明治学院記念館 |
明治学院の学園祭(白金祭)に行ってきました。11月1日は創立記念日でもあるそうです。明治学院に残る歴史的建造物が一般公開されていました。
1.明治学院の沿革(概略)
明治学院の歴史は、アメリカ長老会から派遣された宣教医ヘボンが、1863年、横浜に開設したヘボン塾にはじまる。その後、築地居留地に移り、築地大学校→東京一致英和学校など→明治学院となり1887(明治20)年に白金に移った。このとき、校舎、講堂、寄宿舎、宣教師の住居など西洋館が相次いで建設された。そのうち、現存するのは記念館、礼拝堂、インブリー館である。
2.明治学院の歴史的建造物
(1)記念館
記念館は、1890(明治23)年に、学院の教授であったH.Mランディスによって設計されたとされる。建設当時は、神学部の校舎と図書室として使われていた。明治学院の第一期の卒業生である島崎藤村は、この図書館で本を読んだという。
赤煉瓦、瓦葺の2階建てであるが、1894年の地震により大破したため2階部分を木造に改造している。また、当初は正面玄関は西向きであったが、1966年に道路拡幅に伴い、曳家という方法で建物を移動させた際に、正面を90度回転させ南向きにしたという。
記念館・二階は木造、一階は赤煉瓦造り |
記念館・赤煉瓦 |
記念館 |
記念館 |
記念館 |
記念館 |
記念館 |
『和英語林集成』手稿 |
井深梶之助(ヘボンの後、総長を30年務めた) |
記念館 |
記念館の窓から |
記念館の窓から |
記念館の窓から |
(2)礼拝堂(チャペル)
礼拝堂(チャペル)は、ウィリアム・メリル・ヴォーリズ(1880-1964)の設計によって、1916年に竣工した。ヴォーリーズは、生涯の伴侶である一柳滿喜子との結婚式をこのチャペルで挙げている。そして日本名を「一柳米来留(ひとつやなぎめれる)」と名乗った。「米国より来りて留まる」という洒落であるという。ヴォーリズは近江八幡を拠点にメンソレータムの近江兄弟社を創設するとともに、教会などの西洋建築を多く設計している。
礼拝堂は、天井を張らないオープン・ルーフという形式で、ハサミ型に木を組んだトラスが特徴となっている。
2008年に耐震工事にあわせパイプオルガンを制作し、翌年完成した。このオルガンの特徴はバッハ時代の音色を再現した17-8世紀の製法によるもので、2045本のパイプが使われているという。
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂 |
礼拝堂・天井のトラス |
礼拝堂・演壇 |
礼拝堂・ステンドグラス |
礼拝堂・天井のトラスとパイプオルガン |
パイプオルガン |
(3)インブリー館
インブリー館は、明治学院が白金の地に開校して間もないころ宣教師の住居として建てられた(1889年ころ)。宣教師・インブリーが長年住んでいたことから名付けられた。
建築様式は、19世紀後半のアメリカで流行した木造住宅様式である。設計者は、明らかでなく、当時のアメリカ住宅建築のパターンブックというデザイン集をもとに造られたとされる。この建物も、1964年、道路拡幅にともない、曳家により移動している。
インブリー館 |
インブリー館 |
インブリー館・右側は記念館 |
インブリー館 |
インブリー館 |
ウィリアム・インブリー博士 |
3.明治学院に関わる歴史的人物
明治学院にかかわる歴史的人物には、あまり知られていない、こうした人々もいたのかということでとりあげてみる。
(1)J.C.ヘボン(1815-1911)
ヘボンは、ヘボン式ローマ字によって知られている。そのもととなった『和英語林集成』という辞書によっても知られている。『和英語林集成』は、西洋語による近代日本語の最初の辞典である。
ヘボンは、1859年に夫人とともに来日した。これは、ペリーに同行したS.W.ウィリアムが、 アメリカ長老派教会、オランダ改革教会、聖公会各本部へ文書を送り、まず宣教医を送ること を要請し、これに応じたのが、ヘボン夫妻であったことによる。
ヘボン夫妻は横浜で、1863年、ヘボン塾を開き、クララ夫人が英語を教え、ヘボンは医学を教えた。この時の主な生徒に、高橋是清、林董、益田孝ら。明治に活躍する人物がいた。その後、白金に明治学院が開校すると、初代の総理に就任している。
ちなみに、ヘボンは、J.C.Hepburnと書くことから、ヘップバーン、そう、女優のオードリー・ヘップバーンAudrey Hepburn と同じスペルなのである。実際の発音は「ヘボン」に近いようである。
J.C.ヘボン |
(2)G.F.フルベッキ(1830-1898)
オランダ出身で、アメリカに移民し、日本にはキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣され、1859年、長崎に到着した。長崎では済美館の英語教師をつとめ、1866(慶応2)年には長崎に設けられた佐賀藩の致遠館で、大隈重信や副島種臣ら多くの俊英を育成した。さらに、1869(明治2)年上京して開成学校の設立を助け、のち大学南校(東京大学の前身)の教頭となった。
当時、英語を学ぶことが急がれたが、それまでのオランダ語(蘭語)と英語の両方に通じるフルベッキに期待がかけられたという。1886年には、明治学院の理事となり、翌年には教授となっている。
フルベッキが東京に移った時、神田一ツ橋の外国人宿舎のフルベッキ邸には、高橋是清が住みこみ、フルベッキの世話をしている。 高橋は終生、フルベッキを師と仰ぎ、1936(昭和11)年に二・二六事件が起き軍青年将校の凶弾に斃れたとき、彼の机にはフルベッキから贈られた聖書が置かれていたという。
フルベッキの功績は、政治、外交、法律、経済、教育などあらゆる方面に及ぶが、中でも最大の功績ともいえるのが、明治政府の最重要課題である岩倉使節団派遣(1871-73)の計画書を「Brief Sketch 」として進言したことである。その中には、明治政府が取り組もうとする不平等条約の改正に重点を置くのではなく、欧米社会の実態を学び、その良いところを日本に取り入れ国内を整備し、列強から認められるようになった時、条約改正も実現できることを強調した。その一つに「宗教の寛容」が説かれ、切支丹禁教の高札の撤廃が盛り込まれていた。
また、久米邦武がまとめた『欧米回覧実記』にも、その著述の仕方について、フルベッキは宣教師たちが未知の国に行く際にいかにして現地の情報を的確につかむかというマニュアルを送っているという。
このように、「フルベッキがいなければ日本の近代化はあり得なかった」とまでいわれている。
なお、「フルベッキの写真」というものがあり、西郷、伊藤、大久保、大隈ら、明治維新の志士たちが写っているとの誤情報も出回るなど、怪しげな写真として知られる。
(参考):
『フルベッキ伝』井上篤夫 国書刊行会 2022年
す |
巣鴨で見かけた「フルベッキの写真」 |
(3)林薫(はやし ただす 1850-1913)
芳賀徹は『外交官の文章』において、林董の章を次のように書き始めている。「外交官林董の名は、いまどの程度人々の記憶に残っているのだろうか。」それほどに林董の名は知られていない。もちろん、教科書にも出てこない。林の外交官としての功績の最大のものは「日英同盟締結」であろう。
林董は、佐藤泰然を父として、1850年、千葉の佐倉に生まれる。父泰然は江戸で蘭学を学び、佐倉の堀田正睦に仕え、「順天堂」という病院兼医学塾を開設した。これが日本最初の私立病院といわれる順天堂病院となった。林は、一番上の姉が蘭医林洞海の妻となり、夫妻の養子となった。董は、父母の導きのもと、横浜に移住すると、これからは英語の時代ということで、ジョセフ・ヒコ、ヘボン夫人から英語を学んだ。その英語力が評価され、1866(慶應2)年には幕府派遣の英国留学生に選ばれた。明治になると、陸奥宗光の引き立てを受け、岩倉使節団派遣の一員となる。使節団の中で、22、3歳の林はおそらく一番の英語の使い手であったといわれる。
秦氏の外交官としての経歴を見ると、日清戦争直後の駐神国公使、その後、駐露公使、駐英公使は、日露戦争を挟んで6年間務める。さらに西園寺内閣の外務大臣などを務めた、帝国主義諸国の角逐が最も激しかった時期の日本外交の現場第一線に立ち続けた人ともいわれる。
(参考):
『外交官の文章』芳賀徹 筑摩書房 2020年
(4)小川一眞(1860-1929)
小川一眞は、写真師であり、写真製版を日本で初めて実用化し、明治期に「写真」がメディアとして確立するのに大きく貢献した。
行田に生まれた一眞は、上京して明治学院の前身である築地大学校で学び、渡米してボストンのハスティング写真館で、最新鋭の写真技術を学んだ。帰国後、東京飯田町に写真館を開業し、1888年には日本最初のコロタイプ写真製版を開始した。
また、小川は写真師として、1888(明治21)年に九鬼隆一による宮内省、内務省、文部省が共同で実施した近畿地方の文化財調査に、岡倉天心やアーネスト・フェノロサらとともに参加し、奈良の古寺の仏像などの文化財の調査撮影を行った。
このほか日露戦争の報道に関わる印刷、伊藤博文の国葬、明治天皇の大喪の礼の撮影といった歴史的な記録に携わり、写真を近代メディアとして確立させた。1910(明治43)年には写真および印刷における功績を認められ、写真師として初めて帝室技芸員に任命された。
よく知られる小川の写真としては、旧千円札にも使われた夏目漱石の肖像写真がある。
夏目漱石の肖像写真(ウィキペディアより) |
(5)E.O.ライシャワー(1910-1990)
ライシャワーと言えば、駐日アメリカ大使であるが、それと明治学院との関わりは?実は、ライシャワーは、明治学院の宣教師館で生まれ、少年時代を過ごしたのである。父・A.K.ライシャワーは、米国長老派の宣教師として1905年に来日し、明治学院の教授を務め、東京女子大学の教育にも尽力した。子であるE.O.ライシャワーは父の明治学院在任中、構内にあった宣教師館で誕生し、長じて、1961~1967年、駐日アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。
明治学院に住んでいた宣教師館は、1964年に白金台の高等学校建設時に取り壊され、現在は明治学院・東村山キャンパスに「ライシャワー記念館」として復元(ただしかなり変更)されている。
(参考):
「明治学院の歴史と思いを訪ねて」明治学院歴史資料館編集 2019年
「明治学院文化財 ガイドブック」明治学院編 2017年
明治学院の学園祭に行き、その歴史的建造物を内部も含め見ることが出来ました。こうした歴史的建造物を保存していく努力も大変なものだと思います。
その際に頂いたパンフレットを参考に、明治学院に関わる歴史的人物にも興味を持ちました。明治維新を境に英語を学び、海外に学び、日本の近代化をけん引してきた人々、それを支えた外国人宣教師など、今まで、ほとんど知らなかったことがらも、知ることができ、また「東京異空間」に加えることができました。
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