「柴田是真と能楽」ポスター |
昨年の暮に、千駄ヶ谷にある国立能楽堂で行われていた「柴田是真と能楽」展を観に行きました。柴田是真については、以前から関心がありましたが、国立能楽堂には行ったことはなかったので、あわせて観に行ってみました。
すでに、展覧会の会期は、2022年12月23日で終わっていますが、柴田是真、能楽、そして能楽堂を設計した大江宏について調べてみました。
1.柴田是真(1807-1891年)
柴田是真(しばた ぜしん)は、江戸時代末から明治中期にかけて活動した漆工家、絵師、日本画家、といわれるようにいくつかの顔を持っている。20歳ごろまでには蒔絵師としての修行を終え、京都に遊学して絵画を学ぶとともに歌学、俳諧、茶道など広く知識を学んだ。
是真が蒔絵師と絵師という両方を習得したことが、彼の画業を深めた。そもそも、蒔絵に使う筆は、粘性の強い漆を使うことから、絵画に使う細い面相筆よりもさらに細く長い。漆は粘性が強く、絵画の線を描くような筆使いではかすれてしまうので、漆を置くようにゆっくり動かすが、その際の筆の揺れを抑えるため長く細い穂先が震えを吸収するように作られている。この蒔絵筆の扱いは優秀な絵師でも難しいとされ、是真のようにこの二分野の筆さばきを会得したということは特別な存在といえる。
その是真の技によって生まれたのが「漆絵」である。それも、たんに漆を使って絵を描くというだけではなく、それを紙に書き、さらに軸として巻けるように「漆絵」を描くという、是真にしかできない技である。そのため、是真の蒔絵や漆絵などは「超絶技巧」というキーワードで表され展示されることが多い。技巧だけでなく、その画題は、江戸の職人らしく洒脱で、ウィットに富んだものがある。
是真は、維新を挟んで、江戸と明治を生きたが、その江戸っ子の、一本気で頑固な職人気質を示すエピソードが、鏑木清方『こしかたの記』に次のように記されている。
東京府知事・楠本正隆を通じて皇室から是真に蒔絵の御用命があった。是真はそれを光栄なことと喜ぶかと思えば、思いのほか難色を示した。その言い草は「じぶんはきのうまで前公方様(徳川家)のご時世に人と成ったもので、いわばそれを倒した朝廷方の御仕事をするのは気が済まない」というのだ。なかなかウンといわず、結局、「然らば御時世も違うこと故、倅令哉に御用命あれば果報の至り」と言って辞退したという。
しかし、さすがの是真もご時世には勝てなかったのか、明治5年には浜離宮延遼館の壁画を命じられ、花鳥図を描いている。それ以後は次々と新政府の文化施策に積極的に参加させられている。
明治6年(1873)ウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額」を出品し、進歩賞牌を受けている。
明治9年(1876)米国フィラデルフィア万国博覧会に漆絵画帖三冊を出品し、賞牌を受けている。
明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会に「温室盆栽蒔絵額」などを出品し、龍紋賞牌を受けている。その審査評では、是真の蒔絵額を「水彩を用いて羂索に画きたるの趣あり而して毫も粘漆の難きを賞へず」として絵画のような自在な描写力が評価されている。
明治11年(1878)名古屋博覧会。 漆絵額面を出品し、銅賞牌。
明治12年(1879)龍池会に参加する。龍池会は、佐野常民らが欧化主義に対抗して伝統美術の保存と普及を考え設立した美術団体である。是真は子の真哉を伴ってこの会に参加している。フェエノロサ、岡倉天心らの鑑画会ではなく、伝統を重視する龍池会に参加した。龍池会は、のち日本美術協会と改称し、宮内省の支援を受ける。一方、鑑画会の運動は東京美術学校の設立に進み、九鬼隆一ら文部省の支援を受けるようになり、それぞれの団体により日本美術の対立が生じた。
なお、佐野常民(佐賀藩)は、殖産興業政策のトップとして、ウィーン万博に派遣されるなど、博覧会を通じて日本の近代化に貢献し、「博覧会男」の異名を得た。また日本赤十字社の創始者でもある。
明治14年(1881)第二回内国勧業博覧会 「長良川鵜飼舟蒔絵額面」などを出品 銅賞牌一等を受ける
明治17年(1884)明宮御殿の襖絵を描く。
明治18年(1885)皇居新宮殿の杉戸絵を描く。このころ是真は画家としての地位も最高潮に達していた。筆を執っては縦横無尽に筆をふるい、筆に漆を含ませれば、前人未到の境地へ進み、他を寄せ付けない孤高の職人となる。まさに向かうところ敵なしのマルチタレントであった。
明治22年(1889)パリ万国博覧会に「立波海老蒔絵額面」を出品 金賞牌を受ける。この年、大回顧展も開かれる。
明治23年(1890)には帝室技芸員に任命される。
明治24年(1891)是真85歳で亡くなる。
このように是真は、明治政府が初めて参加した「ウィーン万博」を始めとして各回の万博、内国博に出品しているが、これは明治政府が掲げた殖産興業の重要な輸出振興であった。まだ工業製品がなく、生糸、茶などの一次産品と、いわば手工業の美術工芸品も主要な輸出品のひとつであった(日本の軽工業は日清戦争のころ、重工業は日露戦争のころ進んだといわれる)。
国内外の博覧会に出品された美術工芸品を所蔵するため博物館、あるいは美術館が造られていった。博物館は古美術が中心となり、廃仏毀釈で破壊されたり海外に流失したりする古美術の保存を行った。とくに東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の初代館長となった町田久成の貢献が知られている。
殖産興業としての「工芸」の振興は農商務省の担当であり、いっぽうで東京美術学校(現・東京芸術大学)をはじめとする美術教育は文部省の担当であり、日本画、洋画、彫刻の範囲で「工芸」は除かれていた。さらに、宮内省が担当する「帝室技芸員」があり、柴田是真もその任命を受けている。このように、博覧会 博物館、美術館、美術教育、古美術の保存といった各省の政策から、日本の近代<美術>が始まったといえる。
しかしながら、日本近代美術史においては、これまで柴田是真はそう高い評価を受けてきたわけではない。むしろ意図的に避けられていたといえる。それは浮世絵が海外では高い評価を得ていたが日本ではほとんど評価されず、海外に多く流出していったのと同じように、明治期の柴田是真、河鍋暁斎、渡辺省亭などは、いずれも江戸の職人的気質のある洒脱な作品が多く、美術史の本流からすると江戸期に対し否定的、批判的な立場があったことをうかがわせる。彼らの作品は、海外での評価は高かったが、日本では、むしろ近年になって「超絶技巧」などといわれ高い評価を得ている。
参考:
『別冊太陽 柴田是真』 平凡社 2009年
『柴田是真展』板橋区立美術館 1980年
『<日本美術>誕生』佐藤道信 講談社1996年
「富士田子浦蒔絵額」明治6年(1873)福富太郎コレクション資料室 |
能楽堂・資料展示室入口 |
能楽堂・資料展示室 |
2.能楽の歴史
国立能楽堂の中に資料展示室があり、ここで柴田是真の能に関わる絵画等が展示されていた。この能楽堂に来たのは初めてである。まずは能楽の歴史について概略を調べてみた。
南北朝時代:猿楽の役者が演じたことに始まる。寺社で神事の「翁」を演じることから能が生まれた。
室町時代:三代将軍足利義満が観阿弥、世阿弥を寵愛し庇護したことから能が発展する。義満は美少年・世阿弥に入れあげた。
安土桃山時代:豊臣秀吉は、能に狂ったほど熱中した。
江戸時代:能は儀式に欠くことのできない「武士の式学」となり、将軍・大名のお抱えの役者などが生まれるなど、大いに発展した。とくに五代将軍・綱吉、六代・家宣、大老・井伊直弼などは自らも舞うなど熱を入れた。また、朝廷からの勅使を迎える際には「饗応能」が催されるのが慣例となり、武家・公家を問わず貴人たちにも好まれるようになった。
明治時代:徳川幕府が倒れるとともに、その庇護を失った能は衰退した。その復興のきっかけになったのが天覧、すなわち明治天皇の行幸の際に能を演じることであった。岩倉具視、三条実美らは自らの邸に行幸される際に能を御覧入れることを企画した。中には邸宅内に能舞台を設えるところもあった。岩倉らは欧米視察をしたヨーロッパのオペラに匹敵するのは能であるとして支援の必要性が高めた。明治14年(1881)には能の支援組織「能楽社」が設立され芝公園の一角に「芝能楽堂」が建てられた。
一方で、天覧能に対し、天覧歌舞伎も企画された。こちらは成り上がりの元勲、伊藤博文、井上馨らが企画したが、岩倉ら能推進派により横槍が入ったりした。そうした確執もありながら、能が復興の軌道に乗ってくる。
しかしながら、この衰退時期には、能装束や能面などの文化財が放出され、海外にも多くが流失した。「復古」と「開化」の二重構造は、茶道も同じような歩みをとった。
大正期には、旧大名家の古美術品が売立にかかり、茶道具などとともに能面などが放出され海外にも流失していった。
参考:『教養としての能楽史』中村雅之 ちくま新書 2022年
3.国立能楽堂と大江宏(1913-1989)
能楽の歴史は古いが、「能楽堂」の歴史は比較的新しい。能を演じる舞台としての能舞台の歴史は、能の歴史と同様、古くからあり、安土桃山時代にはその様式は大成の域にあったとされる。とくに江戸城本丸の表舞台は格式が一番高いとされた。能舞台は舞台と橋掛かり、鏡の間の三空間で構成されるが、そこに見所が加わる、すなわち演じる側と観る側(観客席)が一体となった空間が形成され「能楽堂」となったのは明治になってからである。明治14年に造られた、芝能楽堂がその嚆矢であるとされるが、そこでも当初はやはり能舞台と見所がそれぞれ独立していて、明治30年(1897)ごろに改築され、 能舞台と見所の空間を一体化する「室内化」が進んだ。さらに大正2年(1913)に宝生流の能楽堂が神田猿楽町に造られたが、関東大震災で焼失し、再建されるも東京大空襲で焼失し、戦後、昭和25年(1950)に水道橋能楽堂が建てられ、現在の宝生能楽堂となり、能楽堂としての最低限の諸条件を何とか満足しえた最初の建築例とされる。
国立能楽堂は、昭和58年(1983)に竣工し、設計は大江宏による。さきに能楽の歴史で見たように能楽のパトロンは、時の将軍・足利、豊臣、徳川と続き、明治になり元勲や元大名の華族によるものであったが、戦後に至り、その名にあるようについに国がパトロンとなった。現在は独行政法人日本芸術文化振興会として、文科省(文化庁)所管の行政法人となっている。
大江宏は、新たに国立能楽堂をつくることに意義について、次のように語っている。
「かつて本格的に完成されていた能のための綜合的建築構成の伝統を、現代的な手法、今日的な感覚を通じて再現したいという願望が、その設計意図の根底となっているのである。」
能舞台と見所の設計はもちろん、外観の建物に続く導線にも能の演じられる時間的経過を巡るように、門から玄関へ、玄関から広縁、広縁から広間へ、さらにそれから歩廊を経て見所へと曲折した導線が心理的にも能の世界に誘い込むように設計されている。
建物の内部は、天井の高い中央ロビーに 障子越しに自然光を採り込んだような、ぬくもりのある灯り、武蔵野をイメージしてつくられた中庭が配置されている。(今回は、能舞台等に入ることはできなかった)
大江宏は、大正2年(1913)に生まれ、昭和10年(1935)に東京帝国大学に入学。同級生には丹下健三がいた。この年、父・新太郎が亡くなる。
昭和13年(1938)に東京帝国大学を卒業。卒業後、文部省に入り、紀元二千六百年祝典の事務局で歴史博物館計画を担当、あわせて神武天皇聖跡調査を命じられる。
戦後は、法政大学校舎、乃木神社、九十八叟院(現・平櫛田中記念館)、 日本万国博覧会・日本館、伊勢神宮・神楽殿、宇佐神宮・宝物館・収蔵庫、三渓園記念館など、国立能楽堂以外にも多くの設計に携わっている。これらの建築は、近代建築(モダニズム)と日本の伝統的様式とを融合ではなく「混在併存」させたものとして知られる。「混在併存」は、大江の建築観を表す言葉ともなっている。
国立能楽堂にも、自ら手掛けた伊勢神宮や乃木神社などの神社建築の意匠がみられるとされる。また、父・新太郎からの影響も大きいといわれる。
大江新太郎(1879-1935)は、日光東照宮の修復に携わるとともに、明治神宮や伊勢神宮の造営、厳島神社宝物館など多くの神社建設に関わり、生涯にわたって日本の伝統建築を追求した。
参考:
『建築作法』大江宏 思潮社 1989年
現在、能は厳しい状況に置かれているという。能は歌舞伎などとは違い、多くの観客を集める大衆志向ではなく、演者は観客を意識せずに演じ、観客はそれをただ受け止めるだけ、役者の発する気、張り詰める緊張感を共有できるかどうか、合うか合わないか、いわば感性が一体化するかどうかだといわれる。そうした能の本質を理解する、理解できる人を多くするすることは可能なのだろうか。しかし、日本の伝統的芸能である能は残ってほしいと思う。ここにも「近代」と「伝統」の相剋があるのだろう。
能楽堂・門 |
能楽堂・全景 |
能楽堂・玄関 |
能楽堂・玄関入口 |
能楽堂・中庭 |
能楽堂・中庭 |
能楽堂・広間 |
能楽堂・広間 |
国立能楽堂に初めて行きました。もちろん能舞台を見るのではなく、柴田是真の展覧会があったからです。江戸から明治を生きた絵師、蒔絵師である柴田是真について、調べてみると、その作品の素晴らしさとともに、江戸の職人気質がいかに明治の近代化に貢献していたかを知ることが出来ました。
また、能楽についても、その始まりから、時の将軍などに庇護され、大成してきた歴史と、その能舞台、能楽堂の建築にも興味を持つことが出来ました。一度は、能を鑑賞してみたいとも思いました。
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