2023年12月12日火曜日

東京異空間164:立教大学の歴史的建造物と歴史的人物

 

立教大学・セントポールズ・フェスティバル


池袋にある立教大学の学園祭、「セントポールズ・フェスティバル 」に行ってきました。立教大学はツタのからまる校舎など、歴史的建造物も多く残っています。また、歴史的人物として、早稲田の大隈重信、明治学院の井深梶之助などとの関係も見えてきました。

1.立教大学の沿革

立教大学の沿革は、1874(明治7)年に、アメリカ聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教により、東京築地に外国人居留地に聖書と英語を教える私塾「立教学校」が開かれたのを始まりとする。

しかし、さらに源流を遡ると、1853年ペリーが来航し、さらにタウンゼント・ハリスが日米修好条約を結んだことから、聖公会の信徒でもあったハリスから、宣教勧告の情報を得たウィリアムズは、中国での伝道から日本の伝道のため長崎に入り、そこで、私塾を開き英学を教えた。後に来日したフルベッキとともに、佐賀藩士の大隈重信、副島種臣、前島密らに英学とともに米国の歴史、文化なども教えた。この長崎での私塾でウィリアムズ、フルベッキに学んだ大隈重信は後年、早稲田大学を創設することになり、立教大学も、早稲田大学も同じ源流を持つといえる。

ウィリアムズは、いったん米国に帰国したのち、日本の大政奉還(1867年)を挟んで、再び来日し、東京に伝道の拠点を移し、築地の外国人居留地に「立教学校」を開いた(1874年)。このとき大蔵卿となっていた大隈重信は築地の土地の確保を支援したという。

1880(明治13)年、ジェームス・ガーディナー(1857-1925)が初代校長となり、築地の校舎群や、聖堂などを設計した。ただし、ガーディナーは、母国において本格的に建築学を修めたわけではなく、実務経験もなかったという。明治27年に起きた明治東京地震により、校舎など多くが倒壊し、煉瓦の壁を厚くし復旧をはかった。ガーディナーは、教育者として、建築家として1925(大正14)年に聖路加病院で没するまで活躍した。ガーディナーの建築として現存するのは京都の長楽館(現・カフェ、レストラン)である。この建物は煙草王として知られる村井吉兵衛の別邸であった。

なお、この築地の地(現・聖路加国際病院)は、福澤諭吉が蘭学塾を開いたところであり、立教大学と慶應義塾大学のルーツも同じ場所であった。(さらに「東京異空162:明治学院の歴史的建造物と歴史的人物」で述べたように明治学院も白金に移る前は築地にあった)。

1883年(明治16)年には、立教大学校を設立し、後の帝国大学令と大学令に先駆け教育令により認可され、明治政府によりミッションスクール第一号として認可された。

1918(大正7)年に、築地から池袋に移転した。翌年1919年、本館、礼拝堂、図書館、食堂、寄宿舎(現2号館、3号館)の落成式が盛大に開かれた。

その後、1922(大正11)年、大学令による大学として認可される。ちなみに、1920年に慶應、中央、日大、法政、明治、國學院、早稲田、同志社が私立大学として昇格認可されている。

戦後、1949 年に新制大学として発足、 という経緯をたどる。


チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教

ウィリアムズ銅像

ヘンリー・セントジョージ・タッカー


2.歴史的建造物

築地から池袋への移転を決めた立教大学は、本格的な校舎の建設を、米国のマーフィーとダナという2人の建築家が共同で経営する建築事務所 に依頼した。2人は立教のキャンパス建築を当時アメリカで流行していたカレッジ・ゴシック様式でまとめ、建物の中心となる本館の時計台下通路の尖ったアーチなどに、その特徴を見ることができるという。

マーフィとダナによる作例は、日本ではほかに見られないもので、今の残る本館、2号館3号館、礼拝堂(チャペル)、展示館(旧図書館)、第一食堂は、歴史的建造物として貴重である。

(1)本館(一号館、モリス館)

本館は、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリスの寄付によって建てられたことから、「モリス館」とも呼ばれる立教のシンボルである。1919年の落成後、関東大震災では大きな被害を受け、屋根を切妻から入母屋に変更するなどの改造を経て、現在も教室として使われている。中央時計台の時計はイギリス・デント社製で、直径90cm。動力は分銅式で、3~4日に一度、手で巻かれているという。

この本館は、ツタでおおわれていることでもよく知られているが、正門から見て右側は、1924年に神学院のチャペルから移植されたキヅタで、左側は、1925年に目白・自由学園から移植された。本館全体に這っているのはナツヅタで、秋には葉を落とすという。

また、本館前の2本のヒマラヤ杉は、1920年ごろ植林され、高さは約25メートルになる。そのヒマラヤ杉を用いたクリスマスイルミネーションは、戦後間もないころ1949年ごろに始まったとされ、クリスマスの時期には、池袋のランドマークとなるという。

本館
本館

本館

本館

本館から

本館から


本館から


本館から

本館から

本館から


本館から

本館から

本館から

本館から

本館

本館

本館

本館

本館

本館


(2)立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル)

モリス館(本館)や旧図書館本館(メーザーライブラリー記念館)と同時期に建てられ、1918年に竣工した。 建築当初は礼拝堂そのものだけで、西側の控室、回廊、入口上部のバルコニー(聖歌隊席)はその後増築された。

礼拝堂

礼拝堂

礼拝堂

礼拝堂


礼拝堂

礼拝堂

礼拝堂


(3)立教学院展示館・メーザーライブラリー記念館

2階に展示館があるメーザーライブラリー記念館は、1919年の落成から2012年まで、図書館本館であった。米国聖公会のサミュエル・メーザーからの寄付により建てられたことから、メーザーライブラリー記念館と名付けられている。

展示館

展示館

展示館

展示館

展示館

展示館

展示館


(4)二号館、三号館

1919年に、寄宿舎東寮(現2号館)、寄宿舎西寮(現3号館)として建設された。寄宿舎としては1932年に閉鎖され、その後は教室や研究室として使用されてきた。

二号館

三号館



5)第一食堂

1919年に完成した第一食堂は、レンガ造りの外観や漆喰をまとった壁面など美しい雰囲気をもつ学生食堂である。入口のドアの上にはラテン語で"食欲は理性に従うべし"(APPETTTVS RATIONI OBEDIANT )と書かれている。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」という言葉をもじったものだという。

この食堂は、単に食事を取る場ではなく、宗教施設や学校などにおいて共同で会食をする場という意味があるという。つまり、現在の我々が想像するいわゆる「学食」ではなく、正式な会食や儀式なども行うフォーマルな場を想定して建設された。こうした歴史的な建造物としての食堂は、他の大学に例を見ることのない建物である。 戦前からの校舎や図書館といった建物が残る学校でも、現在は戦後建てられた学食を使用しているのがほとんどだという。

第一食堂

第一食堂

第一食堂・「APPETTTVS RATIONI OBEDIANT」

第一食堂

第一食堂

第一食堂

第一食堂・椅子にもユリの紋章

第一食堂

第一食堂

第一食堂

第一食堂


6)ライフスナイダー館

192627年にかけて校宅として建設された建物で、当時の立教学院総理ライフスナイダーの邸宅であったことから、戦後、ライフスナイダー館と呼ばれるようになった。ライフスナイダー(1875-1858)は、日本の大学で初めての外国人総長となった。

こうした校宅は10棟あったが、空襲等により消失し、現在はライフスナイダー館を残すのみとなっている。

ライフスナイダー館

ライフスナイダー館

ライフスナイダー館


ライフスナイダー館

ライフスナイダー館

ライフスナイダー館

ライフスナイダー館



(6)鈴懸の径

建物ではないが、4号館と10号館の間の東西に続くスズカケ(プラタナス)の並木道がある。これは、1924年に植樹され、灰田勝彦(経済学部卒)が歌った昭和のヒット曲『鈴懸の径』のモデルとなり、歌碑も建てられている。♪友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎の径♪

また、歌としては、ペギー葉山の歌った「学生時代」が、♪つたのからまるチャペルで 祈りをささげた日♪という歌詞がイメージされるが、こちらは、青山学院が舞台となっているという。

鈴懸の径


3.歴史的人物

展示館に展示されている資料に「大正8年5月31日、落成式芳名帳」がある。ここに「井深梶次助」と「大隈重信」のサインがある。大隈重信と言えば、早稲田大学の創設者だが、なぜ、立教に?また、井深梶之助は、明治学院の総長であるが、なぜ立教に?この二人の歴史的人物と立教大学との関わりについてみてみる。

マーフィとダナの設計による建築

「落成式芳名帳」


(1)立教大学と大隈重信

大隈重信 は、幕末に長崎チャニング・ウィリアムズから英語、数学など英学を学んだ最初の弟子の一人であった。また、大隈はウィリアムズの盟友のグイド・フルベッキにも師事し英学を学んだ。当時の教材は新約聖書合衆国憲法に加え、アメリカ独立宣言であった。アメリカ独立宣言起草者の。トーマス・ジェファーソについて、大隈は、「ジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じてバージニア大学を設立した。ジェファーソンと同じ考えで、早稲田大学を創設した。」と語ってる。ジェファーソンの「人間精神の無限の自由」は、立教大学では『自由の学府』に受け継がれ、早稲田大学では建学的基本精神なる『学問の独立』に受け継がれている。

築地にあった立教学校の新たな施設建築のため、土地を必要としていたウィリアムズの要請を受け、大隈は、1888年(明治21年)から枯渇状態であった築地居留地の予備地の造成に尽力し、ウィリアムズが計画した学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス拡張に大きく貢献した。明治維新後、大隈は築地に5000坪もの土地を下賜されていたこともあり、立教の土地の造成についても貢献したのであろう。

また、築地から池袋に移転し、校舎、チャペルなどが新たに建設され、1919年(大正8年)に立教大学池袋校舎落成式を開催した。その際、大隈は来賓として出席する。そこで、長崎時代から続く大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く演説を行った。演説の中で大隈は、「我輩が青年時代、ウィリアムズ師が長崎在住時代に同師から親しく教えを受けたことがある。この意味で私も立教大学同窓生の一人である。」と述べ、かっさいを博した、という。

大正8年には、大隈は80歳を超え首相の座からは降りている。大正9年には早稲田大学も大学令により正式の大学となり、1922(大正11)年、早稲田邸で亡くなる。

大隈は早稲田大学を創設した人物であるが、立教大学にとっても同窓生の一人であり、創成期の発展に貢献した功労者で重要な人物であった。

(参考):

weblio「立教大学と大隈重信」

https://www.weblio.jp/wkpja/content/


(2)立教大学と井深梶之助

井深梶之助(1854-1940)は、ヘボンの後の明治学院の2代目総理となり、1921(大正10)年に辞任するまでやく30年間にわたり、総理を務め、明治学院とともに、日本のキリスト教教育の銭湯で活躍した。その間、多くの困難に直面するが、中でも、1899年の「文部省訓令第12号」が発せられた宗教と教育の問題が大きかった。この訓令は文部省認可校における宗教教育を禁ずるもので、宗教教育をやめるか、認可を返上して専門学校となるか、いずれかを選ばせるものであった。認可の返上は、徴兵猶予と高等専門学校への入学資格を失うという2つの特典を失うことになる。これに対し、井深は一歩も後に引かず宗教教育を継続する一方、訓令撤回に向けて運動を開始し、2年後の1901年には、いったん失った徴兵猶予と上級学校への進学の特典を回復することに成功する。この問題は立教も当然同じ局面に建つことになる。

こうしたなか、1909年に井深は、日本基督宣教開始五十年会で、「基督教教育の前途」という演説を行い、その中で、教派を超えてキリスト教指導者を養成する大学の必要性を訴え、明治末にはこの問題が日本のキリスト教界の課題の一つとなっていた。

しかし、キリスト教系の足並みはそろわず、このキリスト教主義大学の創立計画は頓挫したが、1918(大正7)年の大学令の公布により、再びこの問題の解決は現実味を帯びてきた 。

井深のこうした熱意と努力がキリスト教系大学の発展に寄与してきた。その一つに立教大学の落成式があり、来賓として招かれたと考えられる。井深は、このあと、1921(大正10)年に、明治学院の総理を辞任し、1924(大正13)には明治学院を退職している。なお、1940(昭和15)年に亡くなる。

井深梶之助は、明治学院の総理として大学を築いた人であるが、教派は異なるとはいえ同じキリスト教系の大学として立教大学とともに歩んできたともいえるだろう。

オフィシャルシンボル

楯のマークには十字架と聖書。楯の中には「PRO DEO ET PATRIA」という「神と国のために」というラテン語。



立教大学の歴史的建造物とともに、キリスト教と教育との関わりについて、歴史的にも多くの困難を乗り越えてきたことの一端を知ることができました。日本においてはキリスト教信者は、1パーセントにも満たないともいわれていますが、キリスト教系の大学の多くが、学力も、人気も高いようです。それは、こうした先人たちの熱意と努力の成果がもたらしたものでもあるのだと思いました。

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