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甲斐荘楠音「横櫛」・京都国立近代美術館所蔵 |
東京ステーションギャラリーで開催されている「甲斐荘楠音の全貌」展を再び観てきました(8月21日)。前期は7月4日に行き、拙ブログ「東京異空間138:美術館に行く(2023.6-7月)」にまとめましたが、今回は、甲斐荘楠音の代表作をじっくりと観てきました。
1.甲斐荘楠音(1894-1978)の生涯
(1)楠木正成の末裔として
甲斐荘楠音(かいのしょうただおと)は、1894(明治27)年に京都で生まれる。甲斐荘氏は、楠木正成の末裔とされ、江戸時代には旗本となった裕福な武士であった。父・甲斐荘正秀は、楠木正成の24代にあたり、養子となったが、養家に実子が生まれたため明治維新を期に京に帰ることになった。母は、御所士(ごしょざむらい)を父として生まれ、当時まだ珍しかった女学校に通い、新島襄の妻に英語をおそわったという。楠音は、母に驚くほど似ていて、気質も雅びな母方の血を引いていたという。
楠音の長兄・楠香は、高砂香料という会社を興している。兄弟ともに「楠」という字をもらっているのは、楠木正成の系統であることを示している。
暮らしぶりは、妹によると「まったくのお大名の殿様」で、豊かであったが、楠音は喘息持ちで、過保護に育てられ、体つきも華奢であり、のちに女形に扮することもあった。
(2)画家として
京都府立第一中学校に入学してから、好きな絵画に進むため京都市美術工芸学校に転校したが、授業にほとんど出席しなかったため1年留年し、その後、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)を卒業する。この間、村上華岳に認められ、村上や土田麦僊のつくった国画創作協会の「国展」に出品し、画壇デビューを果たす。このとき出品したのが「横櫛」である(後述)。1918(大正7)年、楠音24歳。
その後も、国画創作協会を発表の場としたが、第2回出品の「青衣の女」は落選し、第5回に出品しようとした「女と風船」は京都画壇をリードする土田麦僊から「穢い絵」として出品を拒否された。楠音としては自信作であり、並べさせてほしいと迫ったが、麦僊からは「穢い絵は会場を穢くしますからね。あれは遠慮してください」と言われてしまう。そもそも、麦僊は、理想化された端正な美人画をいわば聖女として描き、楠音の描く肉感的な生々しい「女」を生理的に嫌ったともいえる。この事件は、楠音に生涯、「穢い絵」という言葉を烙印のように担うことになる。
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「女と風船」(作品は焼失しモノクロ写真のみが残る) |
関東大震災を境に社会の流れが、大正時代の自由な気風から統制的な方向へと変換してゆくに従って、この国画会もかつての熱気を失って終息せざるを得なかった。1928(昭和3)年
に国画創作協会が解散し、さらに1931(昭和6)年には満州事変も起こり、戦時色が濃くなるにつれ、楠音は時代とも、画壇とも離れていくことになった。また、同じ昭和6年、母が亡くなるとともに、住み慣れた邸を売り払い転居した。
(3)映画人として
その後、溝口健二監督との出会いが楠音を画壇から映画界へ転身させ、楠音は1930年代半ばから映画界に関係し、映画の時代考証、風俗考証、衣装考証家として活躍するようになる。
なかでも、溝口健二監督『雨月物語』(主演・森雅之 京マチ子
1953年)
のヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞とアカデミー
賞ノミネートによって甲斐荘もその栄に連なり、その名前は広く知られるようになった。
また、溝口健二が
1956年に亡くなり、この年からカラー映画が登場し、華やかな色彩、デザインの衣裳に楠音の活躍の場が拡大
した。その後、楠音の担当する映画はピークを迎えたが、1960年代に入るとテレビの普及もあり、日本映画界が斜陽を迎え時代劇がスクリーンから消えるとともに、楠音は、1965年、71歳で映画界を去る。
今回の展示には、楠音の絵画のみならず、こうした映画の衣装などがスチール写真などとともに多く展示されていた。
(4)再び画家として
映画界は去ったが、映画関係者などのサークルである「山賊会」の仲間との関係は続き、その支援も得て日本橋三越で回顧展が開催された。1977(昭和52)年、楠音82歳であった。
長く画業から離れていた楠音であったが、80歳を越したころ、一度個展を開きたい、生きながらの遺作展を開きたいと望んでいた。そのもっとも重要な動機というのが、20歳のころに描いた処女作の完成と展示にあった。それが「畜生寺」と「七妍」という作品であった(後述)。
楠音は展覧会のあいさつのなかで、「私は絵描きに絵を裁かれる画壇が嫌でした。乞われる儘に映画界に入り長い間巨匠の方々に大切にしてもらいました。龍宮へ行った浦島の様に美しい男女と日々にともに出来たから長生きしたのです。」と、自らの人生をふりかえっている。そして最後に、「私のモットー 穢い画生きて居ろ/ 私の主義 売れないから売らない」と自らの心情を述べるとともに、かつて土田麦僊に言われた「穢い絵」という自らが貫いた画業を強調した。
そして、「七妍」という処女作に手を入れ、完成させた。この絵は、展覧会終了後、京都国立近代美術館に購入され、楠音は画家としての生涯を終えることができた。1978(昭和53)年、持病の喘息の発作により亡くなる。享年83歳。
2.甲斐荘楠音の代表作
楠音の代表作として「横櫛」「畜生塚」「虹を架ける橋(七妍)」の三点をとり上げる。
(1)「横櫛」
「横櫛」とは、歌舞伎の演目である河竹黙阿弥作『処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』
からとったもので、その主役「切られお富」は、惚れた男のために悪事を働く女とされる。この「横櫛」は、2点存在する。ひとつは、1915(大正4)年、楠音21歳の時、東京にいた長兄楠香を訪ね、兄嫁・彦子と一緒にこの歌舞伎を観たが、その数ヵ月後に彦子が他界した。その翌年、楠音は亡くなった彦子をイメージしながら「切られお富」を重ねて卒業制作として一週間で「横櫛」Ⅰを描いたとされる。この作品は京都国立近代美術館に所蔵されている。
もうひとつは、1918年、村上華岳の勧めにより、第1回国画創作協会展にこの「横櫛」Ⅱを出品し、評判を得た。その後、所有者の希望もあり、この毒婦「切られお富」を消して、短冊と取り替え描きなおされ、「横櫛」Ⅱの別バーションとなった。これは広島県立美術館所蔵となっている。
今回の展覧会の前期には、この二つの「横櫛」が並んで展示されていた。なぜ、2点の「横櫛」があるのか、はっきりしたことは不明のようだが、次のように推理してみた。
まず、1916年(大正5)年の作品は、絵画専門学校の卒業のために制作されたもので、これを見た尊敬する先輩・村上華岳から認められ、国画創作協会への出品を勧められたのではないだろうか。そして国画会に出品するため、1918年に新たに書き換えたのが「横櫛」Ⅱではないだろうか。こちらが出品された作品であり、後に所有者の希望もあり、背景の「切られお富」が短冊に書き換えられたバージョンで、短冊には、国画創作協会に出品されたと記されている。これが現在は広島県立美術館に所蔵されている作品である。
なお、「横櫛」の胸像部分が描かれた別の作品があり、これは、国画会で人気を博したことから求めに応じて書かれたものだろうという。1918年頃に描かれたものとされ、福富太郎のコレクションになっている。
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横櫛Ⅰ、横櫛Ⅱの元バージョン、横櫛Ⅱ(背景は短冊に)
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「横櫛」Ⅱ 広島県立美術館所蔵 |
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「横櫛」Ⅰ部分 |
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「横櫛」Ⅰ部分 |
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「横櫛」Ⅰ部分 足元 |
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「横櫛」Ⅰ部分 左手 |
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「横櫛」胸像・福富太郎コレクション |
(2)「畜生塚」
畜生塚とは、1595年、豊臣秀吉が養子・秀次を高野山にて自害させ、その首を三条河原でさらし、あわせて秀次の妻妾など39名を打ち首にして、河原に埋めた。その現場に建てられた塚で、京都。瑞泉寺にある。楠音は、瑞泉寺の法会のとき、妻妾たちの辞世の句の掛物をみて、何かにとらわれたように釘付けになったという。
その歴史的出来事を象徴的に描いた「畜生塚」は、楠音が二十歳ごろに描き始めたが、最後まで未完に終わった作品である。この作品は、幻の遺作といわれていたが、美術評論家・栗田勇により、実妹邸の物置から発見された(1987、昭和62年)。
四曲一双の屏風に、21人の裸の女性が描かれ、顔を白く塗られているのは二人だけ、あとは色彩もなくデッサンのように描かれているだけであるが、それぞれの表情とポーズは悲しみ・苦しみ・諦めなどを表している。画面の中央には、母が、失神している娘の体を抱きかかえて、まるでピエタの像のようなポーズをしている。死を前にして、苦悩に燃え上がる炎のように、21人の女人が裸の肉のピラミッドを盛り上げている。そこにあるのはミケランジェロの描いたような裸体である。楠音は自らが絵の前でポーズを取り、処刑される女人たちの苦悩をわが身に引き受けて演じて制作したという。その写真も展示されており、楠音のポーズは、画面の女人たちを拝んでいるようにも見える。
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「畜生塚」 |
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「畜生塚」のポーズをとる楠音 |
(3)虹の架け橋(七妍)
「妍」とは、うつくしい、みめよい、あでやか、容姿が美しく整っているという意味があり、すなわち「七妍」とは「7人の美人」を描いた作品である。
中国の故事である「竹林の七賢」を現代風に見立てたものともいわれる。この作品は楠音の処女作であり、断続的に手が入れられてきたが、1977(昭和52)年、日本橋三越で開かれる回顧展に向け、60年ぶりに完成させる作業が行われた。絢爛豪華な衣装をまとった七人の太夫の顔をすべて洗い落として描きなおし、女性の美を見極めた最後の大作となった。
楠音は、この「七妍」を「虹の架け橋」と呼んでいる。それは七人の太夫が持つ手紙にある。手紙は、彼女たちにとって空の虹に他ならない。すなわち虹はいつも美しいが、虹は消えてしまう、七人はその虹を見ることで心がつながっている、そんな寓意を込めているのだろう。その虹は、楠音の青春でもあり、女性たちとのつながり、夢でもあったということだろう。そして、虹は消えた。
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「虹の架け橋(七妍)」 |
(4)写真から絵画
展覧会は「甲斐荘楠音の全貌」と題されているように、多くの絵画、スケッチ、そして映画のスチル、衣装やスクラップなどが展示されていた。その中で気づいたのは、絵画の横に写真が置かれているのがいくつもあった。例えば、「白百合と女」(聖母マリア、受胎告知をイメージさせる白いユリをもつ)の横には、楠音自らが同じポーズをした写真が。「裸婦」(太夫の肉感的裸体)にも同じようにポーズをする楠音が。また、「青衣の女」(画学生の友人丸岡比呂史の妹キクと親しくなり婚約するもキクは別な男と結婚してしまう。キクをモデルに描いた)の横には、許嫁・キクの写真がある。また、前述した代表作「畜生塚」「虹の架け橋」にも、同じように楠音がポーズを撮った写真が作品と並べて置かれている。
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許嫁・キクの写真 |
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「青衣の女」 |
楠音は、こられらの写真をもとに絵画制作をしていた。この時期、大正から昭和の初期にかけて、写真が広まってきて、蛇腹カメラなどコンパクトなカメラも登場してきていたとはいえ、まだまだ高価なものであった。絵画に、写真を利用するというのは、竹久夢二などもモデルを写真に撮って描いている。また、「芸術写真」といわれるように、写真そのものの芸術性を高めるような写真家・福原信三(資生堂の初代社長でもある)などが多く登場してきている。カメラを自らの絵画制作に利用したというのは、この時代からであろう。
楠音は、自らが女装して太夫や女形になりきり、ポーズを撮った写真をもとにいくつかの作品を描いた。それは、日本画において写実性を追求し、かつ、女性の内面までも自らのものとして描くという新たな日本画の境地を開いたといえる。そのため、楠音は、ダヴィンチ、ミケランジェロなどルネサンスの画家たちからも多くを学んでおり、いわば日本画の近代化、西洋化に取り組んだともいえる。それが、伝統的な日本画を引き継ぎ理想的な女性美を求める土田麦僊に「穢い絵」といわれてしまったのだろう。
絵画に用いた写真だけでなく、絵の発想の下地となったと思われる多くのスクラップ・ブックが展示されていた。色々な雑誌等から切り貼りした写真、そこにはヌードから仏像から三島由紀夫まで様々なものがビッシリと貼り付けられている。
このように
太夫や女形に扮した楠音の写真に注目すると、彼が描いた女性たちは自身の自画像でもあると思われる。楠音が生涯をかけて描いた作品は、兄嫁、許嫁、母、太夫、秀次の妻妾などなど女人へのオマージュであるとともに、自らへのオマージュでもあった。
参考:
『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯』栗田勇 新潮社1987年
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「畜生塚」の前の楠音 |
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女形に扮する楠音 |
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スクラップブック |
この展覧会は、8月27日までの開催でしたので、再度観に行きましたが、2度見ても新たな絵を見たような、そしてまた映画の衣装のデザインが見事なのをあらためて感じました。
甲斐荘楠音は、それほどよく知られた画家ではないかもしれません。どちらかというと、あやしい絵、グロテスクな絵、デカダンスな絵、といった見方をされてきたようです。しかし、今回、東京ステーションギャラリーで回顧展が開かれることで、テレビの美術番組でも取り上げられ、その画業、映画の時代考証などが広く知られたのではないでしょうか。見応えのある展覧会でした。
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「籐椅子に凭れる女」 |
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展覧会ポスター |
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東京ステーションギャラリー |