2022年2月24日木曜日

東京異空間56 石仏巡りⅣ~閻魔堂

七観音・如意輪観音

前回Ⅲの三宝寺はかなり大きなお寺でしたが、今回訪れた閻魔堂は、いまは小堂のみですが、かっては大きな寺院であったそうです。

ここには、江戸時代につくられた七観音と六地蔵の石仏が向い合って並んでいることを知り、訪れてみました。

1.七観音

入口を入ると、右手には七観音が、左手には六地蔵が向い合って並んでいる。これらは来世救済の願いを叶えてくれる仏さまとして信仰された。

前回の三宝寺の本堂の前にある六地蔵でも述べたように、仏教では、すべての生命は六つの世界(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)に生まれ変わりを繰り返すという六道輪廻の思想があり、それぞれの世界の苦しみから救う六観音と六地蔵が人々に信仰されるようになった。

 

七観音は、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音、准胝観音の七体をいう。なぜ、六ではなく七なのかというと、それぞれ六道を担うとされる六観音のうち5つの道の観音は同じだが、人間道の観音を、真言宗は准胝観音に、天台宗は不空羂索観音としたことから、両方を取り入れて七観音としたとされる。

ここに並ぶ七観音のうち、2体はいずれの観音か、不詳とされているが、手前から順に見ていく。

(1)十一面観音

本来の顔のほかに十面を持ち、あらゆる方角に顔を向けるという観音の特性をもつとされる。

(2)馬頭観音

馬の頭を持ち、忿怒の相から、煩悩を断ち切って諸悪を降伏するとされる。

(3)千手観音(?)

合掌している姿で、不詳とされる。仮にこちらを千手観音としておく。

千手観音は、掌に眼の付いた手を数多く持つことから千手千眼ともいう。無限を示す千ということから無限の慈悲をもつとされる。

(4)不空羂索観音(?)

同じく合掌している姿で、やはり不詳とされるので、こちらを不空羂索観音としておく。どちらも千手など多臂を持ち石仏として、その像容を作るのは難しいことから合掌のみとしたのではないかと推量する。

不空羂索観音の不空とは、「心願空しからず」、すなわち「この尊像を信じるなら願いが叶えられないことはない」ということを意味し、羂索とは、戦いや猟に用いた投げ縄で、投げられる羂索から逃れられるものはない、ということ意味する。そこからこの観音は、もれることなく全ての人々を救い、その願いを叶えるとされる。

(5)聖(正)観音

観音本来の姿とされる。この基本形から様々に変化し、多面多臂の姿を持つ観音が現れ、それと区別するため、聖(正)観音とされた。観音の頭上の宝冠に化仏(如来)があり、手には蓮華(蕾)、あるいは水瓶などを持つ。

(6)准胝観音

准胝(じゅんてい)とは、清浄または妙なるという意味で、清らかな心を象徴し、また大地母神的なイメージがあり、母性を象徴する観音とされる。

(7)如意輪観音

片膝を立て座った姿をとり、手には全て意のままになるという如意宝珠を持つ。富や力や智慧を思いのままに授け、人々を苦悩から救うとされる。

 

ここに置かれた七体の観音像は、貞享4年(1678)から元禄2年までの正味2年間に造立された。この地域の小関村の道行66人により造立されたとされ、その信仰の篤さと、経済力の豊かさがあったことを、この石仏は示している。

正面・閻魔堂、右・七観音、左・六地蔵

七観音

十一面観音

十一面観音

馬頭観音

馬頭観音

不詳(千手観音?)

不詳(千手観音?)

不詳(不空羂索観音?)

不詳(不空羂索観音?)


聖観音

聖観音

准胝観音

准胝観音

如意輪観音

如意輪観音

2.六地蔵

七観音の向かいに六地蔵が並ぶ。この六地蔵は、寛文11年(1671)から寛文12年にかけて造立されたもので、練馬区で最古の地蔵とされる。

六地蔵は、七(六)観音と同じように、六道のそれぞれの世界において、一体一体に救済の分担を持つ。しかし、七観音ほど、名称も一定しているわけではなく、また、持物も異なり、名称との対応も統一されていない。ここに並んでいる六地蔵の持物は、手前の地蔵から次のとおり。

(1)合掌、(2)宝珠、(3)棒布、(4)金剛幢(5)錫杖と宝珠、(6)閻魔

地蔵菩薩は、地下の地獄の苦しみから救うことから、冥府の王・閻魔と同体であるとされる。こうした地蔵信仰は、閻魔王がその一つである十王信仰とともに広まった。十王信仰とは、人は死後、順次十人の冥府の王の審判を受け、生前の功罪が裁かれるという信仰である。

いまでも、葬儀の後に初七日とか、四十九日とか節目をいうが、五七日(三十五日目)には、閻魔王の裁きを受けるという。

閻魔王の審判のまえでは、地獄の書記官が左右にいて、左は全ての悪業を、右はすべての善業を記録しており、閻魔王はこの記録によって亡者の生前の善悪を推問する。また、浄頗梨(じょうはり)という大きな鏡に生前の所作、一切の諸業が映し出される、という。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという

こうした地獄の状景から、子供に言う、「嘘ついたら閻魔さまに舌を抜かれる」ということわざや、学校の先生が生徒の成績を決めるデータを記録しているものを「エンマ帳」と呼んだりするなど、いまでも信仰は残っているともいえる。。

六地蔵

合掌

合掌

宝珠

宝珠

棒布

棒布

金剛幢

金剛幢

錫杖と宝


錫杖と宝

閻魔

閻魔
 
七観音と六地蔵が並び、その奥に「閻魔堂」があり閻魔像が安置されている。またお堂の前に閻魔王の石仏が置かれている。

ここは、七観音と六地蔵が揃っていて、六道輪廻の苦しみ、とりわけ閻魔王のいる地獄の苦しみから救ってくれると人々に信じられた空間と言えるだろう。。

いまでも、毎年3月15日には信徒が集まって百万遍の念仏講が行われているという。


閻魔堂の閻魔王

閻魔王

閻魔王

3.筆子碑

閻魔堂の前に、筆子碑といわれる石碑が2基置かれている。ここで手習塾(寺子屋)があり、それぞれ教え子たちが手習師匠を顕彰して建てたものである。

(1)顕彰碑「明心法姉」 

明心という女性の手習師匠を偲んで、小関など6つの村の教え子49名により建てられた顕彰碑。台石「筆子中」とある。安政3年(1856)造立。

(2)顕彰碑「平空禅定門霊位」 

石神井村など7か村の教え子36名が手習師匠を偲んで、建てた顕彰碑。「施主 手習門弟中」とある。天明8年(1788)造立。 

 

江戸時代、手習塾へ入塾するというのは、ある手習師匠の弟子になるということであり、その師匠への信頼感こそが教育の根幹であった。それは明治になってできた、小学校に入るという制度的な教師と生徒の関係とは全く違っていたという。師匠は、弟子たちに教え込む存在ではなく、見習うべき手本として弟子たちの前を進む存在でえあった。だからこそ、「弟子たち」により、こうした顕彰碑が建てられたのであろう。

筆子碑・明心

筆子碑・明心

筆子碑・平空禅定門
 

今回、この小さな「閻魔堂」を訪れて、七観音、六地蔵が並ぶ石仏たちに、来世救済を願う、人々の観音信仰、地蔵信仰の姿を見るとともに、2基の筆子碑に、手習塾で師匠との信頼関係をもとに、見習うという人々の学びの姿を見た思いがします。

また、閻魔堂のとなりには小関稲荷神社があり、ちいさな公園になっていました。少し行くと、また別な稲荷神社(?)がありました。そこには「金力自在大善神」と刻まれた大きな石碑が立っていました。やはり、人々はカミやホトケに祈って、強く生きて来たんだということあらためて思いました。

参考:

『練馬の石仏 その一』 練馬区教育委員会 編 昭和57年

『練馬の石造物 寺院編その二』 練馬区教育委員会 編 平成6年

『練馬ふるさと事典』 練馬古文書研究会 編 2011年 東京堂

『観音・地蔵・不動』 速水侑 講談社現代新書 1996年

『「学び」の復権』 辻本雅史 角川書店 平成11年

小関稲荷神社・左側が閻魔堂

稲荷神社(?)

「金力自在大善神」


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