2023年12月17日日曜日

東京異空間165:慶應義塾大学三田キャンパス~建築とアート

 

福沢諭吉肖像画・演説館

慶應義塾大学三田キャンパスで、ふだんは公開されていない、建物の内部や、アートが特別公開されるということで行ってみました。キャンパス内の建築とアートが一体となって、歴史を築いていたこと、また建築家、芸術家と、慶應義塾との関わりも見えてきました。

1.建築

(1)演説館

慶應義塾の始まりは、安政5(1858)、福澤諭吉が江戸の築地鉄砲洲にあった中津藩の中屋敷内に開いた蘭学塾に由来している。いまの聖路加国際病院のあたりで、記念碑が立っている。1871(明治4)年に現在の三田の地に移転した。

その諭吉時代の建物で現存しているのが「演説館」である。1875年に建てられた建物は、木造瓦葺で、外壁はなまこ壁、ガラスをはめた洋風の上下窓、正面中央には切妻造屋根の玄関を設けるなど、擬洋風となっている。

建物の前には、福澤諭吉の胸像が置かれている。この銅像の作者は慶應義塾普通部出身の彫刻家柴田佳石で、制作にあたっては写真を参照するとともに福澤の子女から助言を受けており、よく福澤の面影を伝えると評されている。胸像背面銘文には「独立自尊 1953佳石謹作」と刻まれている。

建物の中に入ると、目に飛び込んでくるのが正面演壇の上に福沢諭吉の肖像画である。諭吉が演説しているスタイルを描いたものだという。これは、和田英作(1874-1959)による原画を1937(昭和12)年に松村菊磨が模写したもので、原画は三田大講堂に飾られていたが、空襲により消失してしまった。

館内は、2階建ての吹き抜けになっており、12階計約150席(椅子にもペンの記章)、観客数としては400-500名を収容することができ、正面奥の演壇の背後には曲面状の壁が廻らされ、音響的にも優れたものとなってい るという。

なお、”スピイチ”を「演説」、”ディベイト”を「討論」と訳したのは福澤とされ、出典は鳩摩羅什訳の漢訳仏典からという。

演説館

福澤諭吉胸像

演説館

演説館・切妻造屋根の玄関

演説館・外壁のなまこ壁

演説館・福澤諭吉肖像画

演説館・演檀

演説館・内部

演説館・中央に肖像画と演壇

演説館・椅子にもペンのマーク

演説館・入口方向

(2)旧ノグチ・ルーム

演説館の横には、かつて「萬來舎」という木造平屋の建物が造られ、 教職員、塾生、卒業生たちのための一種の社交クラブとして使われていたが戦災で焼失した。「萬來舎」という名称は、「千客万来」という言葉から取ったものだという。その名を引き継いで造られたのが「旧ノグチ・ルーム(第二研究室談話室)」で「新・萬來舎」とも呼ばれた。1951年に造られたこの建物は、戦後の慶應の復興計画を任された建築家・谷口吉郎(1904-1979)と彫刻家・イサム・ノグチ(1904-1988)のコラボレーションから生まれた空間であった。このコラボは、イサム・ノグチの父親が野口米次郎(1875-1947)で、慶應で長く教鞭をとったという縁から生まれた。

谷口はこのコラボについて、次のように語っている。

「建築ばかりでなく、「庭園」も或いは出来ることなら「絵画」や「彫刻」などの参加も得て、いわば「総合芸術」としての建築力を発揮して、この三田の焼跡に、気持ちのいい戦後の学園を建設したいと考えた。」

なお、谷口吉郎の代表作としては、東宮御所、東京近代美術館、東京国立博物館・東洋館、帝国劇場等がある。

いっぽう、イサム・ノグチは、「ノグチ・ルーム」のデザインにおいて、コンクリート(柱、暖炉)、石、木(テーブル、椅子)、鉄(暖炉)など、多様な素材で斬新な空間を構成した。また、部屋だけでなく庭園をも同時に構想し、庭園には、自らが制作する彫刻3、<無>、<若い人>、<学生>が含まれていた。

しかし、2002年、南館建設のために、第二研究室の解体が決定され、その際、「ノグチ・ルーム」の保存をめぐり、学内外で議論が起こり、法廷でも争われ、社会的にも注目されることとなった。 最終的に解体は実施されたが、ノグチ・ルーム部分の室内空間と設備を当時理工学部教授であった隈研吾により移設設計がなされ、2004年、南館3階のルーフテラスに建物と<無>が設置され、<若い人>と<学生>は南館1階で展示されることとなった。

<無>は、イサム・ノグチが庭園に必要であると考えていた「石燈籠」として構想されている。この彫刻はノグチ・ルームの西側に配置され、沈む夕日をその円弧の内に抱くことにより、ノグチが意図した通りの「石燈籠」となっているという。そして、単純な円ではなく少し両端がずれており、見る角度によってさまざまな表情を見せる。

ただし、現在のと「ノグチ・ルーム」の位置関係は当時とは異なっているため、ノグチが構想した環境と彫刻の調和の鎖は断ち切られてしまっているようだ

<若い人>大理石、鉄などを板状にしたパーツを組み合わせて空間を構成する彫刻。後述する菊池一雄の青年像と共通の主題を選びながらも、抽象という手法を用い、三田山上で学ぶ未来ある学生の生き生きとした姿をリズミカルに構成された曲線によって表現している。

<学生>は、鉄製の肋材で組み上がられた作品で、高さ4mにも達する。学生が折りとじの本をぱたぱたと開いているところをイメージした作品と伝えられている。


イサム・ノグチはこの「仕事について」次のように述べている。

「終戦は、青年達に、未だ生まれない未来をのこしました。そして、彼等が受けた傷手の償いに、日本の青年諸君にこんなふうに話しかけ得るというのは私に許された特権です。実際慶應義塾の学生諸君だけでなく、日本のすべての学生諸君がそこに来てかくれ家を見出して呉れるようにと望んで、私は、これをのこすのです。」

また、このころにイサム・ノグチは、丹下健三と広島平和記念公園の原爆慰霊碑の設計を依頼されたが、決定の直前にノグチがアメリカ国籍であるという理由から白紙となってしまった。

(参考):

『萬來舎』杉山真紀子 編 鹿島出版会 2006

この本には、建設された当時のノグチルーム、彫刻などの写真も多く掲載されており、現在との違いを見ることができる。

ノグチ・ルームが移設された南館

ノグチ・ルームへの通路

南館・エレベーター

ノグチ・ルーム

ノグチ・ルーム・内部

ノグチ・ルーム・内部

ノグチ・ルーム・内部

ノグチ・ルーム・内部

ノグチ・ルーム・内部

ノグチ・ルーム(テーブル・椅子)

ノグチ・ルーム(暖炉)

ノグチ・ルーム(カウンター)

ノグチ・ルーム(テラス側)

ノグチ・ルーム(テラス側)

ノグチ・ルーム(テラスに置かれた<無>)

テラスに置かれた<無>

テラスに置かれた<無>

<若い人>イサム・ノグチ

<若い人>イサム・ノグチ

<学生>イサム・ノグチ

(3)図書館新館

慶應の図書館と言えば、旧館(後述)がよく知られているが、1981年に図書館新館が槙文彦(1928-)の設計により建てられた。槙文彦は、三田キャンパスでは大学院棟、日吉キャンパスの図書館なども手掛けている。

図書館の入り口には、槙文彦の依頼によって飯田善國の彫刻<知識の花弁>と、宇佐美圭司の壁画<やがて、すべてが一つの円に>が制作されている。

南校舎(2011年竣工)

南校舎

図書館新館

<知識の花弁>図書館新館

<やがて、すべてが一つの円に>図書館新館

(4)図書館旧館

図書館旧館は、演説館とともに、慶應義塾のシンボル的建物である。1912(明治45)年 、慶應義塾創立50年の記念事業の一環で建設された。設計は曾穪達蔵、中條精一郎によるもので、赤煉瓦および花崗岩、テラコッタによる華やかなゴシック式洋風建築であり、当時の図書館としては、規模とともに画期的なものであった。八角塔と時計塔が特徴であり、時計の文字盤には、「TEMPUS FUGIT」(「時は過ぎゆく」の意のラテン語)が刻まれている。

建物は、関東大震災の被害を受けて一部を鉄骨鉄筋コンクリート造に改修し、さらに、1945年の空襲で屋根が抜け本館内部が炎上し、戦後に修復がなされた。

しかし、階段に設けられたステンドグラスは、この空襲で消失してしまった。このステンドグラスは、原画は和田英作、施工は小川三知によるもので、高さ6.45メートル、幅2.61メートルの大作であった。デザインは、甲冑に身を固めた武将が馬から降りて、ペンを手にした自由の女神を迎えているところで、下部にはラテン語でCalamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)の文字があり、その左右には義塾創立の年(1858)と図書館建設の計画がなされた50年記念の年(1907)とがローマ数字で記されている。

戦後、ステンドグラスの修復まで手が届かずにいたところ、かつて小川の助手としてこの制作にかかわった大竹龍蔵からぜひ復元させてほしいとの申し出があり、谷口吉郎の助言のもとにこれの復元に着手し、1974(昭和49)年に完成を見た。

また、入口を入って左側に大理石で造られた裸婦像<手古奈>が置かれている。この作品は、彫刻家北村四海(1971-1927)の代表作で、第3回文展に出品後、創立五十周年記念図書館の新築祝いとして慶應義塾に寄贈されることになり、図書館玄関ホールに設置された。その後、1945年の空襲によって被災し、図書館地下の倉庫に収納され、そのままの状態となっていた。 再発見されて修復するにあたり、戦争の記憶を後世に伝えるため 、あえて戦火で失った両腕部分はそのまま残し展示されることになった。

図書館旧館

図書館旧館・時計塔

図書館旧館・時計塔

図書館旧館

図書館旧館

図書館旧館・入口

図書館旧館・階段

ステンドグラス・図書館旧館

中央にCalamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)、左右にローマ数字の年

ステンドグラス・図書館旧館

図書館旧館・階段

図書館旧館・階段

図書館旧館・階段

図書館旧館・入口

<手古奈>図書館旧館

<手古奈>両腕は失われたまま

(5)塾監局

図書館旧館と同じく、曾禰中條建築事務所が設計を手がけた(1926年竣工)。外観はスクラッチタイルとテラコッタを基調とし、中央に玄関ポーチを設けた左右対象の構成を特徴とする。「塾監局」という名称も塾らしい言葉であるが、その由来は、福澤諭吉が適塾在学中に使用していた言葉「塾監」にあるという。建物の名称であるとともに、慶應義塾の事務行政全般を司る部門を意味する。

曾禰中条建設事務所は、慶應義塾の建設に多くかかわり、かつてあった三田大講堂(1915竣工、空襲により焼失)、医学部・予防医学教室(1929)、日吉キャンパスの基本設計をし、日吉第一・第二校舎 (1934)などを手掛けている。

このうち三田大講堂は、東京帝国大学安田講堂1925竣工)や早稲田大学大隈講堂1927竣工)よりも早くに竣工されており、当時の大学講堂近代建築の歴史においても重要なものであった。 

曾禰達蔵(1853-1937)は、ジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の一期生であり、同じ辰野金吾とは同郷でもある。コンドルとともに「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の三菱建築群の設計に関わった。その後、中条精一郎(1868-1936)トともに、曾禰中条建築事務所を開設し、戦前日本においては最高最大の民間建築設計組織として知られる 。

塾監局

塾監局

塾監局

塾監局・正面

塾監局

塾監局・入口

三田大講堂1915年(大正4年)完成時 (ウィキペディアより)

幻の門

東館から幻の門へ

東館(2000年竣工)


2.アート

キャンパスには、建築とコラボしているアートのほかにも彫刻など色々なアートが置かれている。

(1)平和来(へいわきたる)

塾監局前の庭園に立つ青年像は、朝倉文夫の作品である。造形された青年の肉体は、裸体表現を特に得意とした朝倉の真骨頂といわれる。

1932年度卒業生によって1957年に寄贈されたこの彫像は、「平和来(へいわきたる)」というタイトルが示しているように、学徒動員によって戦地に送られ、ついに帰ることのなかった塾員たちの霊を慰める趣旨で設置されている。学徒動員がなされた当時の塾長であった小泉信三の「丘の上の平和なる日々に征きて還らぬ人々を思ふ」という碑文が台座に刻まれている。

<平和来>


(2)小山内薫胸像

図書館旧館八角塔脇の小高い丘に小山内薫の胸像が建っている。作者は朝倉文夫。

小山内薫と慶應義塾との関わりは、1910(明治43)年、彼が大学部文学科の講師として迎えられた時に始まる。その年には、ほかにも永井壮吉(荷風)、戸川秋骨、小宮豊隆といった新進気鋭の士が、教授スタッフとして加わっている。

また、小山内と言えば、新劇の築地小劇場を造り(1924)、戦後の演劇界に活躍する多くの人材を輩出した ことで知られるが、この築地小劇場の発足は、義塾の演劇研究会が主催して三田大講堂のホールでの公演をおこなったことが、直接の発端であった。

1958年に小山内の没後30年を機に制作され、当初は、歌舞伎座の片隅に置かれたが、翌年に大講堂があった場所に近いところに移設され、その後、校舎の建設に伴い、現在の場所に移された(1984)。胸像の近くには、小山内に学んだ久保田万太郎が詠んだ句碑が建てられている。

「小山内先生をおもふ

しぐるゝや 大講堂の 赤れんが」

<小山内薫胸像>

<小山内薫胸像>

久保田万太郎の句碑

(3)青年像

谷口吉郎、戦後の三田キャンパスの整備に当たり、建築、庭園、彫刻の融和によって、新たな新しい学園の雰囲気を醸し出したいと考え、竣工した4号館(1949)の前の庭園に菊池一雄によるこの<青年像>を配置した。

その後、1967年に4号館が取り壊されると、青年像も移動され、現在はキャンパス西側の研究棟脇にひっそりと佇んでいる。

この像のモデルは、東北の青年であった。彼は声楽家を志望していたが、従軍中に喉を潰し、夢を諦めざるを得なかったという。菊池は、「戦争の空白の中に自分を置き忘れてきたような暗い影を持った青年にひかれた」と語っている。

先に観たイサム・ノグチの<若い人>(1950)、<学生>(1951)、朝倉文夫の<平和来>(1952)、そして菊池一雄の<青年>(1948)と、いずれも1950年前後に制作された、いわば若き戦没者の慰霊と、新しい時代への希望を表現しているアートである。

<青年像>

(4)星への信号

<青年像>とともに設置されているこの作品は、風の力で動くアートである。天へと向けられ、刻々とその位置を変えるステンレスの棒は、<星への信号>というタイトルが付けられている。先に観た図書館新館の<知識の花弁>を制作した飯田善國が、昭和58年度卒業生からの記念品として制作した。

<星への信号>

(5)デモクラシー

この作品は1949年に竣工した谷口吉郎設計による学生ホールの東西面の壁画として、谷口の求めに応じて、猪熊弦一郎(1902-93)によって制作された。<デモクラシー>は、多くの若い男女が動物に囲まれながら楽器を奏で、歌をうたい、題名の通り戦後の民主主義による自由を謳歌している姿である。また、開放的な構図や明るい色彩を用いることで、谷口建築の「開放性」というモチーフとの親和性を高めた。

その後、1992年の学生ホール取り壊しの際、現在の西校舎内の食堂に移設された。絵の上部と建築が一致していないのは、絵が旧学生ホールの壁面の形状を保っているためである。

<デモクラシー>

<デモクラシー>

(6)北館に置かれているアート

北館のなかには、次のような彫刻が置かれている。このうち、<裸婦像>は、図書館旧館に置かれていた<手古奈>の制作者である北村四海の大理石の彫刻である。

<馬に水を飲ませるアマゾン族の女性>(アルトゥール・フォルクマン、1920頃)

<無題>(アブラハム・クリスチャン、1982

<裸婦像>(北村四海)

<人魚>(木内克、1969

北館

<馬に水を飲ませるアマゾン族の女性>

<無題>

<裸婦像>

<裸婦像>

<人魚>

<人魚>

3.ミュージアム

慶應義塾には、アート・センターとミュージアム・コモンズという二つのミュージアムがあり、興味深い企画展が開かれている。今回は、アート・センターでは「駒井哲郎 線を刻み 線に遊ぶ」(2024.1.26まで)と、ミュージアム・コモンズでは、「常盤山文庫×慶應義塾 臥遊-時空をかける禅のまなざし」(12.1まで終了)が開かれていた。

なお、図書館旧館の2階には福澤諭吉記念慶應義塾史展示館 があり、企画展「曾禰中條建築事務所 と慶應義塾」(1216まで)が開かれていた。また、この夏の甲子園での慶応高校の優勝旗が飾られていた。早くも塾史の一コマに。

「駒井哲郎 線を刻み 線に遊ぶ」アート・センター

「常盤山文庫×慶應義塾 臥遊-時空をかける禅のまなざし」ミュージアム・コモンズ

臥遊<寒山・拾得図><蝦蟇仙人・鉄拐仙人>

臥遊<雪舟・山水図>

サンフランシスコの写真館の少女と福沢諭吉(1860年万延元年)福澤諭吉記念慶應義塾史展示館

「曾禰中條建築事務所 と慶應義塾」福澤諭吉記念慶應義塾史展示館

夏の甲子園・慶応高校優勝旗・福澤諭吉記念慶應義塾史展示館

慶應義塾三田キャンパスに、建築とアートを観て、それぞれがコラボした空間にしばしの時間を過ごしました。しかしながら、その建築とアートも空襲などによる消失や、新しい建物のために移設せざるを得ないという歴史を共有していました。また、大学と建築家・芸術家との関わりにも歴史があることを実感しました。

戦後の三田キャンパスを設計した谷口吉郎は、建築について次のように述べています。

「歴史は人類の長い「旅」である。その旅に、人間は各種の建築をつくりあげ、いろんな花をさかせている。建築こそが歴史の花であろう。」

谷口吉郎『雪あかり日記』中公文庫 2015

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