2024年1月28日日曜日

東京異空間174:「新版画の沁みる風景」展@川崎浮世絵ギャラリー

 

「新版画の沁みる風景」

JR川崎駅に直結したビルの中にある川崎浮世絵ギャラリーに行ってきました。この美術館は、長年にわたり浮世絵を収集してきた斎藤文夫のコレクション4000点以上を、川崎市が無償貸与を受け、2019年に開館しています。

この展覧会では、大正初期より制作された新版画の風景画を中心に展示されています。(会期は2/4まで)

1.新版画

新版画は、大正期に版元の渡邊庄三郎と画家、彫師、摺師の協業で制作された木版画で、特に川瀬巴水の作品がよく知られている。今回の展示でも巴水の作品を中心に、高橋松亭、小原古邨、伊東深水、名取春仙、橋口五葉、吉田博、笠松紫浪、土屋光逸、外国人作家のチャールス・ウイリアム・パートレット、エリザベス・キース、ノエル・ヌエットなどの作家の多彩な作品が並ぶ。

これらの展示作品は撮影不可なので、廊下に展示されたポスターなどの作品を写真に収めた。

川崎浮世絵ギャラリー

2.新版画の風景

(1)「馬込の月」 川瀬巴水

この一帯は江戸時代までは郊外の農村地帯だったが、明治9年(1876)に大森駅が開通したことから、別荘地としての開発が進み、多くの文士、芸術家が移り住み、「馬込文士村」とも呼ばれていた。 煌々と輝く満月を背景に、三本の松が美しいシルエットを形作っている。農家の窓からもれる灯りが、夜の帳が下りた田園風景に、人の温もりを添えている。

「馬込の月」

(2)「東京二十景 矢口」川瀬巴水

『東京二十景』のなかで、矢口の渡し場付近(大田区の多摩川の渡し)を描いた作品で、川岸で手入れされているのは砂利採掘用の船。作品が描かれた昭和初期には採掘地点はすでに上流へと広がっており、手前の池は砂利取り跡。

「東京二十景 矢口」

(3)「上野清水堂の雪」川瀬巴水

上野寛永寺の清水堂の雪景色。巴水はこうした雪景色を得意とし、多くの作品を制作している。とくによく知られているのは「芝の増上寺」の雪景色である。

「上野清水堂の雪」

(4)「元箱根見南山荘 つつじ庭より富士山を見る」川瀬巴水

見南山荘は明治441911)年に三菱財閥の岩﨑彌太郎の甥である岩﨑小彌太が箱根に建てた別邸。作中に描かれている庭園には3000株のツツジや300株のシャクナゲが植えられた。(現在は「山のホテル」となっている。)

また、巴水は大正期にも岩﨑家から依頼を受けて岩﨑家別邸と庭園を描いた「三菱深川別邸の図」を制作している。

「元箱根見南山荘 つつじ庭より富士山を見る」

(5)「鈴川」吉田博

「鈴川」は、静岡県富士市吉原を流れる川で、水面に雪をかぶった富士山が、凛とした姿で映っている。中景の松木立によって遠近感がよく表され、明暗の表現により松木立や家屋にも立体感がある。

吉田博(1876-1950)は、久留米に生まれ、福岡の修猷館 を卒業、その後、渡米し日本画家の水彩画展などを開いた。1920年、新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い 新版画を制作する。山の自然や詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍し、特に欧米での知名度が高かった。

「鈴川」


3.江戸の浮世絵

江戸時代の伝統的な浮世絵、よく知られている作品が廊下に展示されていた。


(1)「名所江戸百景 深川須崎十万坪」 歌川広重

「名所江戸百景 深川須崎十万坪」

(2)「玉兎 孫悟空」月岡芳年

「玉兎 孫悟空」

(3)「人かたまって人になる」歌川国芳

「人かたまって人になる」

(4)「山海愛度圖會」歌川国芳

「山海愛度圖會」

(5)「東海道五十三次之内 庄野白雨」 歌川広重

「東海道五十三次之内 庄野白雨」

先に楊洲周延の版画を観て来ましたが、楊洲は月岡芳年らとともに「最後の浮世絵師」と呼ばれます。江戸時代に花開いた浮世絵も、明治の後半になると、写真、石版画、など印刷技術の向上とともに多様なメディアが出てきて衰退していきます。大正期になると、浮世絵伝統的な木版画の技法で絵師、彫師、摺師の三者が一体となって新風を目指していった新版画が登場しました。

新版画を代表する川瀬巴水は、全国を旅し、その詩情あふれる風景を多く描きました。こうした作品を観ると、どこか懐かしい感じがします。また、この展覧会で巴水のほかにも多くの作品を観ることができ、より新版画に対する興味が深まりました。

(参照):「東京異空間170:楊洲周延~文明開化を描いた浮世絵師 2024/01/10


2024年1月25日木曜日

東京異空間173:インド細密画@東京国立博物館・東洋館

 

水甕を頭に載せる女とそれに手を差し出す女

先に「うるおうアジア」展をまとめましたが、昨年11月末に東京国立博物館に行った際に、東洋館でインド細密画を観て来ました。

インド細密画は、インド神話などに基づいているものが多く、内容までなかなか理解することはできませんが、その小さい絵の中に細密な筆で、人物、動物、建物などが美しい色彩で描かれていますので、見ているだけでもひき込まれていきます。

東洋館に展示されていた作品の写真とともに、タイトルを掲げておきます。

(参照):

「東京異空間151:芸術の秋にⅥ~インド細密画@府中市美術館2023/10/18


《ヴリンダーヴァンに移動する牧童たち 19世紀



《気を失うダシャラタ王と覚しき人物 18世紀後半



《宮廷で客を迎える支配者 19世紀初




《狩りを楽しむ王子 18世紀



《花壇でシーターに会うラーマ 19世紀前半



《ランタンボール城を出て戦いに向かうハンミーラ 18世紀末



《水甕を頭に載せる女とそれに手を差し出す女 18世紀中頃



《ハヌマーンのラーマへの会見 17世紀前半




《クンティーとの対話 16世紀中ごろ




《話し合うユディシュティラとビーシュマ 1601




《マハーヴィーラを産むトリシュラ女王 15世紀末~16世紀初



《樹下のライラとマジュヌーン 18世紀中頃




《宮殿内の王子と3人の侍者 19世紀前半




東京異空間172:「うるおうアジア」展@はけの森美術館

 

「うるおうアジア」展@はけの森美術館

「うるおうアジア」展という、中国、インド、バングラデシュ、ベトナムなど東南アジアの19-20世紀の絵画の展覧会を観て来ました(会期は1/28まで)。これまで、インド細密画は観たことがありますが、こうしてまとまった近代アジアの絵画は観たことがありません。また、「はけの森美術館」という美術館が小金井市にあることも知りませんでした。そうした興味もあり、出かけてきました。

展示作品は、撮影可でしたので、展覧会の構成に従って、見ていくことにします。

(参照):

「東京異空間151:芸術の秋にⅥ~インド細密画@府中市美術館2023/10/18

1.洋風表現の登場

日本の江戸期から明治にかけて、遠近法や陰影法など西洋画法がもたらしたインパクトは大きいものがあったが、それと同様、中国、インドなどアジアの国々おいても19-20世紀にかけ、西洋絵画のインパクトは強いものがあった。

(1)チャイナ・トレードペインティング

西洋との交易が進むにつれ、輸出品や観光客の土産として中国のローカルな風景、風俗が描かれた作品が作られた。また描き方も、全体は西洋絵画の遠近法によって構成されているが、岩や樹木は中国の伝統的な描法で描かれ、奇妙な空間を作り出している。

広東の商館 1805年頃/中国

広東の商館 1850年頃/中国

貴婦人像 19世紀/中国

貴婦人像 19世紀/中国

中国人家族のいる雪景色 1810年頃/中国

(2)カンパニー絵画

18世紀から19世紀にかけて、インドでイギリス人が築いた拠点を中心に、伝統的な細密画の技法を受け継いだインド人絵師たちが、西洋絵画の技法や素材をとりいれつつ、インドの風俗や人々を主題に描いた

高貴な男性と楽団 1810年頃/インド

アサフ・ウッダウラの肖像 19世紀前半/インド

(3)カーリーガート絵画

19世紀のインドのベンガルの村には、ヒンドゥーの神々やイスラームの聖者、神話などを描いた縦長の絵巻物(ポト)を手に絵語りをするポトゥアと呼ばれる絵師が活躍していた。英領インドの首府コルカタ(旧名カルカッタ)が経済や文化の中心として繁栄するにつれ、活躍の機会を求めた絵師たちがコルカタのカーリーガート寺院(1809年創建)周辺に集まるようになり、当初は寺院の参拝客向けに宗教画を描いた。

さらに絵師たちは、植民地化とともに導入された西洋の遠近法や陰影法を伝統的なポトに取り入れ独自の様式を生み出した。素朴な民衆絵画としてイギリス人たちの本国への土産物にもなった。

ラクシュミーとサラスヴァティー 19世紀後半/インド

夫をたたく妻 20世紀初頭/インド

髪を梳く女性 1920年頃/インド


2.民衆に愛されるアート

いわゆる「近代絵画」という枠組みをとび超えて、人々の暮らしにむすびついたアートが展示されている。

(1)ヴァルマープリント

イギリスによるインドでの植民地支配が本格化した19世紀後半は、政治経済のみならず、文化芸術面でのいわゆる近代化が推し進められた。

ラージャー・ラヴィ・ヴァルマーはこの時代に活躍したインド近代美術のパイオニアで、インドの様々な神話や伝説、肖像画、エキゾチックな女性像などを、西洋絵画の写実的な様式で描き出し、イギリス人主導の美術界やインド各地の宮廷で名声を博した。

また1892年にはドイツ人技師の協力を得てムンバイにラヴィ・ヴァルマー印刷所を設立し、藩王のために描いた彩画などをオレオグラフ (リトグラフの一種)として大量に印刷したため、特権階級だけでなく、一般大衆からも高い人気を集めた。

ハンサとダマヤンティー 20世紀前半/インド/ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー


ヴィシュヌ 20世紀前半/インド

ヴィシュヌ 20世紀前半/インド

ヴィシュヌ 20世紀前半/インド/ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー

聖なる子(ムルガン) 20世紀前半/インド

聖なる子(ムルガン) 20世紀前半/インド

クリシュナとブラフマー 20世紀前半/インド

クリシュナとゴービーたち 20世紀前半/インド

(2)月份牌広告

「月份牌(ユェフェンパイ)」という言葉の意味は、「暦を表示する札」、つまりカレンダーのこと。 20世紀初期の代表的な大衆美術、商業美術として流行したカレンダー付きのポスターである。清末から中華民国期に資本主義が浸透すると、外資系企業を中心に会社や工場が自社商品やサービスの宣伝のため、「年画」の形式に宣伝とカレンダーの機能を加えて実用的な贈答品として製作、顧客へ贈った。また海運業と貿易業の発展に伴い、外国船舶の出入りが多くなり、その正確な日程表が必要とされ、 中華暦と西暦の両方を掲載することが多かった カレンダー付とそうでないものがある。

中国では、新年に吉祥図様の木版画である「年画」を家々に貼って一年の幸福を願う慣習があり、月份牌広告画でも伝統的な木版年画に見られる画題を使って描かれていることが多かった。

永泰和たばこ会社ポスター 1932/中国/ニー・ゴンイエ

いろいろな月份牌広告

愛禮司洋行ポスター 1925/中国/ハン・ジーイン

酔眠芍薬図 192030年代/中国/ハン・ジーイン

大英那頓火災生命保険会社ポスター 1913/中国

啓東たばこ株式会社ポスター 1938/中国/ニー・ゴンイエ

啓東たばこ株式会社ポスター 1938/中国/ニー・ゴンイエ

広生行ポスター 1920-30年代/中国/ハン・ジーイン

スイス汽巴化学工場ポスター 1924/中国/ジョン・マントゥス

ローラースケートをする二人の女性 192030年代/中国/ジン・メイション

ローラースケートをする二人の女性 192030年代/中国/ジン・メイション

アメリカ永備電灯電池工場ポスター/1934年/中国/ニー・ゴンイエ

ローラースケートをする女性 192030年代/中国/ハン・ジーイン

釣り(ポスター) 1958/中国/リー・ムーバイ

農村の新しい眺め 1951/中国/ジン・リーリアン

(3)リキシャ・ペインティング

今もバングラデシュでは庶民の移動手段としてリキシャが利用されている。リキシャの名前は日本の人力車から来ている。人力車はリキシャとして南・東南アジアの多くの都市に輸出され各地域に見合った形へと姿を変えた。リキシャは注文主の求めに応じ、民族的な風習や宗教的神話、人気映画の一場面、映画スター、憧れの風景などを色鮮やかに描いたプレートなどを飾り付け、華やかなものにした。

日本の人力車の歴史は、和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助といった人が発明し、1870年に製造・販売が許可され、1875年には日本全土で11万台もの登録数となった。このころから輸出もされるが、1896年をピークに徐々に減っていく。1903年に東京で路面電車が開業すると、人力車は急速に減り、大正期には、その姿はほとんど見られなくなった。ただ、最近では浅草、京都などの観光地で復活し観光客の足となっている。

リキシャ 1994/バングラデシュ/ラジ・クマール・ダス

リキシャ

リキシャ

リキシャ

リキシャ

リキシャ

孔雀の頂飾り/1994年/バングラデシュ/サイード・アハメッド・ホセイン

襲撃(人間の服を着た動物たち)/日本の新幹線/アラジンと魔神/へび使い/百獣の王ライオン

日本の新幹線

三つの頭を持つ怪獣/リキシャの工房/川ぞいの村の風景/蝶の羽を持つ馬/にんじんをかじるうさぎ

蝶の羽を持つ馬/1994年/バングラデシュ/サイード・アハメッド・ホセイン

3.「近代美術」と呼ばれるもの

西洋近代絵画の影響のもとに描かれた作品が並ぶ。なかでも20世紀半ば頃まで、他国の支配に置かれた国々の作家たちの作品で、西洋絵画の影響を受けたとはいえ、所属するコミュニティ、その文脈と切り離せないものとなっている。そのなかには日本で生まれた画家の作品もある。

(1)モリ・キンセン(森錦泉1888-1959

森錦泉は、横浜市金沢八景に生まれ1910年代にフランスに渡航中、第一次世界大戦の戦火のためフランス行きをあきらめ、インドネシアのジャワ島に渡り、写真館を構え定住した。そこで写真館の傍ら風景を描き続けた。戦後は日本に強制送還されたが、再びインドネシアに渡り、同地で亡くなっため、日本の美術史に足跡を残すことはなかった。

インドネシア(当時はオランダ領東 インド)美術界にあっては、東インドの熱帯風景を、甘い感傷を込めて穏やかに、かつエ キゾチックに、理想化して描く絵画が人気を博していた。こうした一群の絵画を「ムーイ・インディ(麗しの東インド)」と呼んで、魂のこもっていないうわべだけのものであり、西洋人観光客におもねった絵画であると、厳しい批判の対象となった。 しかしながら、この絵には現地において一生涯、風景を描き続けた画家の深い観察や実感が込められているようだ。

「スンピン山の眺め」モリ・キンセン(森錦泉)/インドネシア/1930年代

(2)リウ・ロンフォン(劉栄楓1892-1945

リウ・ロンフォン(劉栄楓)は、神奈川に生まれる。父親は日本に帰化し、陸軍大学校、陸軍経理学校で教授を務めた。リウは独学で洋画を学び、文展、大正博覧会、満州国展に出品した。

満州の広大な土地での収穫作業を描くこの絵は、ミレーの「落穂拾い」をトレースしているようだ。背景には虹が描かれているが、虹は希望を表し、満州は希望の大地というメッセージが込められているという。

「満州の収穫」リウ・ロンフォン(劉栄楓)/中国・日本/1930

(3)
西洋近代絵画の影響のもとに描かれた作品

「読書する若い娘」ルオン・ジュアン・ニー/ベトナム/1940

「音楽のリズム」キエン・イムスイリ/タイ/1949

「昔を思う」ライン・シン・バンデル/ネパール/1954-59

「女性」カムルル・ハサン/バングラデシュ/1972

「小鹿」ジャミニ・ロイ/インド/1940年頃

「天気予報士」ブーベン・カッカル/インド/1979

(参考):

図録『うるおうアジアー近代アジア芸術、その多様性ー』 2023

4.福岡アジア美術館

この展覧会の作品は、福岡アジア美術館のコレクションの一部である。福岡アジア美術館は、福岡市、古代からアジア文化の受容窓口であったという地理的、歴史的な特質をふまえて、そのアジアとの交流への取り組みのひとつとして、 1999年に開館した。福岡市立美術館のアジア近・現代美術コレクションを引き継ぎ、 アジア各国の近現代を中心とした絵画等を系統的に収集、保管、展示を行っているという点では世界唯一の美術館とされる。

最近のニュースでは、所蔵する近現代美術作品の価格が高騰し、購入時の800倍の16億円に達した作品もあるという。しかしながら、展示場所の不足で公開できる機会が限られ、また好が別れるアジア美術という分野だけに来館数は伸び悩んでいるようだ。そうしたことから、日本各地の市町村立美術館との共同巡回展を企画しており、この「うるおうアジア」展もそのひとつである。

今回の展覧会でも見ることができるように、リキシャやポスターなどの民衆絵画、いわゆる近代絵画の枠を超えたコレクションが貴重である。

5.はけの森美術館

はけの森美術館は、財団法人中村研一記念美術館の寄贈を受け、2006(平成18年に開館した。はけの森美術館の所蔵する作品は、主に中村研一の作品からなり、所蔵作品展のほか、美術館の企画による特別展を年間12回開催している。

はけの森美術館

(1)中村研一(1895-1967

中村研一は、現・福岡県宗像市に生まれる。修猷館に入学し、児島善三郎らと絵画同好会をつくる。修猷館を卒業し、美術学校を目指すも父親の許しが出ず、受験準備の名目で京都に出て鹿子木孟郎のもとで絵画を学ぶ。画家志望に反対する父を鹿子木に説得してもらい、 1915年、東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助の教室で学ぶ。 その後、フランスに留学し、6年間滞仏し、帰国後、帝展、日展などに出品するなど近代洋画壇の重鎮として活躍した。 戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作している。中村が描いたと確認できる戦争画は17点で、これは藤田嗣治の19点には及ばないもののトップクラスの点数であり、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われている。

戦後は、代々木初台にあった自宅とアトリエを戦災により焼失し、1945(昭和20)年、小金井に移り住み、1967(昭和42)年に72歳で亡くなるまで、終生この地で制作をつづけた。1989(平成元)年、中村の作品を死後も守り続けてきた妻の富子が、それらを長く後世へ伝えたいと、「中村研一記念美術館」を独力で開館し、後に小金井市へ寄贈され、改修などを経て、 2006(平成18年に「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」として開館した 。

中村研一像

「北京官話」中村研一 1940年

「兵士」中村研一 1941年

(2)はけの小路

小金井市を南北に走る国分寺崖線は、通称「はけ」と呼ばれる。旧中村邸の竹林の下から地下水が湧き出していて、小さな水路を経て野川に流れ込んでいる。その小さな水路に沿って「はけの小路」という遊歩道が設けられている。

このあたり一帯は、古くは大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の舞台となったと伝えられており、旧邸宅の入り口には、その看板が設けられている。

はけの小路

旧中村邸の竹林

旧中村邸の湧水

「武蔵野夫人」の舞台

はけの森美術館という小さな美術館で開かれた、近代アジアのアート、とりわけリキシャなどの民衆のアートといったマイナーな分野の展覧会を観て、これまで、国立美術館など大きな美術館で観ることが多かった西洋絵画、あるいは日本絵画だけでなく、こうしたアジアの美術をもっと観、知ることが必要だと気づかされました。それが、また西洋美術、日本美術を深く観ることにも通じていくようにも思いました。

帰りの駅前のイルミネーションを見ながら。





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