2023年1月5日木曜日

東京異空間77:護国寺と原田直次郎

原田直次郎「騎龍観音」

前回は、「東京異空間76:護国寺と高橋箒庵」をとり上げましたが、今回は「護国寺と原田直次郎」として、「騎龍観音」を中心にとり上げてみます。

護国寺の観音堂(本堂)の向かって左奥の高いところに一枚の絵がかかっています。原田直次郎が描いた「騎龍観音」です。いま掛かっているのは、レプリカで、本物は東京国立近代美術館に寄託され、常設展示されているので、いつでも観ることができます。

原田直次郎は、知る人ぞ知るといった人物でしょうか。高橋由一にはじまる近代洋画画家のひとりといえるでしょう。実際、直次郎は20歳のころ高橋由一に入門しています。

原田直次郎の生涯と、その代表作である「騎龍観音」と護国寺の関わりをみていきたいと思います。


3.原田直次郎

(1)誕生~父・原田一道

原田直次郎は、1863年(文久3年)に江戸で生まれた。父の原田一道は、蕃書調所で兵学を講じ、直次郎が生まれた年には、遣仏使節団に加わり、オランダで兵学を修め、その後、1871年(明治4年)には岩倉遣欧使節団に随行し再度渡欧している。のちに陸軍少将、貴族院議員、男爵となり、1910年(明治43年)81歳で亡くなる。

なお、一道は、山田顕義らと大村益次郎の銅像を靖国神社に建てる発起人となっている。銅像は大熊氏広の作で、明治26年(1893年)に完成している。

兄・豊吉は1861年に生まれ、13歳でドイツに留学し、地質学を修め東京帝国大学の教授となったが、1894年(明治27年)、33歳で結核により亡くなった。直次郎も、その見舞いで感染し、1899年(明治32年)36歳で亡くなっている。

直次郎は、洋行者であり、兵学者であった父の方針で、8歳のころからフランス語を学んでいる。幕末における幕府陸軍はフランス方式を採用しており、フランスはなによりもナポレオンと陸軍の国であった。


(2)留学~親友・森鴎外

直次郎は、早くから洋学、フランス語を学んでいたが、兄・豊吉の紹介によりドイツに留学し、ガブリエル・マックスに師事して西洋画を学んだ。1884年、ヨーロッパの兵制視察にむかう陸軍卿・大山巌らと同船でドイツ・ミュンヘンへ。この留学の間にミュンヘンで森鴎外と出会い、終生の友人となった。1886年(明治19年)直次郎23歳、鴎外24歳の時であった。鴎外の『うたかたの記』(明治23年)の主人公・巨勢は、直次郎がモデルとされている。

直次郎は、ミュンヘンでアカデミーの本格的な美術教育を受け、三年半の留学を終え、1887年(明治20年)ミュンヘンからスイス、イタリア、パリを経て帰国した。なお、ミュンヘンを発つときの送別会について、鴎外は次のように記す。「愛妾マリイも亦侍す。原田の遺子を妊めり」と。直次郎は、留学中にカフェ・ミネルヴァの女性マリイと恋して、子をもうけたが、帰国してしまい、後に養育料の請求をされている。(ちなみに鴎外には留学中のロマンスを描いた『舞姫』がある。)


(3)騎龍観音~批評家・外山正一

直次郎は帰国後、すぐに父・一道の肖像画「原田少将像」を描き、美術展に出品している。留学中に学んだ西洋絵画の普及の全力を注いだが、当時は、美術界においてフェノロサや岡倉天心らにより、日本美術の復興が唱えられていて、欧化主義への反動から国粋主義の風潮が強くなっていた。

そうした中、直次郎は大作「騎龍観音」を描き、明治23年(1890年)の第三回内国勧業博覧会に出品する。龍に乗る観音という日本の宗教的な画題を、学んできた西洋の技術を駆使して描いたこの作品は、多くの観客の注目を浴び、様々な議論を巻き起こした。帝国大学教授の外山正一は、これを次のように酷評した。 

「龍を信ぜず観音を信ぜずして観音の龍に乗るの画を画かんか、其画く所は見る人をして観音の龍に乗るの画とはおもはしむること能はずして、松明のあかりにチャリネの女が綱渡りする画なるかと疑わしむるなり。」チャリネとは、当時来日したイタリアのサーカス団の名であり、つまり外山は宗教心も薄い画家が描いた日本の観音像は、イタリアのサーカス女が綱渡りする絵にしか見えないと評したのである。これに対し、森鴎外が「外山正一の画論を駁す」と題し、西洋美学に依拠した長大な論文を書き徹底的に論駁した。これに対し外山は一切反論しなかった。

結局、この「騎龍観音」は、大きな話題になったが、賞には入らず、別に出品した「毛利敬親肖像」が三等妙技賞を受けたのみであった。それは、審査委員長が帝国博物館総長の九鬼隆一であり、彼は洋画排斥の後ろ盾であり、フェノロサ、岡倉天心らの支持者であったことから、審査は洋画には厳しく不利であった。

直次郎の縦横約3×2メートルという大作「騎龍観音」は、「傑作」というより「問題作」であったということだろう。それは2007年に重要文化財となったいまも、同じような評価をされているようだ。


(4)護国寺奉納~甥・原田熊雄

博覧会に出品した翌年、明治24年(1891年)に、原田は自ら人足を指揮して音羽の護国寺に運び、観音堂(本堂)の左奥の上に掲げた。絵を寺院に奉納する事について原田の甥にあたる兄・豊吉の子である原田熊雄によると、「西洋では名画はよく大寺院などに収めて公衆の観に供するのだ」といって、護国寺に「龍騎観音」を<寄付>したのだと伝えらえる。

なお、熊雄は、兄・豊吉が亡くなったあと直次郎に引き取られ、大正15年 (1926年)には元老・西園寺公望の秘書となっている。その間に見聞したことを『西園寺と政局』という日記にまとめている。

その西園寺が、法要のため護国寺を訪れた際に、「騎龍観音」を見て、秘書の原田熊雄に、こう言ったという。「回楼も暗いところに馬絵の様に立派な観音の油絵がある。能く見ると大変よい。それが君の叔父さんの直次郎の筆だ。アゝ云う所に置くのは惜しいから、何とかしたら如何だ。」熊雄が先の<寄付>の話を伝えると、西園寺は重ねて「それ惜しい。光線のよく入る明るい人の観らるゝ様なところに出したら」といったという。そこで、熊雄は鴎外に相談しに行った。鴎外は熊雄の言に賛成し、さっそく護国寺と懇意の人を介して寺に交渉したが、寺側からは「そんな有名な画とは知らずに居た所、森さんから言われ急に惜しくなり、あれは寺の所有で御預りではない。御所望なら<壱万円也>と云ふ」始末で、この話は沙汰やみになってしまったという。

熊雄としては、直次郎の言葉にあった「公衆の観に供する」という趣旨から、上野の帝国博物館の表慶館に展示されることを望んでいたようだ。なお、表慶館は、大正天皇の御成婚記念として建てられ明治41年に竣工した。


(5)騎龍観音の図像~美術史家・若桑みどり

「騎龍観音」は、観音立像で、女性の顔だちをもつが、額には白毫があり、髻には宝冠を頂く。右手には柳の枝を持ち、左手には水瓶を持ち、水瓶の首には紅白の綵帛が翻る。巨龍の眼は輝き、大きく裂けた口からは赤い舌と白い牙がのぞく。頭には二本の角をもち、鱗が背鰭に続き、龍身の後ろからは赤い炎をあげている。波立つ海原に向かって進み、後ろは黒い雲に覆われた大地だが、そこから少し白い雲がのぞく。

画面左下にあるサインは Nojirou Harada /Kigen 2550/Tokio とあり、紀元を皇紀2550年と記す。

この「騎龍観音」の図像を、美術史家・若桑みどり氏は、図像解釈学(イコノロジー)の方法を用い、フェミニズムの立場から、次のように読み解いている。

「画家の真意は、西洋の聖母像に匹敵する日本国家の守護女神を創出することだった。そのために、聖母マリアの図像を借り、観音の衣装を着せ、その顔に昭憲皇太后の顔を加え、西洋に学んだ愛国者としてこの偉大な女性像を作り出したのである。」

昭憲皇太后とは、言うまでもなく明治天皇の皇后である。その肖像に、さらに神功皇后を重ね合わせ、神功皇后=昭憲皇太后=騎龍観音は一体となり、国家の守護女神を表すこととなった。

「騎龍観音」が出品されたこの年、明治23年(1890年)は、「大日本帝国憲法」が施行され、第1回帝国議会が開催され、また教育勅語も発布された年である。新たな日本国家が荒海に乗り出し、暗雲が立ち込めた大地には、明るい雲間が見えてきているという寓意を表わしていると読み取る。

したがって、この騎龍観音が画家本人の意志によって護国寺に収められたことには重要な意味がある。護国寺とはすなわち国家の守護の寺であって、「騎龍観音」すなわち国家の守護女神を祀るのに相応しいところであるという。

「騎龍観音」東京国立近代美術館寄託

「騎龍観音」

左手に水瓶

水瓶の首には紅白の綵帛が翻る

右手に柳の枝

龍の眼は輝き、大きく裂けた口からは赤い舌と白い牙、頭には二本の角

額縁は金箔で卍の文様があり、寺院に収めることを予定したかのよう

(6)なぜ護国寺に奉納

絵画を寺院に奉納することは、江戸時代に伊藤若冲が相国寺に「動物綵絵」を、また幕末には狩野一信が増上寺に「五百羅漢図」を、さらに現代では東山魁夷が唐招提寺に障壁画を奉納するなどよく知られている例がある。画家でなくとも、一般に寺院の絵馬としてよく奉納される。いずれにしても祈願が込められている。

では、原田直次郎は、なぜ護国寺に「騎龍観音」が奉納したのだろうか、護国寺とどのような接点があったのだろうか。

護国寺は上知令に伴い、明治6年には敷地の一部が陸軍の墓地となった。すでに見たように父・原田一道は陸軍少将であり、また生涯の友人・森鴎外は、陸軍軍医である。そうした陸軍との関係から、この護国寺に奉納したのではないだろうか。直次郎と護国寺に、実際にどのような接点があったのか、詳らかではないが、こうした陸軍関係の接点もあったと考えられる。現在も、護国寺境内に「音羽陸軍埋葬地」として英霊の塔が建てられている。

「音羽陸軍埋葬地」

「音羽陸軍埋葬地」宝塔

また、明治国家の建設に大きな貢献をした公家・三条実美との関わりも考えられる。というのは、直次郎は三条実美の肖像画を依頼され描いているからである。

三条実美は、大日本帝国憲法の公布式典で明治天皇の脇に控え、憲法文を天皇に奉呈する役割を果たしており、最高位の功臣とされ、明治24年(1891年)2月に亡くなったときには国葬が護国寺で行われており、麻布の自邸から護国寺までの道筋には多くの人が出て弔送したという。三条は同寺に葬られ、その墓碑がつくられている。

三条の国葬の翌3月に、三条実美の肖像画が東京美術学校に委嘱された。原田の「騎龍観音」の護国寺搬入はその数か月余り後であったとされる。三条の肖像画は、美術学校の日本画家ではなく、どういうわけか洋画家原田が担当したが、原田の体調悪化のため 遅れて明治31年(1898 年)に完成して帝国博物館に収められた。

こうした三条実美との関わりから、護国寺に奉納することにつながったとも推測できる。

なお、三条実美が護国寺に埋葬されたのは、護国寺に隣接して「豊島岡墓地」があり皇族の墓地となっているからであろう。三条の墓碑には鳥居が建てられ、大きな顕彰碑が建てられている。護国寺には、ほかにも明治期に活躍した山縣有朋、大隈重信などの政治家や、お雇い外国人で建築家のジョサイア・コンドルの墓もある。

原田直次郎「三条実美像」東京国立博物館蔵


三条実美の墓所

三条実美の墓所・鳥居

三条実美の墓

三条実美の墓所

三条実美の墓所横の神道碑


山縣有朋の墓所

山縣家の墓

山縣家の墓所

大隈重信の墓所

大隈重信の墓

大隈重信の墓所

ジョサイア・コンドルの墓


護国寺と原田直次郎との関わりについて、大作「騎龍観音」を中心にみてきました。国家の守護女神である「騎龍観音」が、護国寺という国家守護の名を持ち、本堂は観音堂とも呼ばれるところに奉納されましたが、いまは東京国立近代美術館の4階の奥に一室が設けられ、常設され多くの人に鑑賞されています。原田熊雄の思いもここに結実したのではないでしょうか。

あらためて、美術館で、この絵を見ていて明治の日本という国の明暗、文明と伝統、西洋絵画と日本絵画といった対立を見るような思いがしました。原田直次郎の「騎龍観音」は、狩野芳崖の「慈母観音」に対抗したものだともされています。こちらは、フェノロサに遠近法などを指導された日本画による観音像としてよく知られています。

狩野芳崖「慈母観音」東京芸術大学蔵(Wikipediaより)

参考:

『原田直次郎』企画展図録 青幻社 2016

『絵画の領分』芳賀徹 朝日新聞社 1990

『皇后の肖像』若桑みどり 筑摩書房 2001年 表紙装丁に「騎龍観音」が使われている。

『森鴎外と原田直次郎』新関公子 東京芸術大学出版会 2008


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