本立寺の石仏 |
前回の道場寺に続いて、2回目は、西武線・武蔵関駅の近くにある日蓮宗の本立寺を訪れました。ここのお寺にある庚申塔(青面金剛)は前にも取り上げましたが、その他にも珍しい石仏などがあります。
また、本立寺では、12月9-10日に「関のぼろ市」が開催され、駅前から本立寺の前まで露店が並び大勢の人で夜遅くまで賑わいます。
さらに、本立寺から西武線と石神井川をこえた向かい側にある二つの神社に行ってみました。
1.本立寺の境内
本立寺は、地元、関村の名主であった井口忠兵衛(鎌倉幕府の御家人・三浦氏の子孫)によって、17世紀中頃に創建されたとされる。いまでも、この地域には井口姓の家をよく見かける。
山門を通ると石段があり正面に立派な本堂がある。本堂の左手にまわると、尖った塔(供養塔)が建っている。塔は一見、教会の塔のようにも見えるモダニズム建築のようだ。さらに左手奥には鐘楼があり、和洋とりいれた異空間となっている。
石段の右手の高いところには大きな聖観音菩薩像が建ち、周りに地蔵菩薩像、千手観音菩薩像などが置かれている。
さらに右手奥に行くと、大きく力強い日蓮聖人像が建っている。左手に数珠をかけ、経巻(法華経)を持っている。日蓮は、承久4年(1222年)に安房国で生まれ、弘安5年(1282年)に現・池上本門寺で入滅した。昨年は日蓮聖人降誕800年であった。
本立寺・本堂 |
本立寺・三角の供養塔と鐘楼 |
本立寺、左から鐘楼・供養塔・本堂 |
本立寺・鐘楼 |
石段右手の石仏群 |
日蓮聖人像 |
2.本立寺の石仏など
(1)聖観音菩薩と地蔵菩薩
石段横の高いところに建つ大きな聖観音菩薩、その足元には4体の菩薩像が置かれている。右側は千手観音菩薩のようだ。中央の地蔵菩薩には裸の子供が二人まとわりついている。
聖観音菩薩像 |
聖観音菩薩像 |
石仏群、左から三体は地蔵菩薩・右は千手観音 |
立膝の地蔵菩薩像 |
千手観音像 |
地蔵菩薩像 |
地蔵菩薩・足元に子供がまとわる |
地蔵菩薩像 |
(2)魚籃観音菩薩像
石段の手前左側にまとめられた石仏の中に、以前も取り上げた青面金剛像(庚申塔)、半浮彫の地蔵菩薩、ちょっと変わった像は帝釈天とされる。また珍しい魚籃観音菩薩像が見られる。その横には杖と傘を手にした行者像が並ぶ。
魚籃観音は、手には魚を入れる籠(魚籃)を下げていて、 それは中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づくものとされる。
日本では中世以降、厚く信仰され、毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされた。しかし、他の観音菩薩とあわせて信仰され、あまり単独で信仰されるということはなかったという。
なお、港区三田にある魚籃寺の本尊の魚籃観音菩薩像は空海の作と伝わる。
石段手前の石仏群、右から地蔵菩薩・青面金剛・帝釈天・魚籃観音・行者像 |
地蔵菩薩像・半浮彫 |
青面金剛像 |
帝釈天像 |
帝釈天像 |
魚籃観音と行者像 |
魚籃観音・魚籃を手に持つ |
魚籃観音像 |
行者像・杖と笠を持つ |
(3)石塔
山門の横に笠付きの石塔がある。そこには「天下泰平五穀成就」と刻まれ、天明元年(1781)の年号があり、裏面には「日蓮大菩薩五百遠忌塔」と刻まれている。日蓮が入滅して500年経ったその翌年、天明2年(1782)から天明8年(1788)にかけて天明の大飢饉が発生している。これにより田沼意次の政治は終局に向かい、松平定信の寛政の改革へと進む。ときの将軍は家斉、天皇は光格天皇の時代であった。
こうした世の中において、この石碑に刻まれた意味は重く、当時の人々は如何にこれを読み、願いをしたのであろうか。
また、山門の前には大きな題目塔が建てられている。題目塔とは、日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」を刻んだ石塔である。
「天下泰平五穀成就」と刻まれた石塔 |
裏面に「日蓮大菩薩五百遠忌塔」と刻まれている |
山門と題目塔 |
3.「関のボロ市」
ボロ市というと、世田谷がよく知られているが、こちら関のボロ市は、日蓮の命日に営まれるお会式に合わせて、毎年12月9日-10日に行われるお祭りで、江戸時代18世紀中頃から始まったとされる。そのころ、農村地帯であったこの地域で農機具や古着、草履などの生活用品が主に売られていたという。しかし、近年はそうした古い物を扱うような出店はほとんどなく、食べ物を中心とした露店が駅前から並び、大勢の人が集まり、夜遅くまで賑やかになる。
また、12月9日夜には「練供養」という万灯行列が行われ、団扇太鼓(法華の太鼓)の音と南無妙法蓮華経のお題目を唱え、纏を振りかざしながら、武蔵関駅前を練り歩く。
この練供養は、池上本門寺(日蓮宗)のお会式がよく知られており、広重の浮世絵にも描かれている。
広重「江戸自慢三十六興・池上本門寺会式」 ウキペディアより |
4.井口稲荷神社と天祖若宮八幡宮
本立寺の前を通る西武線を超え南側にいくと、本立寺および井口家と関係の深い二つの神社がある。
通りを進むと、最初に井口稲荷神社の朱の鳥居が見える。井口稲荷神社は、1570年伊豆国伊東の地に、井口家の出自である三浦氏の先祖を尊んで建てた稲荷神社を1649年に現在の地に移築したものだという。
井口家は、この地で代々名主であったことから、農業神である稲荷神社を「部落神」として創ったものであろう。いまでも、このあたりの旧家の庭には稲荷社が個人の「屋敷神」として祀られているのを見ることがある。
現在の社殿は昭和48年(1973)に建てられ、朱の鳥居が8基並んでいる。ここで、毎年2月の初午(はつうま)のときには、井口家の菩提寺である本立寺の住職が読経して催事を行っているという。
西武線・武蔵関駅 |
井口稲荷神社 |
井口稲荷神社・8基の朱の鳥居 |
井口稲荷神社の石塔 |
さらに少し先に行くと、天祖若宮八幡宮がある。『武蔵国風土記稿』という江戸時代の地誌には、天祖神社は、「三十番神、村の鎮守で、本立寺の持」ちものと記されている。明治の神仏分離令以前は、本立寺が別当寺となって、神仏あわせ信仰されていたのであろう。昭和49年(1974)に関村の氏神である若宮八幡宮と天祖神社が合祀され、「天祖若宮八幡宮」となったという。
(拙ブログ「初夏へ : 花彩り、青葉繁り」(2020.4.25)で取り上げ、由緒を調べている。)
天祖若宮八幡宮の石塔 |
天祖若宮八幡宮・鳥居 |
天祖若宮八幡宮・社殿 |
社殿の前に石塔があり「国威宣揚」と刻まれ、後ろには板橋区青年団、女子青年団の石神井分団と刻まれている。これは国旗掲揚塔で、当時の若者たちは、どのような気持ちで国旗を掲揚をしていたのだろうか。
なお、この石塔が建てられたのは「皇紀2600年」昭和15年(1940)であり、そのころ、この辺りは板橋区であった。練馬区は戦後1947年に板橋区から分離してできた23区で一番新しい区である。
「国威宣揚」と刻まれた国旗掲揚塔 |
裏面には板橋区青年団・女子青年団 |
前回の道場寺に続いて、本立寺でも、いろいろな石仏を見ることができました。宗派を問わず、人々は、観音さま、あるいはお地蔵さまを信仰し、また庚申さまにもお願いして、現世利益を求めました。あわせて先祖の供養を行うことによって、先祖の霊は、「ホトケさま」、「カミさま」となり、その家を守り、繁栄をもたらすものとして信仰されました。
そうした場が、お寺であり、また神社であり、そこにある石仏などに人々の信仰の姿を見ることができます。
また、石塔に刻まれた文字には、江戸時代の大飢饉の状況の中、「天下泰平五穀豊穣」を祈願した人々の思い、あるいは、若者たちが戦争に進む中、「国威宣揚」として国旗を揚げるというその心情を、少しでも思い巡らすことができました。
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