楊洲周延展・町田国際版画美術館 |
楊洲周延という浮世絵師は、ほとんど知られていないのではないでしょうか。しかし、その鮮やかな赤を基調とした浮世絵(錦絵)は、明治の文明開化を描いた作品として、本の挿絵など、どこかで見たことがあるのではないでしょうか。
そんな楊洲周延の展覧会が町田国際版画美術館で開かれていた(2023.12.10まで)ので観に行ってきました。
1.楊洲周延~最後の浮世絵師
楊洲周延(ようしゅうちかのぶ 1838-1912)は、越後高田藩(現・上越市)の藩士として生まれた。若き頃に国芳、豊国、国周に絵を学ぶ。しかし、高田藩士として、長州征討(1866年)、上野戦争(1868年)、箱館戦争(1868-9年)などに参加し、戊申戦争終結後に降伏し、謹慎となる。その後、刀を絵筆に持ち替えて、新たな人生(武士から絵師へ)を切り開いていった。周延が30代前半のころであった。
当初は、武者絵や西南戦争の錦絵などを描くが、明治の文明開化にともない、浮世絵(錦絵)は、新たに建てられた洋風建物や女性の洋装姿などを描いたいわゆる開化絵を描く。当時の浮世絵は、江戸時代の浮世絵とは異なり、舶来の安いアニリン系の赤色を多用していて、鮮やかであるが、毒々しい色彩が特徴である。
また、この時期に行幸や行啓のあった天皇、皇后、皇族なども、作品の対象となった。しかし、1882(明治15)年には、明治天皇、その家族を錦絵化することは禁止された。楊洲周延は、題材に江戸・徳川の大奥の女性たちを描き、代表作ともなる「千代田之大奥」シリーズ(1895明治28)年のような源氏絵といわれる宮廷絵を描いた。「千代田之大奥」は、江戸時代大奥の年中行事や奥女中達の生活を描いた揃物で、全40点を数える。
こうした絵は江戸時代には描くことが禁止されていた画題であり、庶民達の好奇心を集めた。 徳川時代の終焉から20年あまりが経ち、もはや江戸は全くの過去へと変わった。最後まで幕府のために戦った楊洲周延にとって、そうした失われた時代を描くことはライフワークとなった。
さらに1897~1898年(明治30~31年)にかけて、大判36枚からなる「真美人」と題した半身像の揃物を発行 する。こうした美人画は、江戸時代の浮世絵では鈴木春信、喜多川歌麿などにより描かれ、一世を風靡したが、楊洲周延は、この伝統を引き継ぐとともに、明治の文明開化による女性たちのファッション、新たな女性の職業なども積極的に取り入れ「真=新美人」を描いている。
しかしながら、この時代には、銅版画、石版画などの印刷技術の発展と、さらには西洋からあらたに写真技術が入ってきたことにより、江戸から続く浮世絵はしだいに衰退することになる。
展示作品の最後は、「流鏑馬之図」で、勇壮な武士の姿を金貼りの二曲一隻の屏風に描く。文明開化の女性たち、江戸・大奥の女性たち、新たな美人画など、多くの女性を描いた周延だが、最後まで江戸の武士の精神を持って描き続けたのではないだろうか。
武者絵、戦争絵、新聞錦絵、開化絵、宮廷絵、美人画などあらゆるジャンルの浮世絵を描いた楊洲周延は、最後の浮世絵師といわれる一人となってしまった。なお、楊洲周延と同じように、幕臣として長州征討、鳥羽伏見の戦い、上野戦争などに参加した小林清親(1847-1915)がいる。清親は、光線画とよばれる明治時代の街の風景などを描いたことで知られ、やはり、最後の浮世絵師といわれる一人である。
2.作品
展示作品のうち何点かは撮影可であったので、これらの楊洲周延の作品をみてみる。
(1)今様けんし 宮しま船中遊 (制作年:明治2年、作品番号20)
豊原国周との共作による源氏絵。鮮やかな赤が基調となっており、この後の周延の作風となる。
今様けんし 宮しま船中遊 |
(2)鹿児島新聞 太明神岡武山大戦争 (明治10年、26)
明治10(1887)年の西南戦争に取材した錦絵。本図は桐野利秋率いる薩摩軍と野津少将率いる政府軍との衝突を描く。上部の詞書に「以上新聞が抜く」とあるように情報源は新聞により、こうした戦争錦絵をつくりあげた。
太明神岡武山大戦争 |
(3)吹上御庭釣橋ノ遠景 (明治13年、42)
中央の垂髪の女性は皇后、その周囲に宮中に仕える官女たちを描いた御所絵。背景にある煉瓦造りの吊橋は、皇居内に架けられた「山里の吊橋」で、英国人技師・ウォートルスの設計による日本で最初の鉄製の吊橋であった。
*トーマス・ウォートルス(1842-1898)
1864年頃、グラバーの紹介で香港から鹿児島に渡り、続いて長崎に行き、高島炭鉱の創業に関わる。大阪の造幣寮(局)、銀座煉瓦街の建設に当たるなど、お雇い外国人として日本最初期の西洋建築に関わる。皇居山里の鉄製吊橋は明治5年完成。ウォートルスのあとにコンドル(明治10年来日)が続く。
吹上御庭釣橋ノ遠景 |
吹上御庭釣橋ノ遠景・皇居山里の鉄製吊橋 |
(4)東錦昼夜競 浅茅ケ原 (明治19年、107)
物語や伝説をテーマとした歴史画。上下に昼と夜の場面を描き分けている。「浅茅ケ原」は、老婆が旅人を泊めて、その命を奪い金品を盗み取っていたため娘から諫められていた。ある日、一人の稚児が訪れると、稚児の身代わりとなった娘が殺されてしまう。老婆は後悔の念から身投げしたとも、仏門に入ったともいう。実は、稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であった。周延は、稚児と娘の出会いの場面を描いており、稚児の後ろの糸車が光背のように表わされている。
東錦昼夜競 浅茅ケ原 |
(5)雨過洗庭之図 (明治21年、127)
雨が上がり、空にかかる虹を眺める明治天皇一行。天皇は洋装の軍服、皇后は洋装のドレスである。明治20(1887)年、皇后は洋装を奨励する「思召書」を出し、自ら進んで洋装することで、文明開化(近代化)を促進した。
雨過洗庭之図 |
雨過洗庭之図 |
(6)吾妻はし あつま楼 庭園の春景 (明治22年、134)
画面中央には艶やかなドレスの女性と、洋装の少女が春の庭園を散策。この庭園は、1822年、沼津藩・水野忠成の屋敷地となり、石をふんだんに使った林泉回遊式庭園を築き、浅草寺の五重塔、隅田川の吾妻橋を望むものであった。万延元年(1860)には秋田藩・佐竹家下屋敷となり、名園として一層有名となった。明治23(1890)年からは一般公開され多くの人の憩いの場となった。(その後ビール工場となり、現在の墨田区役所、アサヒビール本社あたり)
吾妻はし あつま楼 庭園の春景 |
吾妻はし あつま楼 庭園の春景 |
吾妻はし あつま楼 庭園の春景 |
(7)欧州管弦楽合奏之図 (明治22年、135)
フルート、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、ピアノの合奏に唱歌する男女。演奏されているのは左上の楽譜が示す「岩間の清水」とされる。当時の音楽家として活躍した女性たちの姿が描かれている。そのひとりとして、日本最初の女子留学生、西洋音楽を大学教育で学んだ最初の日本人であり、日本最初のピアニストでもある瓜生繁子(1861-1928)がいる。彼女は、三井物産の益田孝を実兄にもち、大山捨松、津田梅子らとともに第一回海外女子留学生となっている。
欧州管弦楽合奏之図 |
欧州管弦楽合奏之図 |
欧州管弦楽合奏之図 |
欧州管弦楽合奏之図 |
(8)憲法発布式之図 (明治22年、143)
明治22(1889)年、明治宮殿で大日本帝国憲法の発布式が行われた。明治天皇から内閣総理大臣黒田清隆へと憲法が手渡されるところが描かれている。周りには大臣、各国公使、そして洋装の皇后と官女たちが参列して華々しく執り行われた様子が伝わる。
(なお、展示されていた作品とは多少異なる図版を掲載しておく。)
「憲法発布式之図」(慶應義塾大学メディアセンター より) |
(9)温故東の花 旧失火之際奥方御立退之図(明治22年、151)
江戸城の火災で、激しい火の手が覆うなか、女性たちが火事装束に身煮つけ避難し、大名火消が現場に駆けつけていく。こうした状況の中でも女性たちの活躍を描く。
温故東の花 旧失火之際奥方御立退之図 |
温故東の花 旧失火之際奥方御立退之図 |
温故東の花 旧失火之際奥方御立退之図 |
(10)二十四孝見立画合 二十 張孝 張礼 (明治24年、171)
二十四孝は、中国に古くから伝わる24人の親孝行の逸話で、江戸時代から好まれた主題である。張孝と張礼は、年老いた母親と暮らしていたが、ある凶年、張礼が食物を持ち帰る途中、盗賊に襲われ殺されそうになった。張礼は盗賊に懇願し、母親に食べさせるため帰宅し、再び戻った。これを聞いた弟の張孝も身代わりになるといって現れた。兄弟の孝行心に打たれた盗賊は二人を殺さずに帰ったという。この図では、兄弟に擬して、仲睦まじい姉妹が描かれている。
二十四孝見立画合 二十 張孝 張礼 |
(11)浅草公園遊覧之図 (明治29年、189)
艶やかな着物を着た女性たちが、春の浅草公園に遊ぶ様子が描かれている。フリンジの付いた日傘といった目新しいアイテムを持ち、池の緋鯉を眺める。後ろに見えるのは「凌雲閣」(浅草十二階)と言われる日本初のエレベーターの付いた高層ビルで、明治23(1890)年に開業した。設計は英国人技師・ウィリアム.K.バルトン。
この凌雲閣で、芸妓100人を選び、その百美人の写真により投票して上位に賞金を与えるイベントが行われた。旦那衆は贔屓の芸妓のため投票に熱が入り、あたかも帝国議会選挙のように盛り上がったという。写真師は小川一眞(1860-1929)、彼は明治学院の前身である築地大学校で英語を学び、米国に渡り写真技術を学ぶなど、写真メディアを発展させた人物である。
(参照)
「東京異空間162:明治学院の歴史的建造物と歴史的人物」(2023/12/7)
『帝国の写真師 小川一眞』岡塚章子 国書刊行会 2022年
浅草公園遊覧之図 |
(12)東京名所 江戸橋郵便局真景 199 楊堂玉英
描かれた江戸橋郵便局は、建築家一期生の片山東熊の設計によるレンガ造りの三階建て建物で、明治25(1892)年に竣工した。片山東熊(1854-1917)は、コンドルの弟子であり、旧東宮御所(現・迎賓館)などを設計したことで知られる。
なお、作者は周延ではなく、 楊堂玉英(1847-?)で、周延と同じ高田藩士の出身で、門人となり、とくに明治20年代に、江戸幕府画題や時事画題を多く手掛けた。
江戸橋郵便局真景 |
江戸橋郵便局真景 |
江戸橋郵便局真景・時計塔 |
江戸橋郵便局真景 |
江戸橋郵便局真景・富士山を望む |
江戸橋郵便局真景・人通りの賑わい |
(13)千代田大奥 御花見 (明治27年、211)
江戸城大奥内の様子を描いた揃物。江戸時代には描くことが許されなかったが、明治20年代になると、江戸時代を回顧する風潮もあらわれ、前時代の様子を描いた書籍が出版され、周延はそれをもとに描いたとされる。春の吹上御苑での花見の様子で、この日は無礼講で満開の桜の下、女中たちが羽目を外して楽しんでいる。
千代田大奥 御花見 |
千代田大奥 御花見 |
千代田大奥 御花見 |
(14)時代かがみ 元和之頃 左甚五郎 (毎時30年、242)
「時代かがみ」は、画面上部にコマ絵を設け、「歴史上の出来事や風俗を描き、下部に、その時代の女性を大首絵で描く。この左甚五郎は、江戸初期の彫刻師であり、名人とされる(伝承だという)。下部には元和期(1615-24)の女性が垂髪で描かれ、髪の生え際、顔に薄い紅色をさすなど、肉筆画の美人画のようなテクニックが施されている。
時代かがみ 元和之頃 左甚五郎 |
時代かがみ 元和之頃 左甚五郎 |
時代かがみ 元和之頃 左甚五郎・上部のコマ絵 |
(15)真美人十四 (明治30年、277)
「真美人」は、全36点の揃物。さまざまな女性を様々なポーズで描き、とくに十四では蝙蝠傘をさし、洋書を持つ女学生が描かれている。左の薬指には、指輪がはめられている。
真美人十四 |
真美人十四・洋書を持つ手に指輪 |
(16)真美人三十一 (明治31年、285)
三十一は、金縁の眼鏡をかけた知的なまなざしの女性教師である。こちらも、左の薬指に指輪をはめている。女性の持つアイテムも、蝙蝠傘、洋書、金縁眼鏡、指輪など文明開化、近代化を表わしている。
先に述べた凌雲閣で開催された小川一眞の写真による「百美人」では、モデルはすべて芸者であったが、周延が描く真美人には、女学生、女教師など、新しい時代に活躍してくる女性たちを「真」美人として、それはすなわち「新」美人をも意味している。
真美人三十一 |
真美人三十一 |
真美人三十一・指輪が光る |
(17)流鏑馬之図 明治43年、330)
総金地に流鏑馬を力強く描いた二曲一隻の屏風である。本作には、「七十三翁 楊洲」という署名があり、周延が、73歳の時の作品である。文明開化の女性たち、美人画を多く描いてきた周延だが、この絵は、晩年まで筆は衰えず、その精神は武士の勇ましさを持ち続けていたことを示しているようだ。
流鏑馬之図 |
(参考)
図録『楊洲周延』 町田市立国際版画美術館 2023年
3.町田国際版画美術館
日本では数少ない版画専門の美術館として、芹ケ谷公園内に、1987(昭和62)年に開館した。町田駅から歩くと15分程度で公園の中を抜けて美術館に着く。
このときは、「楊洲周延」展のほか西洋版画として「腐食の刻」展が同時開催されていて、アンソニー・ヴァン・ダイク「ヤン・ブリューゲル(父)の肖像」、レンブラント「習作・自画像など」、ピラネージ「ネロの墓」などのエッチングが展示されていた。
「楊洲周延」展」と「腐食の刻」展 |
アンソニー・ヴァン・ダイク「ヤン・ブリューゲル(父)の肖像」 |
レンブラント「習作・自画像など」 |
ピラネージ「ネロの墓」 |
また、公園内には、いくつかの彫刻作品が置かれている。
(1)《my sky hole 88-4》井上武吉(1988)
井上武吉(1930-1997)は、1967年に靖国神社の無名戦士のための記念碑「慰霊の泉」を完成させた。その後もパブリックアートとしてステンレスの球体を使った作品が多い。< my sky hole>は、「天をのぞく穴」という意味だそうだ。
芹ケ谷公園 |
《my sky hole 88-4》 |
《my sky hole 88-4》 |
《my sky hole 88-4》 |
(2)《開かれた宇宙》高橋清(1990)
高橋清(1925-1996)は、戦後、海軍兵学校生徒であった彼を彫刻へと向かわせた心情を自ら「生きていることへのとまどい」と共に浮かんできた「人間には生きる自由があると云う全身に漲るような感動と希望」だったと述べている。
井上も、高橋も戦争体験しており、戦後には彫刻家として新たな世界、平和な世界を望んだ作品を制作したのだろう。
《開かれた宇宙》 |
《開かれた宇宙》 |
これまで楊洲周延の作品をまとまってみる機会はありませんでした。明治時代の文明開化を描いた開化絵は、本の挿絵などでも見ることはありましたが、鮮やか(どぎつい)赤を基調とした浮世絵は、ちょっと敬遠していました。しかし、今回の展覧会を観て、江戸・徳川の宮廷絵、文明開化の洋装の女性たち、そして「真=新美人」といわれる新時代の美人画を見ることで、あらためて楊洲周延が「美人画」を中心として活躍した最後の浮世絵師であることがわかりました。
明治時代の浮世絵師として、小林清親の作品は、これまでにも見る機会がありましたが、清親と周延の生まれがほとんど同じで、戊辰戦争などに参加している幕臣であったこと、清親は風景画(光線画)で知られていますが、周延は美人画がライフワークであったことをあらためて知ることが出来ました。
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