2024年1月21日日曜日

東京異空間171:明治神宮外苑はいかにして造られたか

 

明治神宮外苑・イチョウ並木

一年ほど前に、「東京異空間81:明治神宮(内苑)と神宮外苑Ⅰ(2023/03/19)」で明治神宮をとり上げましたが、その最後に「次回は、明治神宮外苑がいかにして造られたのか、その中心である絵画館、そしてオリンピックが行われた競技場などが、なぜ造られたのか、についてみてみることにしたい。」と述べていましたが、これが果たせずにいました。

先に「東京異空間168:明治神宮・宝物殿(2024/01/05)」で、宝物殿を取り上げたことに続いて、ようやく明治神宮外苑についてまとめてみました。

1.明治神宮外苑の建設

現在の明治神宮外苑一帯は、江戸期には大名の屋敷のほか、武家の屋敷や寺院などが集まる地であった。これらの土地は、明治期に入ると屋敷の跡は茶畑などにも利用されていたが、明治中期までに政府が収用し、日比谷練兵場が移転して広大な「青山練兵場」が開設された。明治後期にはこの練兵場の土地を転用し、「日本大博覧会」を1912(明治45)年に開催する会場とする計画が進められたが実現せず、1912(明治45)年、明治天皇が崩御し、「大喪儀」のうちの「葬場殿の儀」が「青山練兵場」で行われた。

明治天皇が1912(明治45)年730日に崩御すると、「東京市会」は、その日のうちに、御陵を東京に造営することを国へ希望する請願を決議。83日に、東京市長・阪谷芳郎(1863-1941、岳父は渋沢栄一)は枢密院議長の山縣有朋に、御陵の件と明治天皇を祀る神社の設置を陳情した。しかし、御陵については、明治天皇の遺言から、86日に京都に造営(のちに「伏見桃山陵」と命名)されることが公示された。そこで、東京市は神社の設置に向けて動き、814日には東京市長や渋沢栄一をはじめとする東京の財界の有力者らが中心となり『明治神宮建設に関する覚書』を作成した。この覚書には、

神宮は「内苑」と「外苑」から成る

内苑は「国費」によって国が、外苑は「献費」によって奉賛会が造営する

内苑の造営場所は「代々木御料地」、外苑の造営場所は「青山練兵場」が最適である

外苑には「記念宮殿・陳列館・林泉」等を建設する

などと記されており、わずか半月で構想された計画ながら、のちに概ね実現となるものであった。これに記されている「代々木御料地」は「日本大博覧会 代々木会場」の予定地、「青山練兵場」は「日本大博覧会 青山会場」の予定地であった。

帝国議会では、1913(大正2)年に「明治神宮」の建設についての建議があった。これに前後して、筑波山付近、富士山付近、箱根離宮付近などを建設地とする請願も出されたが、翌年、正式な社名は「明治神宮」に、「明治神宮(内苑)」が「代々木御料地」、「神宮外苑」が「青山練兵場」に建設されることが決定した。

そして、渋沢らの「覚書」に書かれた構想を具体化していくために、多くの専門家が集められた。なかでも、建築家・伊東忠太、佐野利器、林学・本多静六、上原敬二などにより内苑・外苑の計画設計、建築の設計等が進められた。

明治神宮(内苑)については、1915(大正4)年に地鎮祭が行われ、社殿は伊東忠太の設計により完成し、1920(大正9)年111日に鎮座祭が行われた。(明治神宮はこの日を以て創建としている)

いっぽう外苑については、1915(大正4)年には、神宮外苑の造営を担当する民間団体「明治神宮奉賛会」が設立された。1917(大正6)年、「明治神宮造営局」に神宮外苑の設計・工事を委嘱、道路・競技場などの位置が決定し、地鎮祭が翌年の1918(大正7)年に行われたが、関東大震災による工事の中断もあり、外苑の中心施設である聖徳記念絵画館の竣工を待って1926(大正15)年に明治神宮への奉献式が行われた。しかしながら、この時点では、展示される絵画は80点中5点しか展示されておらず、80点が全て完成したのは、1936(昭和11)年となった。

なお、明治天皇の「葬場殿の儀」が行われた葬場殿があった場所には、神宮外苑の造営の中で「葬場殿址記念物」として、石壇が造営され、その中に「葬場殿址」の石碑が建立、記念樹として楠が植樹された。

1918(大正7)年に策定された神宮外苑の当初計画では、「聖徳記念絵画館」「葬場殿址記念物」「憲法記念館」「陸上競技場」の四つの施設が予定されていたが、その後、スポーツ熱の高まりを受け、1924(大正13)年に計画を変更し、野球場、水泳場、相撲場も設けられることになった 。

葬場殿址

記念樹の楠

1)「聖徳記念絵画館」

「聖徳記念絵画館は、神宮外苑の中心施設として計画された、明治天皇の生涯の事績を描いた絵画を展示する美術館である。設計は1918(大正7)年に一般募集され、156通の応募図案から小林正紹(まさつぐ)の案に決定、翌年に着工、1926(大正15)年に竣工した。建設地は、1912(大正元)年の明治天皇の「大喪儀」で、葬場殿が置かれた場所であった。展示する作品の画題は、1916(大正5)年から金子堅太郎らを中心に国史編纂作業と並行して検討が始まり、1922(大正11)年、全80点(日本画40点、洋画40点)を、画一のサイズ(実際のサイズは縦約2.7m、横約2.12.5m)で制作することが決定した。まず、考証や現地取材に基づき、二世五姓田芳柳により「画題考証図」が作成され、これを参考に、日本画では鏑木清方など、洋画では川村清雄など、当時の一流の日本画家・洋画家らが作品を描いた。1926(大正15)年の開館当初は日本画1点、洋画4点の5点の展示であったが、その後、随時搬入され、1936(昭和11)年に全80(日本画40点、洋画40点)が完成、翌年本公開となった。

戦後、「絵画館」はGHQに接収され、1947(昭和22)年に接収解除、翌年、再開館したが、戦争関連の絵画18点は非公開となった。この18点は、1952(昭和27)年、サンフランシスコ講和条約の発効以降、復元展示された。

作品は、1番の『御降誕』に始まり、80番の『大葬』まで、明治天皇の生涯と明治時代の出来事を合わせて年代順に展示されている。なお、建物は、2011(平成23)年に国の重要文化財に指定されている。

聖徳記念絵画館

聖徳記念絵画館(裏側)

聖徳記念絵画館(裏側)


聖徳記念絵画館(内部)

聖徳記念絵画館(内部)

聖徳記念絵画館(内部)



聖徳記念絵画館

聖徳記念絵画館




聖徳記念絵画館(イチョウ並木から)

2) 明治神宮外苑競技場

「明治神宮外苑競技場」は1919(大正8)年に着工、神宮外苑全体が完成する2年前、1924(大正13)年に竣工した。

明治神宮大会

外苑の競技場が竣工したのは1924年、すぐに第一回明治神宮競技大会が始まった。明治神宮外苑で大会が行われることになったのは、古代オリンピックがギリシアの神殿で行われたことに因んでいる。相撲は、いまでも神殿に奉納されているのと同じように、スポーツによる神殿への奉納となった。また、外苑は、神殿(内苑)に対し、全体として公園化し、競技場を設けるなど西洋近代化の場として造ることによって、明治天皇の記念を何にするか百出した意見を吸収するものとなった。

これまで体育界、スポーツ界、武道界が一つになって行われることはなかった。第一回大会の開催に当たっても、各種競技団体、あるいは学生団体などの協力体制が整っていたわけではないが、従来の競技会とは比べ物にならないほど、多くの国民を巻き込んだ大会となっていった

それは戦時色が強くなってくると、1938年には東京オリンピック開催を返上し、1939年に行われた第10回明治神宮大会では、競技種目もスポーツ、体操よりも武道の序列が高くなり、また新たに、「国防競技」として、競技場は戦場に通じるということから、種目には行軍競争、障害通過競争、手榴弾投てき、土嚢運搬継走などが行われるようになり、次第に総動員体制になってくる。それに伴い、大会の名称は、次のように変わっていった。

1回(1924年):明治神宮競技大会、主催:内務省

3回(1926年):明治神宮大会、主催:明治神宮体育会

10回(1939年):明治神宮国民体育大会、主催:厚生省

11回大会(1940年)は特に「紀元二千六百年奉祝第十一回明治神宮国民体育大会」と呼ばれた。

13回(1942年):明治神宮国民練成大会、主催:厚生省

戦後には、国民体育大会(国体)として1946年に第一回大会が開かれた。なお、「国民体育大会」の名称は、2024年の佐賀県での大会から「国民スポーツ大会」(略称「国スポ」(こくスポ)、英称「JAPAN GAMES」)に改められることとなっている。

「青年像」朝倉文夫 作

「健康美」北村西望 作

出陣学徒壮行会

外苑競技場は、1936(昭和11)年に、1940(昭和15)年「東京オリンピック」の開催が決定すると、そのメインスタジアムの候補となった(その後、駒沢に競技場を新設することに決定)。しかし、日中戦争の勃発により、1938(昭和13)年にオリンピックの開催を返上した。 太平洋戦争が激化した1943(昭和18)年10月、内閣は挙国一致体制を強化するため、大学・高等教育諸学校の学生(理工系と教員養成系を除く)の徴兵猶予の廃止を決定、12月から入隊させることになった。これを受け、10月から11月にかけて、全国で「文部省」などが主催する「出陣学徒壮行会」が開催された。参加者は、東京帝国大学をはじめ、首都圏の77校から出陣する学徒(人数は軍事機密として伏せられた)と、それを見送る約65千人の観衆であった。

この明治神宮外苑での壮行会と同時に台北(台湾)でも開催され、その後、占領地の京城(朝鮮)、新京(満州国)、上海(中国)などと、大阪、仙台など国内地方でも行われた。

戦後、「明治神宮外苑競技場」はGHQに接収され「ナイルキニック・スタジアム」(ナイルキニックは米国の軍人名)として使用、1952(昭和27)年に接収解除となり返還された。1954(昭和29)年、「第3回アジア競技大会」(1958(昭和33)年開催)の主会場となることが決まり、1956(昭和31)年に文部省に譲渡され、翌年建替え工事が着工となり、1958(昭和33)年に「国立霞ヶ丘陸上競技場」(「国立競技場」)が誕生した。翌1959(昭和34)年、「東京オリンピック」(1964(昭和39)年開催)の招致がきまり、1964年東京オリンピック」ではメインスタジアムとなり、開会式、陸上競技、閉会式などが行われた

「出陣学徒壮行の地」

東京オリンピック~新国立競技場

国立競技場は、老朽化と、2013(平成25)年に決定した「東京2020オリンピック・パラリンピック」のメインスタジアムとするため建替えられることになり、2014(平成26)年に閉場、その後取り壊されて、「新国立競技場」(仮称)が建設された 2019(令和元)年、「新国立競技場」(設計は隈研吾)が竣工となり、正式名は建替え前と同じ「国立競技場」として開場した

新国立競技場の建設を巡っては当初、建築家ザハ・ハディドのデザイン採用され、「キールアーチ」と呼ばれる屋根を支える2本の巨大なアーチと流線形が特徴的だった。しかし、建設費が見積もりの2倍の2520億円に膨らみ、白紙撤回され、当時の安倍首相が「現在の計画を白紙に戻し、ゼロベースで計画を見直す」こととし、 再コンペが行われた。

最初のコンペには日本人建築家としては妹島和世と伊東豊雄が参加しているが、再コンペには、隈研吾+大成建設と伊東豊雄+竹中・清水・大林が、それぞれA案、B案として応募し、A案(総整備費1490億円)に決定された。隈研吾は次のように述べている。

建築の設計にあたって、ぼくがいつも意図していることは『なるべく建物の高さを低くしたい』『地元の自然素材を使いたい』という2点。新国立では、やり直し前に75メートルだった建物の高さを、緻密な構造計算を重ねたことで、49メートルまで下げることができた。その時、『よし、これで行ける』とぼくの中でも、確信が湧き上がりました」

「国立競技場」隈研吾

「国立競技場」

「国立競技場」

「国立競技場」

「国立競技場」

「国立競技場」

「国立競技場」

「新国立競技場案」ザハ・ハディド

3)明治神宮球場

神宮球場のある場所は、江戸期は、飫肥藩(現・宮崎県)伊東家下屋敷や青山甲賀百人組大縄地であった。

明治神宮奉賛会は、1925(大正14)年、神宮外苑に野球場・水泳場・相撲場・庭球場の設置を決定した。同年、「明治神宮野球場」が着工となり、翌1926(大正15)年、神宮外苑全体の完成・奉献と同時に開場した。野球は、近代スポーツの中でも花形で、外苑の西洋近代の公園化のなかの施設として造られ、開場の翌日からは当時絶大なる人気を誇っていた「東京六大学野球」の試合行われた。 1931(昭和6)年には収容能力を上げるためスタンドの増築が行われ、ほぼ現在の外形となっている。戦前は「アマチュア野球の聖地」とも呼ばれ、プロ野球の公式戦が行われることはなかった神宮球場は、1945(昭和20)年、太平洋戦争の大空襲による火災で一部が被災、戦後はGHQにより接収され、連合国軍の専用球場となったが、日本人の利用も認められた。1946(昭和21)年には連合国軍による修復工事も行われ、戦時中に中断していた東京六大学野球も復活。1948(昭和23)年以降は、戦前は行われなかった、プロ野球の公式戦も開催されるようになった。接収は1952(昭和27)年に解除されている。

1962(昭和37)年、「東映フライヤーズ」(現北海道日本ハムファイターズ)は、本拠地だった「駒沢野球場」が「1964年東京オリンピック」の競技場整備のため閉鎖されたことから神宮球場で試合を開催するようになり、1964(昭和39)年には「国鉄スワローズ」(現東京ヤクルトスワローズ)も本拠地として使用するようになった。プロ野球の本拠地となった現在でも、東京六大学野球のほか、高校野球など、アマチュア野球の試合も多数開催されている。現在、神宮外苑地区の再開発の一環で移転・建替えが計画されている。

4)明治神宮相撲場

「明治神宮相撲場」も、1926(大正15)年、神宮外苑全体の完成・奉献と同時に開場した。戦後の1947(昭和22)年と、その翌年には「大相撲」の本場所興行も行われた。その後、野球場が建設されることになり、1961(昭和36)年に「明治神宮第二球場」が開場した。高校野球や大学野球などの試合のほか、ゴルフ練習場としても利用された。「 第二球場」は2019(令和元)年に閉鎖。神宮外苑地区の再開発のため解体が進められており、跡地には新しい「秩父宮ラグビー場」が建設される予定となっている。

5明治神宮水泳場

1930(昭和5)年に「明治神宮水泳場」(通称「神宮プール」)が開場した明治神宮大会の水泳競技など、国内競技会はもちろん、数多くの国際競技会も行われた。中でも1948年の日本選手権水泳競技大会では古橋広之進が、自由形1500m、並びに同400mで当時の世界記録を大幅に上回る記録を達成したことでも知られている。また、1963(昭和38)年の神宮プール増改築工事に併せてアイススケート場に転用できる室内プールを建設した。その後、1997年から冬季に限りフットサル競技場として開放するも2002(平成14)年、老朽化のため閉鎖・解体となり、翌年、常設のフットサルの「千駄ヶ谷コート」となったが、2017(平成29)年に閉鎖された。跡地には「三井ガーデンホテル 神宮外苑の杜プレミア」が2019(令和元)年に開業した。

なお、1959(昭和34)年に、絵画館前の角池を子供用プールに使用したことがある。昭和36年まで使われ、「かっぱ天国」と呼ばれ人気があったという。

明治神宮アイススケートリンク

6)イチョウ並木と折下吉延

外苑の計画と整備は、奉賛会より神宮造営局に委託され、委員として古市公威、伊東忠太、 佐野利器等、造園系としては川瀬善太郎、本多静六、原熈が任命されたが、実務に当たった中心人物が、原熈門下の折下吉延(おりしもよしのぶ 1881-1866)である。なお、これらのメンバーのうち、不思議なことに、伊東、佐野、折下ともに東北は山形の出身である。幕末に朝敵となった東北出身者が、薩長土肥出身者に対抗して出世していくには専門性を身につけた技術官僚として能力を発揮することであったともいわれる。

折下吉延は東京帝国大学農科大学校農学科を卒業後、新宿御苑に奉職し、福羽逸人の指導のもと洋ランの品種改良などを手掛けていたが、1915 年に明治神宮造営局技師に任じられた。折下は、外苑造成の大役を拝命した当時35歳の新進気鋭の技術者であった。

折下が設計したとされる、絵画館から真直ぐに続くイチョウ並木がある。いまも紅葉の時期には大勢の人が出る人気の場所であるが、これらのイチョウは、折下が、1910年頃代々木御料地(現在の内苑)に、苗圃をつく り、新宿御苑から採取された種子をまいたものとされる。 1926年(大正15年)の明治神宮外苑創建に先立って、1923年(大正12年)に植栽された。

神宮の表参道はよく知られているが、JR千駄ヶ谷近くを通る裏参道もある。この道路の設計も折下が設計に関わって、車道と歩道のほかにプロムナードという乗馬道と植樹帯を備え、幅二十間(約36.34m)という堂々とした公園道路を造った。残念ながら、1964年の東京オリンピックに伴い高速道路などになってしまった。

また、内苑の設計においても、南参道が幅広く、ゆったりと東に寄っているのは、昭憲皇太后ゆかりの旧代々木御苑を保全するため、造園家・折下吉延が工夫した設計とされる。北側にある宝物殿の前の芝生の広場も折下の設計によるもので、それまでの公園では、芝生の広場は立ち入り禁止とされていることが多かったが、これを一般に公開した。こうした都市公園の計画は、折下が欧米視察で学んだ「自由空地=オープンスペース」というコンセプトの実例のひとつとなっている。

折下は、外苑整備中の 1919 年、欧米視察を行っており、帰国後、都市の公園計画の重要性を説き、関東大震災後の復興事業として隅田公園、錦糸公園、山下公園などの建設を指揮した。

イチョウ並木

イチョウ並木

イチョウ並木

7)明治神宮外苑の再開発

明治神宮外苑地区の再開発が始まっている。新宿区や港区、渋谷区にまたがる大規模事業で、神宮球場や秩父宮ラグビー場が場所をかえて建て替えられるほか商業施設が入る高層ビルが建設される計画である。神宮球場にはホテルが併設され、秩父宮ラグビー場には屋根が取り付けられ、文化イベントも行われることになるという。この再開発に伴い700本以上のの樹木が伐採されるという。

この再開発を行うのは行政ではなく、三井不動産をはじめとする民間の事業者である。そもそも、明治神宮外苑は法律上、都市計画公園に指定され、開発が制限されているが、東京都は、2013年、公園の有効活用を目的として、民間の力で整備、開発するための制度を創設した。 外苑地区は東京都心の風致地区として100年近く守られてきたが、東京五輪を機に東京都が建築規制を緩和したことから。今回の再開発で高層建築が立ち並び、歴史的な景観は大きく変わることになる。2036年に完了する計画で総事業費はおよそ3490億円となっている。

この緩和された「公園まちづくり制度」を活用した再開発計画は、芝公園、日比谷公園 、葛西臨海公園でも行われている。

世界的な音楽家で昨年3月に亡くなった坂本龍一氏が生前、明治神宮外苑地区の再開発の見直しを求める手紙を東京都の小池百合子知事ら5氏に送っていた。そのいわば遺言のようなメッセージを引いておく。

「率直に言って、目の前の経済的利益のために先人が100年をかけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々を犠牲にすべきではありません。(中略)この樹々は一度失ったら二度と取り戻すことができない自然です。」(手紙の一部)

「この問題に気づき声を上げるのが遅かったのかもしれません。しかし、まだ立ち上がることはできるはずです。そうでなければ、美しい自然と景観を守ることができなかったことを子供達に詫びなければなりません。誤りに気づいたら立ち止まり考えを改める。
ネイティブアメリカンに「7世代先を考えよ」という教えがあります。私たちは彼らのように賢明ではありませんが、せめて次の世代に美しいバトンを渡したい。まだできることがあるはずです。 」(「女性自身」2023 4 18 日号に掲載

「御観兵榎」(青山練兵所での明治天皇の観兵式)



信濃町駅付近から

8)東京体育館

東京体育館の敷地は、もとは徳川家正氏(徳川宗家17代)の所有地であったが、1943(昭和18)年に東京府が戦時中の国民の士気高揚のための錬成道場「葵館」として使用するために、土地・建物を買収した。戦後、1945昭和20年から1952昭和27年まで駐留軍将校宿舎・将校クラブとして使用され、接収解除後は、一時、東京都収用委員会庁舎として使用された。これを解体し、1956(昭和28)年に東京体育館建設工事に着工、1956昭和31年に完成した。体育館につづいて、1958(昭和33年)に屋内水泳場と陸上競技場が完成し、1958年アジア大会のバスケットボール、水泳競技の会場として使用された。ついで、1964年東京オリンピックの際には、体操競技、水泳競技の会場として使用された。

老朽化のため1986年より改築工事に着手し、槙文彦の設計で1990年に東京体育館として全面改築オープンした 。2020年東京オリンピックにに向けた改修工事が実施され、同オリンピック・パラリンピックでは卓球競技の会場として使用された。

設計を手掛けた槙文彦(1928-)は、この外観が宇宙船(UFO)のような建物について、「自然豊かな明治神宮外苑の一端にあることから、アリーナ部分を地下に埋めることで高さを抑えています。」と述べている。

その文彦は、東京体育館に隣接して建てられる、新国立競技場の計画について、「濃密な歴史を持つ風致地区になぜこのような巨大な施設をつくらなければならないのか」といち早く疑問を提起し、ザハ・ハディドの基本設計案を、「有蓋施設が諸悪の根源」、「世紀の愚挙」と鋭く批判し、計画のリセットが必要と提起した。

最終的に、2015年にザハ・ハディドによる新国立競技場の建設は当時の安倍首相により白紙撤回され、前述したように、再コンペが行われ隈研吾の設計となった。

東京体育館

東京体育館

東京体育館

東京体育館

東京体育館

東京体育館

東京体育館

東京体育館

東京体育館

(9)2020年東京オリンピックの主な経緯

2013年9月に2020年のオリンピックの開催地が東京に決まったが、その後の主な経過を振り返っておく。

2013/9IOC総会において東京に開催地が決定。その際、安倍首相は東京電力福島第一原発事故について「状況はコントロールされている」と説明。当時は汚染水漏れが起き、海への流出も懸念される中での国際社会へのアピールをしたが、国内では批判も起きた。

2014/1:大会組織委員会が発足。森喜朗元首相が会長に就任。

2015/7:ザハ・ハディドのデザインによる新国立競技場の建設計画が白紙に。総工費が膨張し、根本から見直された。9月には佐野研二郎による公式エンブレムが発表されたが、ベルギーの劇場のロゴマークと酷似していたことが判明。その後使用禁止。

2015/12:新たな新国立競技場の設計案に隈研吾の案を決定 。

2018/12:日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長が五輪招致を巡る買収疑惑で、フランス当局から聴取を受けたことが明るみに。

2019/3JOCの竹田恒和会長が退任表明。

2019/10:東京オリンピックのマラソン・競歩のコースを札幌に変更することを発表。

2019/11:新国立競技場完成。正式名称:国立競技場

2020/3:新型コロナウイルスの世界的感染拡大により、大会の一年程度の延期を発表。

2021/2:森喜朗組織委員会会長が女性蔑視の発言で辞任。新会長に橋本聖子が就任。

2021/7:無観客開催を決定。

2021/7/23:開会式

2021/8/8:閉会式

2022/8大会から一年後、組織委員会の元理事で電通出身の高橋治之が紳士服大手・AOKIホールディングスと出版大手・KADOKAWAから、スポンサー選定などで便宜を図ったという収賄容疑で逮捕。

この間、オリンピック担当大臣は、遠藤敏明、丸山珠代、桜田義孝、橋本聖子などにそれぞれ変わった。また、組織委員会会長は森喜朗から橋本聖子へ。首相は、安倍晋三、菅義偉と変わる。東京都知事は、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子と変わっている。

結局、大会招致を導き、旗振り役だった者は誰ひとりとして、当時の肩書のまま、東京五輪を迎えることができなかった。コロナ渦もあり、迷走した2020東京オリンピックは、大きな禍根を残したままになっている。

(参考):

『明治神宮の出現』山口輝臣 吉川弘文館 2005

『明治神宮』今泉宣子 新潮社 2013

『帝国日本とスポーツ』高嶋航 塙書房 2012

『国立競技場の100年』後藤健生 ミネルヴァ書房 2013

『東京都都市計画の遺産』越澤明 ちくま新書 2014

三井住友トラスト不動産 このまちアーカイブス「四谷・牛込」

https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p09.html

日本イコモス国内委員会「近代日本の公共空間を代表する文化的資産である神宮外苑の保全継承についての提言」

https://icomosjapan.org/

「坂本龍一と神宮外苑を心配する」

https://jingugaien.jp/

「国立競技場」隈研吾

明治神宮は、明治天皇陵が京都に造営されることが決まり、その代替物として、東京に「神宮」を造営し、あわせて記念事業の場として「外苑」が造られることになった。天皇の陵や皇霊殿は、一般には入れるものではないのに対し、神宮、そして外苑は一般に開かれた場として、そのために国民(当時は臣民)が寄付や奉仕、植樹をして創設した、いわば国民のための、国民による明治神宮内苑・外苑が創設された。

内苑は、神宮の森といわれる自然が育ち、そのなかに神聖な社殿があり、初詣には多くに人が参拝に訪れる場所となっている。いっぽう、外苑は、絵画館では、一般の美術館が特別展、企画展などを行うのとは違い、80点の絵画が常時展示されている。そして、国立競技場を中心とした、神宮球場などのスポーツ施設、イチョウ並木などの豊かな緑がり、人々が楽しみ、憩うことの出来る場となっている。

しかしながら、オリンピックの開催を契機に大きく変化し、その在り方が問われている。100年を超える樹木を伐採するということは、自然を無にするだけでなく、その歴史、文化まで無にすることにつながる。次世代に禍根を残さぬ外苑であってもらいたいと思う。

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