2023年1月12日木曜日

東京異空間78:護国寺~ゆりかごから墓場まで?

 

護国寺・仁王門

護国寺については、これまで2回にわたって高橋箒庵と原田直次郎との関係を中心に述べてきましたが、今回は、護国寺の境内を巡ってみたいと思います。

すでに述べたように、護国寺は徳川綱吉の生母・桂昌院の発願により元禄時代に建てられた徳川家の祈祷寺です。堂宇の多くは震災や戦災をくぐり抜け今も現存しており、貴重な文化財ともなっています。また、境内には大仏や石仏なども多くあります。そして横には「富士山」と「ゆりかご」も?


1.仁王門

まずは、仁王門。ここは夏目漱石の『夢十夜』第六話の舞台ともなっている。その書き出しは次のように始まる。

「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云ふ評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。」

山門は、前に大きな赤松などがあり、古風であり、鎌倉時代とも思われる。ところが、見ているものはみんな自分と同じく明治の人間である。

「自分はどうして今時分迄運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、矢張り立って見ていた。」

運慶が出てくるのは、漱石の夢の中であり、鎌倉時代にこの門があったわけではなく、実際にこの門が建てられたのは元禄10年(1697)造営の本堂より後と考えられている。いまも門の正面には金剛力士像、背面には二天像が安置されている。もちろん、運慶の作ではない。

仁王門

仁王門・「神齢山」山号

2.水盤

門をくぐると、広場のようになっており、両脇には水屋があり、その水盤は桂昌院が寄進したもので、本堂と同じ元禄10年(1697)の造営である。この蓮葉型の水盤は、江戸の鋳物師・椎名伊豫良寛(しいないよよしひろ)の作といわれている。椎名良寛は、ほかにも銅鐘、銅灯籠などをつくっており、とくに宝塔は、上野寛永寺にある4代将軍・家綱の宝塔(墓)を任されるほどの名工であった。

水盤


3.本堂(観音堂)

階段を上ると不老門がある。これについては高橋箒庵との関係ですでに述べたが、三尾邦三(美術商)の寄進により昭和13年(1938)に建てられたものであり、「不老」の文字は徳川家達の揮毫によるものである。

不老門を越えると、正面に立派な本堂が見える。桂昌院の念持仏である琥珀如意輪観音像を本尊としており観音堂とも呼ばれ、原田直次郎の「騎龍観音」がここに収められたことは前回で述べた(現在はレプリカ)。本堂は、元禄10年(1697)に建立され、震災や戦災に遭いながらもその雄大な姿を変えず、江戸の面影を今に伝えている。

不老門

本堂

本堂

本堂

本堂

本堂

本堂

4.大師堂

不老門を右に行くと、大師堂がある。旧の薬師堂で、元禄14年(1701)に建てられた。

大師堂の脇には「一言地蔵」といわれる小さな地蔵堂があり、その名の通り一言だけ願いを叶えてくれるという。また、このあたりには多くの石仏が置かれている(後述)。

大師堂

大師堂

一言地蔵

一言地蔵

5.霊廟

本堂の裏側に、霊廟が建てられ台座には聖観世音菩薩(雨宮敬子作)が立っている。平成8年(1996)に開眼法要が行われた。

霊廟

霊廟・観音像(雨宮敬子作)

6.薬師堂

本堂の左側には薬師堂があるが、これは元禄4年(1691)に建立された一切経堂を移設し薬師堂としたものである。柱の間に花頭窓があり禅宗様式の建築である。

薬師堂

薬師堂

薬師堂

7.忠霊堂

薬師堂の近くにある忠霊堂は、日清戦争の戦没者の遺骨を埋葬するため明治35年(1902)に建立された。当初はその背後に銅製の宝塔が置かれ、その拝殿として建てられた。宝塔は、いまは音羽陸軍墓地に移設されている。

忠霊堂

8.鐘楼

鐘楼は、袴腰付きという格式の高い建築形式であり、江戸中期の建立とされる。梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、銘文には桂昌院による観音堂建立の事情が刻まれているという。

鐘楼(手前は名物石灯籠)

9.惣門

仁王門とは別に、将軍・綱吉と桂昌院の御成りのための格式の高い門として、大名屋敷の表門形式で建てられた。明治維新までは護国寺の隣にあった護持院の門であった。

門の前には「音羽ゆりかご会」の看板がある。 音羽ゆりかご会は、昭和8年(1933)に、ここ護国寺で童謡作家の海沼實(1909-1971)が創設した児童合唱団で、日本で最も長い活動を戦前から続けている。会の命名は詩人・北原白秋によるもの。

海沼實は、昭和10年代から「お猿のかごや」「あの子はたあれ」「ちんから峠」「からすの赤ちゃん」「からすの赤ちゃん」「里の秋」「みかんの花咲く丘」 など、いまでも歌われる童謡を作曲し、 戦後は音羽ゆりかご会から川田三姉妹などの童謡歌手を輩出した。

境内には「からすの赤ちゃん」の石碑が置かれている。なお、現在、会の本拠地は品川に移っている。

惣門・「音羽ゆりかご会」の看板

惣門

惣門・「護国寺」扁額

「からすの赤ちゃん」の石碑

10.大仏・石仏

江戸時代、護国寺とともに徳川家の祈祷寺として、護持院が筑波山の別院として江戸神田橋にあったが、神田橋の護持院は火災により焼失し、再建されずに音羽の護国寺に合併された。また明治維新後は、筑波山の護持院も廃仏毀釈により廃止され、筑波山神社となり、音羽の護持院は廃止された。その際に筑波山の護持院から大仏、金剛力士像、地蔵菩薩像、銅製宝塔(のち陸軍墓地に移されたもの)などが移設された。

大仏などは、参道の階段の周辺に置かれているが、大師堂の付近には、一言地蔵とともに多くの石仏が置かれている。

大仏

地蔵菩薩像

金剛力士像

地蔵菩薩像

地蔵菩薩像

六地蔵

魚籃観音










如意輪観音





青面金剛(庚申塔)

11.音羽富士

境内の右側に富士塚があり、音羽富士と呼ばれている。文化14年(1817)に築造されたが、明治維新で上地令に伴い、現在の地に移築、再建された。

江戸時代中期には、富士山信仰が広まり、富士講により江戸市中にも多くの富士塚が造られた。富士塚に登れば、実際に富士山に登ったのと同じ御利益があるとして、人気を集めたという。都内には、江戸七富士といわれる富士塚が残っているが、神社ではなく寺院にあるものとしてはこの音羽富士だけである。

富士塚には、一合目から九合目までの標識があり、頂上には浅間神社が置かれている。ただ、この富士登山は高さ七メートル程度である。

富士塚

富士塚

富士塚・頂上の浅間神社

富士塚

護国寺の境内には、今回見てきた堂宇などのほかに、前々回でみた高橋箒庵の寄進等による石灯籠群、不老門、多宝塔、月光殿、茶室などがあり、また前回に、原田直次郎との関わりで見たように、三条実美や山縣有朋、大隈重信ら明治期に活躍した政治家などの墓碑や、陸軍墓地などもある。

護国寺の歴史の概略をふりかえると、五代将軍・綱吉、その生母・桂昌院の発願によって建てられ、その後、八代将軍・吉宗による享保の改革によって、幕府からの財政支援が見直され、寺は自ら出開帳や西国三十三所観音巡り、さらには富士塚など庶民の信仰を広げ、寺の前の音羽通りには見世物や妓女も多く賑わいを見せていたという。

また、江戸神田橋にあった護持院は享保年間に火災で焼失し、吉宗によって再建が認められず、護国寺と合併した。跡地は護持院が原という火除け地となり、明治になって、東京大学、一橋大学などが創設され大学の発祥地となった。

いっぽう、明治維新に伴う廃仏毀釈、上知令などに加えて徳川幕府の庇護が失われたことにより、護持院は廃絶され、護国寺は頽廃に帰する状態となった。また上知された土地は、陸軍埋葬地と皇族専用の豊島ケ岡御陵となった。明治6年(1873)に明治天皇の第一皇子が夭折されると、ここに埋葬された。これを采配した時の太政大臣は三条実美であった。その三条も亡くなると国葬が行われ、護国寺に埋葬された。埋葬地には寺であるにもかかわらず鳥居が建てられている。その後も、山縣有朋、大隈重信、大倉喜八郎など明治期に活躍した政財界の著名人の墓地も設けられ檀家が増えていった。

明治24年(1891年)には、原田直次郎が、「騎龍観音」を自ら運び、観音堂(本堂)の左上方に掲げた。原田としては、「真に日本の様式の絵画」が近代日本に根付くことを祈願して奉納したのではないだろうか。

明治42年(1909)には、当時の実業家であった高橋義雄(箒庵)に寺の復興のため檀家総代を依頼した。高橋箒庵は実業家であるとともに数寄者であり、護国寺を東の茶道本山とすべく、石灯籠や茶室の寄進、月光院、多宝塔、不老門などの建設にも尽力した。

大正12年(1923)の関東大震災にも寺は大きな被害を受けず、積極的に救援活動を行い、その後も音羽幼稚園、児童図書館など社会事業にも貢献し、音羽ゆりかご会を設けるなど、戦後の明るさを取り戻すことにも貢献した。

護国寺の歴史や境内の建物などに、歴史の盛衰や、伝統と近代の相剋、人々の信仰の移り変わりなどを垣間見ることができた。

「三条実美像」原田直次郎作 東京国立博物館蔵

これまで「護国寺と高橋箒庵」、「護国寺と原田直次郎」、そして今回と3回にわたり、護国寺の歴史や関わりのある人物、そして境内の建物、石仏などを見てきました。

「護国寺」というと、地下鉄の駅名、首都高のインターチェンジの名前などのほうがよく知られていますが、ここは、文字通り「ゆりかごから墓場まで」ある寺院です。

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