2022年2月18日金曜日

東京異空間55 石仏巡りⅢ~三宝寺

三宝寺・根本大塔と平和観音

本立寺に続いて三回目は、石神井公園の側にある三宝寺に行きました。一回目の道場寺と隣り合ってもいます。このお寺は練馬区の中では大きなお寺の一つであり、文化財も多いところです。

ここには、歴史的な堂宇の他にも、平成になって造られた大きな「平和観音」が立っています。


1.三宝寺の境内

三宝寺は、京都・智積院を本山とする真言宗智山派の寺院で、創建は1394年とされ、中世にこの辺りに勢力を張っていた豊島氏からも帰依を受けていた。豊島氏が大田道灌によって、文明9年(1477)石神井城の落城とともに滅ぼされた後は、小田原北条氏や徳川家からも保護を受け、大寺院として発展した。

(1)山門

徳川家光が鷹狩りに出掛けた際に、ここで休憩をとったということから「御成門」と呼ばれ、現在のものは文政10年(1827)に建てられた。この

では第一番古い物であり、扉の牡丹の模様、木鼻の獅子など、江戸後期の匠の技を見ることができる。

山門(御成門)

山門(御成門)

山門(御成門)・正面奥が本堂

山門の扉・牡丹の模様

山門・木鼻の獅子

山門・木鼻の獅子

山門(御成門)・本堂側から

(2)長屋門

長屋門は、勝海舟が明治32年(1899)に没するまで住んだという赤坂氷川の屋敷にあった表門(長屋門)を移築したもの。勝の没後、この門は練馬区旭町にあった兎月園に移され、その後、昭和35年(1960)に現在地に移築された「海舟書屋」の扁額が掲げられている。

門の両脇には、青面金剛(元禄13年1700)の造立の庚申塔と、有力な檀家が奉納した寺標(嘉永5年1852年)の造立の石塔が立っている。

長屋門・向かって右は庚申塔、左は寺標

「海舟書屋」の扁額・佐久間象山の書で、勝海舟の号の起源

青面金剛(庚申塔)

長屋門と十三重塔

三宝寺の紋と山号「亀頂山」を表わす亀の懸魚

(3)鐘楼

鐘楼は昭和48年建立されたもので、柱の龍や木鼻の獅子など、彫刻も凝っている鐘楼の梵鐘は延宝3年(1675)の銘があり、「新編武蔵風土記稿」に、江戸・増上寺の大鐘を鋳た時、その余銅をもって造ったと伝えている。増上寺は徳川家の菩提寺であり、御成門(山門)の家光の鷹狩りの話と同様、この寺と徳川家との関わりを窺わせる。

鐘楼・奥に見える三重塔は道場寺

鐘楼

梵鐘・鐘楼の柱には龍などの彫刻

(4)本堂

現在の本堂は昭和28年てられたもので、本尊は不動明王とされる。また、阿弥陀仏も本尊としているという。建物の木鼻に天女の姿や、扁額の上は、七福神の彫刻や鳳凰、龍などが施されている。これらは山崎朝雲の高弟・佐藤芳重の作とあり、こうした欄間彫刻は、江戸仏師の流れを汲んでいる。

山崎朝雲(慶應3年1867-昭和29年1954)は、福岡の仏師の下で修行していたが,上京し高村光雲に師事した彫刻家である。

本堂

本堂・扁額と欄間の彫刻

七福神の彫刻

騎龍観音の彫刻

鳳凰の彫刻

天女像

天女像

(5)大師堂(奥の院)・四国八十八ヶ所お砂踏霊場

本堂の右横に大きな自然石に「弘法大師」と彫られた(天保5年1834・大師千年遠忌記念が立ち、四国八十八ヶ所霊場の入口を表している。また、石仏が2体、阿弥陀如来立像(寛文8年1668造立)と大日如来坐像(造立年不明)が置かれている。

土手の上は、四国八十八ヶ所お砂踏霊場となっている。これ四国八十八ヶ所霊場の各札所の砂を埋めた霊場で、その砂を踏むことで実際に遍路をしたのと同じ利益があるというもので、八十八ヶ所の本尊名を刻んだ石碑が林立する。

このお砂踏み霊場は、明治29年(1896)に当寺の住職により発願され造られたが、当時は17ヶ所が出来上がったところで、未完成のまま中断されてしまた。その後、昭和48年(1973)、弘法大師ご誕生1200年記念事業の一つとして、残りの71所と高野山奥之院を合わせて72所、合計89所が建立された。

四国遍路は江戸時代には今でいうガイドブックも作られたが、明治に入ると、廃仏毀釈の影響もあり低迷していた。その後も、遍路は「辺路」であり巡礼は白装束(いつ倒れてもよいという死に装束)ということもあり、明るいイメージはなかったが、昭和30年ごろから交通も発達し観光化され多くの人が巡礼するようになった。

このお砂踏み霊場の中断から完成までの歴史は、そうした四国遍路の変遷を示しているともいえるだろう。

お砂踏み霊場の奥にある「大師堂(奥の院)」は、かっては経堂で、一切経を治めていたお堂であったが、これに弘法大師と千体地蔵を安置し大師堂となった。

大師堂(奥の院)の横には、弘法大師像が建てられている。四国八十八か所は、一番札所の霊山寺から八十八か所をすべて巡ると、お礼参りといって高野山に行き結願を報告する習わしがある。このお砂踏み霊場でも、最後に大師堂に行き、弘法大師(像)の結願のご報告するように配置されているのだろう。

「弘法大師」と彫られた

石塔の台に彫られた龍虎

阿弥陀如来立像と大日如来坐像

四国八十八か所・一番札所・霊山寺

お砂踏み霊場

大師堂(奥の院)

大師堂(奥の院)

弘法大師像・雪が残っていた

(6)根本大塔・宝篋印塔

根本大塔は木造多宝塔で、平成8年(1996)にこの寺の開創600年を記念して建てられたもの。

こうした多宝塔は、仏塔として日本独自の建築様式の一つで、空海が高野山に建てられたということから真言宗の寺院にはよく見られる。扁額にもあるように、「大毘盧遮那如来法界体性塔」が正式名称であり、大日如来を具現する塔とされる。同じ仏塔でも五重塔,三重塔などが仏舎利を納めることを目的としているのとは少し性格が異なる

根本大塔の前に大きな宝篋印塔が建っている。天明元年(1781)に造立されたもので、当初は山門(御成門)の前にあったが、関東大震災により倒壊し、現在の場所に移された。

宝篋印塔は、その名前の由来にある、「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」というお経を納めるための塔として造られた。この経典は、写経・読経し、塔に納めて供養することで功徳が得られると説いている。

根本大塔

根本大塔

根本大塔

「大毘盧遮那如来法界体性塔」の扁額

宝篋印塔

宝篋印塔

宝篋印塔・塔身の如来像

宝篋印塔・台座の龍と牡丹の彫り

(7)観音堂

観音堂は平成19年(2007)に建立され、近年改修されて建物全体が白くなった。中には如意輪観音菩薩像が安置されており、武蔵野三十三観音霊場の一つとなっている。

古くから関西には西国三十三所巡礼があり、そこまで行かれない人々のため西国写し霊場として、坂東、秩父など関東にも観音霊場がつくられた。武蔵野霊場は、昭和15年(1940)に開かれた新しい霊場で、西武鉄道(旧・武蔵野鉄道)の沿線にある寺院が霊場となっている。ここにも、交通の発達にともなって、信仰に観光の楽しみが加わって広まっていった観音信仰の姿を見ることができる。

お堂の扁額には「補陀落迦」と書かれているが、補陀落(ふだらく)とは観音菩薩の降り立つとされる伝説の山であり、降臨する霊場を意味する。中世には、南方の沖にあるとされる観音の浄土を目ざし船に乗り、そのまま生きて戻ることのない「補陀落渡海」という捨身行が、戦国時代に熊野灘など各地で顕著に行われた。この時代は、またキリシタンの世紀であり、イエズス会の修道士は、この特異な行を観察し、「悪魔の儀式」とみた。さらに、「私の最も驚いたのは、彼らがたいそう歓喜して船に乗り込み、海へ飛び込んでいったことである」と異教徒(仏教徒)の信仰の驚異を付け加えている。

参考:『観音信仰事典』速水侑 編 戎光祥出版 2000年

熊野に行ったとき(2020.2)を思い出す。補陀落山寺の渡海船、那智山・青岸渡寺の御朱印の写真を載せておく。

観音堂

観音堂・「補陀落迦」の扁額

観音堂本尊・如意輪観音菩薩像

如意輪観音菩薩像
補陀落山寺(那智勝浦)

補陀落渡海船(補陀落山寺)

渡海者の名が刻まれている(補陀落山寺)

那智山・青岸渡寺

御朱印・青岸渡寺は西国三十三所の一番札所


(8)大黒堂・地蔵堂

大黒堂は、大黒天尊像を本尊としている。よく知られているように大黒様は七福神の一つで、頭巾をかぶり、大きな袋を肩に担ぎ、打ち出の小槌を持ち、米俵を踏まえるといった姿をして、商売繁盛ばかりでなく農家でも田の神として信仰を集めている。このお堂には「開運出世大黒天」と書かれた大きな看板が掲げられ、その前には金色の小槌が置かれている。

現在のお堂は昭和59年(1984)に改築され、上階を大黒堂、下階は千体地蔵堂となっている。

地蔵堂には、地蔵菩薩立像と祭壇があり、その後ろには、巨大な壁画「六道曼荼羅」(天国地獄絵図、染川英輔画伯作)が描かれている。周りには千体地蔵といわれる小さな像が数多く並べられている。また天井には、檀信徒自ら画筆をとったという仏画が一面に奉納されている。

また、板碑(いたび)といわれる石板がガラスケースに収められている(後述)。

大黒堂・「開運出世大黒天」

大黒堂・金色の小槌

地蔵堂の入口

地蔵菩薩像と「六道曼荼羅」図

千体地蔵

千体地蔵

天井の仏画

2.平和観音

根本大塔の向かい側に大きな観音像が立っている。「平和観音」と呼ばれ、茨城県笠間の稲田産の御影石を使って平成8年に建てられた、高さ9メートルの大きな十一面観音像である。像の後ろに置かれた「平和観音略縁起」には、戦没精霊のみならず、一切萬霊の救済と供養のために、この観音像を建立した、とある。またもう一枚のプレートには「平和観音讃仰和讃」として西城八十の詞が刻まれている。これは昭和26年(1951)に、歌・松田トシ、作曲・古関裕而、として発表され、各地の慰霊祭でも合唱されたという。また巣鴨プリズンでも流行したという。その歌詞の三番を書き写しておく。

こころの平和 あらずして

地上に平和 あるべきや

いざ頼れ ひとすじに

この観音の み姿ゆ

生るる平和を 久遠の平和を

 

「平和観音」と名付けられた観音像は、戦後になって多く造られたものだが、日中戦争から太平洋戦争に至る戦時期には、「戦勝観音」「弾除観音」「興亜観音」「護国観音」などと名づけられた観音が造られた。また、観音様のご加護により弾にあたらないようにと「弾除観音」まで造られたという。

それが敗戦により、一変し、戦没者の慰霊とともに「平和」への祈願が合わさった「平和観音」が生まれた。観音像のひな形には、法隆寺の「夢違観音」(白鳳仏)が、戦争という悪夢から平和への夢へ、ということで選ばれたこともあったという。

さらに戦後には、「慰霊」、「平和」だけでなく「観光」スポットとしての要素が加味された大型の平和観音像が造られた。こうした大きな観音像は、高崎観音、大船観音、東京湾観音など関東でもいくつか見られる。このうち、高崎観音は戦前1936年に造られたものであり、大船観音は、それより前、1927年に「護国観音」として計画されたが、34年に中断され未完成のまま放置された。戦後の高度成長とともに、「護国」は消滅し、「慰霊」と「平和」を祈願し1960年に落慶した。いまでは、東海道線の沿線の観光スポットとしてもよく知られる。

また東京湾観音は、1961年当時としては日本一高い56メートルの高さを持つ間の像として造られた。千葉県・富津市の山の頂にあり、展望窓もあり東京湾から富士山が望める観光スポットとなっている。この像の原型を制作したのは、高村光雲に師事した長谷川昴という彫刻家で、それまで仏像を手掛けたことはなく、法隆寺の「救世観音」や、薬師寺の「聖観音」を参考につくられたという。

参考:『観音像とは何か』君島彩子 青弓社 2021

根本大塔の横から見る平和観音

平和観音・水仙が咲いていた

平和観音

平和観音

平和観音

平和観音・頭部の像

3.石仏

境内には、多くの石仏などを見ることができる。

(1)地蔵菩薩

本堂の前に六地蔵が並んでいる。享保18年(1733)に造られたもので、路傍にあったものをここに移築した。

六地蔵とは、人は死後、六道、すなわち地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六つの世界を迷うとされ、それぞれを6種の地蔵が救ってくれるという信仰をいう。とりわけ、平安時代以降、浄土信仰が広まり、現世で功徳を積むことができない衆生は「地獄は必定」と信じられ、地獄における責め苦から、地蔵によって救済されるよう願った。その後、法然により念仏を唱えれば誰でも往生できる、と説く浄土教が広まったことから、地蔵は人々の間に交わり、人々の様々な苦難を地蔵が身代わりになって救ってくれるという現世利益の信仰が民衆に広まった。

六地蔵に並んで、青面金剛(庚申塔)が置かれている。元禄9年(1696)に造立されたものだが、やはり路傍にあったものを昭和になってここに移築したもの。横には「弘法大師」と刻まれた石塔がある。

また、長屋門を出て、旧早稲田通り沿いの道場寺の石塀の角にもお地蔵さんが立っている。これは享保6(1721)に造られたのもで、昔は往来する人々の道しるべとなっていたころから「道しるべ地蔵」と呼ばれている。それは、また来世の道しるべでもある。

石仏群




六地蔵

六地蔵

青面金剛(庚申塔)

六地蔵と青面金剛

道しるべ地蔵

(2)板碑

地蔵堂には、板碑(いたび)といわれる石板が何枚かガラスケースの収まっている。

そのうち大きな板碑は、永享8年(1436)に夜念仏供養に関わり造立された板碑で国内に残る夜念仏板碑のなかで最古の紀年銘をもつ板碑として、練馬区の文化財となっている。銘文から、この板碑は、永享8年の秋彼岸に人々が集まり、死後の冥福を祈って密教の真言(呪文)を唱える念仏供養を行ったことを記念し造立したものだという。

もう一枚、大きな板碑には「弥陀三尊来迎」が描かれており、こちらは、文明4年(1472)に造られたもので、やはり文化財となっている。どちらも、石材は緑泥片岩で、秩父・長瀞で採れるもので造られている。

これらにみるように、板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて死んだ人への供養や、自分自身が死後、極楽に行けるようにと願って造られた

板碑(いたび)

板碑(いたび)・梵字が刻まれている

4.氷川神社・厳島神社

三宝寺は、明治の神仏分離までは、石神井氷川神社や三宝寺池厳島神社の別当寺であった氷川神社は室町時代、この辺りに勢力を張っていた豊島氏(現・豊島区の名の由来)が、自らの石神井城の守護神として、武蔵野国一ノ宮である大宮氷川j神社から勧請して創建したと伝わる。

また、三宝寺池の中島に鎮座する小社、厳島神社がある。やはり豊島氏により創建されたと伝わり、かっては弁財天を祀る弁才社と呼ばれ、近くにある水神社は、水天宮といわれていた。雨乞いに際し、本殿に祈願すると必ず霊験があったという。

神社の向かい側には、穴弁天があり、宇賀神の像が安置されている。宇賀神は人面蛇身の神で、しばしば弁財天と同一視される。この洞窟は、10mほどあり、普段は閉められていて、4月上旬の厳島神社の例大祭の時には公開される

氷川神社

氷川神社

厳島神社・石神井公園の三宝寺池

厳島神社・扁額

穴弁天

水神社

石神井城址


三宝寺は大きなお寺だけあって、それぞれのお堂に本尊として、不動明王、阿弥陀如来(本堂)、大日如来(根本大塔)、如意輪観音(観音堂)、大黒天(大黒堂)、地蔵菩薩(地蔵堂)などの仏像が安置されています。

これらのうち、人々に広く信仰されたのは、観音、地蔵、不動 であり、歴史的にもこの順で古く、観音像には、法隆寺献納宝物の小金銅仏(飛鳥時代)、中宮寺の伝・如意輪観音(飛鳥時代)、法隆寺の百済観音(飛鳥時代)、夢殿の救世観音(飛鳥時代)、夢違観音(白鳳時代)など、よく知られる観音像があります。

観音菩薩は、あらゆる人々を救うため様々な姿に変化(へんげ)することから、聖観音、千手観音、十一面観音、如意輪観音など六観音、さらに白衣観音、魚籃観音などを加えた三十三観音など多くの観音像があります。

そして、先に述べたように、戦時期には護国観音、興亜観音なども造られ、戦後には平和観音が造られました。

しかし、なぜ観音像なのでしょうか。たしかに「平和地蔵」とか「平和不動」といったことは聞いたことがありません。

まずは、仏像の歴史をみると、明治になり、西洋の「美術」という概念が入り、それまでの信仰の対象としての「仏像」が、美術として製作された「彫刻」となりました。仏像を製作する人は、仏師ではなく彫刻家となりました。そのことを代表するのが高村光雲(1852-1934)でしょう。彼は、11歳の時、仏師・高村東雲の元に徒弟となりますが、廃仏毀釈の影響もあり、仏師としての仕事はなく、積極的に西洋美術を学び写実主義を取り入れた彫刻に専念し、東京美術学校の彫刻科の教授にもなっています。

美術として制作された仏像は彫刻作品として、博覧会や美術館に展示され鑑賞される対象となりました。信仰の対象として仏師によって造られた仏像が寺院に安置されたのとは大きな違いがあります。さらに彫刻として製作された仏像ばかりでなく、偉大な人物の銅像もつくられ、公園や広場など公共の場にも設置され、ひとつのモニュメントになりました。さらに高度成長期になると、大きな平和観音が山の頂などにつくられ、展望を兼ねた観光スポットになりました。

それでも、観音像は、たんに観光スポットというだけではなく、平和への祈り、戦没者等の慰霊、供養という信仰に支えられています。古くから現世利益のみならず来世救済を願う観音信仰は、人々の様々な願いをかなえてくれる観音さま、母性的な慈悲の姿を持つ観音像、そうした要素を持ち、時代に応じ、人々の願いに応じ、変化(へんげ)し、救ってくれる観音を、人々は様々な像として創り上げていったといえるでしょう。とりわけ、母性的な慈悲の姿は、仏教的な信仰のみならず、江戸時代、キリスト教が禁教とされ、いわゆる「かくれキリシタン」の人々の間では「マリア観音」を創り、祈ったといわれます。そうしたマリア様の清らかな慈悲のイマージが重なり、現代では「平和観音」を創るまでになりました。

しかし、つい最近のニュースでは、淡路島にある「世界平和大観音像」の解体が始まったということです。この大観音像は高さ100メートルもあり、淡路島のランドマークとしても一時は人気があったそうですが、維持運営に行き詰まり、さらに耐震等の問題もあることから、設置後40年余りを経って取り壊しになるということです。

この出来事は、一つの時代が終わり、いわば「ポスト平和観音」が求められているとも思えます。人々の信仰のあり方も変わり、また願いも変化していくなか、観音像はこれからどのように「変化」していくのでしょうか。

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