早稲田大学のホームカミングデイ(10月22日)に行ってきました。さすがに賑やかなイベントになっていました。キャンパス内の建物として、大隈講堂のほかに、会津八一記念博物館、演劇博物館、村上春樹ライブラリーなどを観て来ました。
(参照:「東京異空間134:大名庭園を歩く11~大隈庭園」2023/07/09、「東京異空間39~早稲田大学キャンパス」2021/11/06)
1.大隈重信像
正門を入って上がると、早稲田のシンボルといえる大隈重信像が立っている。この大隈像は、1932年に大学創設50周年と大隈没後10回忌を兼ねて、朝倉文夫によって製作された。ガウン姿だが、右足は義足なので、杖をついている。明治22年、大隈は、玄洋社の一員、来島恒喜の爆弾による襲撃を受け右足を失った。 右足の手術は、執刀医のひとりであったドイツ人医師ベルツがその様子を日記に書き残している(ベルツについては、「東京異空間159:東大・本郷キャンパスⅥ~学知の空間」2023/11/29参照)。
右足を失ったにもかかわらず、大隈は「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」 と語り、その場で自害した来島の法要に毎年、代理人を必ず送っていたという。
もうひとつ、大隈重信の銅像が歴史館に置かれていた。こちらは、1907(明治40)年に、小倉惣次郎によって製作された。大礼服を着用した姿である。大礼服というのは、明治から終戦まで宮中の儀式で着用した最高の礼服であった。この1907年は、それまで大学と距離を置き、開校式にも出席しなかった大隈重信が、初めて大学の要職(総長)に就任した年でもあり、早稲田大学にとって新時代の幕開けでもあった。現在、この像は大隈講堂の北側回廊に設置されている。なお、 歴史館には石膏による同型が置かれている。
小倉惣次郎(1845-1913)は、上総の農家の生まれ、明治維新後に工部美術学校に入り、お雇い外国人、イタリア人のラグーザに西洋彫刻を学び、明治天皇像など、歴史的人物を多く制作した。ラグーザは15年間同校にあって,その門下からは大熊氏広(1856‐1934),藤田文蔵(1861‐1934),小倉惣次郎(1843‐1913),佐野昭(1866-1955)らが育った。また、小倉の門下からは、新海竹次郎、北村四海らを輩出した。新海は東大・本郷にあるジョサイア・コンドル像を制作している(参照:「東京異空間159:東大・本郷キャンパスⅥ~学知の空間」2023/11/29)。
大礼服姿の大隈重信像 |
2.大隈講堂
大隈重信像が見つめているのは、早稲田キャンパスのシンボルともいえる大隈講堂である。設計は、早稲田大学建築科の創設に携わった佐藤功一をはじめとする建築学科の教員(内藤多仲、佐藤武夫)で、1927年に竣工した。建設に当たっては御下賜金のほか、渋沢栄一など多くの関係者から寄付金を受けた。上に載る時計塔は、大隈重信が提唱した「人生125歳説」にちなみ、125尺(約37.8m)の高さになっているという。
4.會津八一記念博物館・富岡コレクション
大隈重信像の近くに會津八一記念博物館がある。
會津八一(1881年8月1日生まれ‐1956))は実物を重視する方針を掲げ、学生を引率して奈良への実習旅行を行った一方で、教育・研究のために古美術品の購入・蒐集も始めたが、これが後の會津コレクションの土台となった 。會津は大正末期に博物館設立を提言したが、当時その夢は叶わず、それからおよそ70年後の1998年、會津が新築の図書館と同じくらいの大きさといった今井兼次設計の旧図書館(二号館)を再生して開館した。
なお、今井兼次(1895-1987)は、早稲田大学建築科を卒業後、長く母校の教授を務めた。後述する演劇博物館も設計している。
會津八一記念博物館には、横山大観と下村観山による合作「明暗」が階段のところに飾られている。これは、関東大震災後の1925(大正14)年に2号館が図書館として建設された際、当時の総長・高田早苗が、この大作の揮毫を大観・観山に依頼したものである。
博物館には、會津八一コレクションをはじめ、1998年の博物館の開館以降も多くのコレクションの寄贈を受け、収蔵品は5万件にものぼるという。そのなかのひとつに、富岡重憲コレクションがあり、白隠をはじめとする禅画を観ることができる。なお、富岡重憲コレクションは、日本重化学工業株式会社の初代社長富岡重憲(1896-1979)が蒐集した作品を基本として設立された富岡美術館のコレクションが寄贈されたもの。
大観・観山「明暗」 執金剛神立像・岡崎雪聲作 執金剛神立像・岡崎雪聲作
彳(たたず)む女・木内五郎作 |
會津八一記念博物館 會津八一記念博物館 富岡重憲像 蛤蜊観音図・白隠
5.演劇博物館
演劇博物館は、坪内逍遙(1859-1935)が古稀の齢(70歳)に達したのと、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して設立された 1928(昭和3)年。 演劇博物館は坪内逍遙の発案で、エリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場を模して今井兼次らにより設計された。正面の張り出しが舞台、入り口はその左右、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席、建物前の広場は一般席にそれぞれ見立てており、建物そのものが一つの演劇資料となっているという。
坪内逍遙像 演劇博物館 演劇博物館 演劇博物館 演劇博物館 演劇博物館・手前は村上春樹ライブラリー
6.村上春樹ライブラリー
演劇博物館の横に現代的な装いをこらした建物がある。ここは、「村上春樹ライブラリー」と通称に示されるように、刊行された村上春樹作品を所蔵している。建物は、4号館をリニューアルしたもので、設計はやはり隈研吾。4号館に、木を組んだデザインを施し、村上春樹の文学にしばしば登場する「トンネル」を建築空間へと翻訳をしたという。
村上春樹ライブラリー 村上春樹ライブラリー 村上春樹ライブラリー 村上春樹ライブラリー 村上春樹ライブラリー 村上春樹ライブラリー 村上春樹ライブラリー 村上春樹ライブラリー
早稲田大学のキャンパスは、ホームカミングデイということで賑やかでしたが、白隠の禅画、演劇館、村上春樹ライブラリーなどを見ることができました。また、大隈講堂の中に入ることもでき、クラシックな講堂で、演奏会が開かれていて、キャンパス全体がいわば文化の発信地でもありました。
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