焔髪が大きい。髪の真ん中にあるのはドクロか?首の周りの飾りにもドクロ?足元に丸い体形の邪鬼が背中と腰あたりを踏みつけられている。享保5年(1720)。

庚申塔と馬頭観音塔

青面金剛・三眼でしかめ面

頭は尖るほど大きい焔髪。髪の中と首周りの飾りはドクロ?

背中と腰を踏みつけられた邪鬼

駒型の石塔の正面日月雲青面金剛立像合掌して八臂。八臂の青面金剛は珍しいようだ。手には羂索などの持物をもち、右側の中の手にはショケラ(女人)の髪を持っているように見える。足元には三猿だけが彫られてい右脇に元禄十六年(1703)の造立年と、「施主十一人」と刻まれている。


八臂の青面金剛

元禄十六年の造立年と施主十一人を刻む

三猿

⑥こちらも塔全体に風化が著しい。青面金剛は合掌して六臂。台座はつぶされているが、三猿だろうか。元禄9年(1696)。





⑦馬頭観音塔(④の脇にある大きな馬頭観音塔)

大きな角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「カン」の下に「馬頭観音」の文字が刻まれている。享和3(1803)

馬頭観音は頭上に馬頭をいただき、忿怒の相をしている像があるが、ここでは「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑が置かれている。多く馬への供養として祀られた。馬は農耕、運搬などに使われ、また馬は大食であることから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすといわれ馬とともに生活する当時の人々にとって、馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれた。

馬頭観音塔と庚申塔

「馬頭観音」の文字


ほかにも文字のみの馬頭観音塔が2基ある。ひとつは、「南無馬頭觀世音菩薩」と刻まれている。文化10(1813)

「南無馬頭觀世音菩薩」の文字

もうひとつは「馬頭観音」と刻まれている。嘉永3(1850)。どちらも道標を兼ねているようだ。

馬頭観音」の文字

➇力石

三つの丸い石が置かれていた。これは力石で、その由来は神霊の依坐である石を持ち上げることで豊凶・天候・武運等の神意を伺う石占の信仰に遡るといわれている。江戸から明治時代にかけては神社の祭りなどで力試しが行われ、米一俵(約60キロ)を持ち上げるのが成人の資格ともされた。

ここにある真ん中の力石は「五拾貫」(187.5キロ)と刻まれている。

真ん中の力石は「五拾貫」

(4)小関の庚申塔

西武線武蔵関駅から、少し行った南北の通りは「庚申通り」と呼ばれている。そこを横切る石神井川に架かる橋は「庚申橋」と名付けられている。庚申橋北の交差点を少し入ったところに大谷石で築かれた小さな神社のようなところに庚申塔が祀られている。

庚申通りと庚申橋北の交差点

石神井川に架かる「庚申橋」

小さな神社のような庚申塚

階段を上ると、すぐに2匹の猿がお迎え、しかも阿・吽の対になっている。狛犬と同じである。

狛犬のような猿

狛犬のような猿

阿形

吽形

祠の中には青面金剛像、その前面には猿が二対鎮座している。社には注連縄と鈴が下がっている。上からは「小関庚申講」と「猿田彦大神」と書かれた赤い提灯が2つ奉納されている。奥には「大願成就」「一心願成就」という額、壁側には「青面金剛」が描かれた額が架けられ、また、奥に小さな社が祀られている。小社の中のお札は「二見興神社」と読める。三重県伊勢の夫婦岩でよく知られる二見興神社は、猿田彦大神を祭神としている。

祠の中の2対の猿



こちらも御幣をもつ猿

鈴と注連縄、中に青面金剛と猿

「小関庚申講」の提灯

「猿田彦大神」の提灯

「大願成就」「一心願成就」という額

「青面金剛」が描かれた額

お札は「二見興神社」と見える

主尊の青面金剛は、笠付き角柱型の石塔の正面に鎮座し、上に日月雲が彫られ、三眼で尖った焔髪の中にドクロか?六臂で、手には法輪、宝剣などを持つ。磐座の下には、三猿だけが彫られ、邪鬼、二鶏はない。元禄4年(1691)


上に日月雲、三眼で尖った焔髪、六臂で法輪などの持物

左手にショケラの髪をつかむ

三猿

特徴的なのは左手に持つショケラ。ショケラとは、その由来は、はっきりしないが、呪文だとか、仏教用語の「障碍(しょうげ)」にからきたものとされる。長い髪をつかまれながらも合掌する女人は半裸であるとされる。なぜ、このようにショケラ(女人)の髪をつかんでいるのだろうか。庚申待の夜に男女の交わりをすると大泥棒の子が生まれるといって、その行為を禁じている。つまり、男に欲望を起こさせないように女人の髪をつかんで懲らしめているという解釈もあるようだ。いずれにしても、異様で、どこか生々しい彫りである。

ちなみに、天下の大泥棒、石川五右衛門は庚申の日に生まれたという。また、庚申の日に生まれた子には「金」に因む名前を付ければ良いという。その代表が夏目金之助、あの文豪・漱石だったと。その昔から人々に庚申信仰が浸透していたことを窺わせるエピソードである。

髪をつかまれながらも合掌するショケラ

合掌する女人は半裸

こちらを向いて合掌する女人

小さな社の前にはお花を供されていて、いまも地域の方々によって大事にされている。この小さな場所には、人々の信仰がいっぱい詰まっているようだ。

祠の前にはお花が供されている

(5)本立寺にある庚申塔

西武線武蔵関駅から数分のところに日蓮宗の本立寺がある。石段の手前にほかの石仏とともに、庚申塔が置かれている。

丸みのある舟形光背に日月雲青面金剛立像合掌して六臂である。邪鬼、二鶏は見当たらず、下の台の正面に三猿が彫られている。昭和12(1937)と比較的新しいようだ。


合掌して六臂

鋭い眼光の青面金剛

いくつかの庚申塔を巡って、青面金剛の表情、いろいろな持物や、三猿や二鶏にも、人々の信仰の姿を見るような気がしました。庚申信仰は、猿田彦大神の信仰や、馬頭観音の信仰など他の民間信仰とともに、当時の人々の生活空間を形成していたことが分かります。そこには、「講」をつくり、庚申の日には仲間と酒宴をしながら夜を明かすといった娯楽的要素も入っています。

しかし、いまや、三尸さんし虫を信じて、庚申待して徹夜をする人はいないと思います。当時の人々の信仰、その生活空間は、今からすれば、あまりにも「異空間」であるように思えます。

しかしながら、三尸の虫をまともに信じなくとも、それに代わって、いまの新型コロナ・ウィルスは「伝病(でんしびょう)」と同じ原因の「虫」と言えないでしょうか。「三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)」に代わって、いまは「三密(密集、密接、密閉)」が唱えられています。当時の人は「講」という仲間をつくり、娯楽的要素も取り入れて連帯が生まれていたように思います。いまは、仲間とお酒を酌み交わすこともできず、お祭りや各種のイベントも制限され、団体ツァーでの旅行は取り止めになっています。さらに、いまのデジタル化社会では、こうした人と人とのリアルなつながりが薄れ、ネットでのつながりになっています。

もはや、庚申を信じた人々から、今の我々の生活空間を見れば、あまりにも「異空間」であると映るのではないでしょうか。

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