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穴八幡宮・隋神門 |
早稲田に出たさいに、穴八幡宮に寄ってきました。早稲田通り沿いには、神田神保町と同じように古書店街があり、穴八幡宮の境内では秋に青空古本祭が行われていましたが、今は行われていません(早大キャンパス内で開催)。穴八幡宮に寄るのも久しぶりです。境内は建物も新しくつくられ、きれいになっていました。
また、早稲田通りの脇には、ひっそりと地蔵が祀られていました。
1.穴八幡宮
穴八幡宮は、由緒によれば、1062年、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、東北鎮護の社として八幡神を祀ったのがはじまりだという。
寛永十八年(1641年)、宮守の庵を造る為に社僧が南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、中から金色の阿弥陀如来像が見つかったという。当時、阿弥陀如来像は八幡神の本地仏とされて人々の崇敬を集めたことから「穴八幡宮」とよばれるようになったとされる。
同じころ、三代将軍・家光が鷹狩りの途次に参拝したさいに、神木の松から瑞光を放つなどの奇瑞のあった事を上聞し、穴八幡宮を城北の総鎮護とした。その後も幕府の祈願所として規模も拡大し、元禄期には壮麗な江戸権現造社殿が整い、江戸屈指の大社となった。穴八幡宮の近くには尾張徳川家の下屋敷戸山荘があり、時の将軍も鷹狩りの際に立ち寄ることもあった。
また、三代将軍・家光が旗本たちの馬術の訓練の場として高田馬場(たかたのばば)を1636(寛永13)年に造った。八代将軍・吉宗は、世嗣の疱瘡平癒祈願のため、流鏑馬を高田馬場で行い、穴八幡宮に奉納した。その後、厄除け及び将軍家若君誕生の折は流鏑馬が奉納されるようになった。
しかし、明治維新をむかえると、幕府の支援は当然無くなり、加えて維新政府の神仏分離令、上地令などにより寺社は大きなダメージを受ける。穴八幡宮も氏子が分離するなど衰微した。また、これまで行われていた流鏑馬も明治以降、長く中絶することになった。そうしたなか、流鏑馬は、昭和九年に皇太子(上皇陛下)御誕生奉祝の為に穴八幡宮境内で再興されることになった。その後、戦争による中断をはさみ
昭和54年からは近くの都立戸山公園内で10月のスポーツの日に開催されている。
また、三代将軍・家光が旗本たちの馬術の訓練の場として高田馬場(たかたのばば)を1636(寛永13)年に造った。八代将軍・吉宗は、世嗣の疱瘡平癒祈願のため、流鏑馬を高田馬場で行い、穴八幡宮に奉納した。その後、厄除け及び将軍家若君誕生の折は流鏑馬が奉納されるようになった。
しかし、明治維新をむかえると、幕府の支援は無くなり、加えて神仏分離令、上地令などにより寺社は大きなダメージを受ける。穴八幡宮も氏子が分離するなど衰微した。また、これまで行われていた流鏑馬も明治以降、長く中絶することになった。そうしたなか、流鏑馬は、昭和九年に皇太子(上皇陛下)御誕生奉祝の為に穴八幡宮境内で再興されることになった。その後、戦争による中断をはさみ
昭和54年からは近くの都立戸山公園内で10月のスポーツの日に開催されている。
また、穴八幡宮は、江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名となっていたが、これも、1879(明治12)年に、皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷が行なわれた。
蟲封じは、幼児の夜泣きや癇癪などは、<疳の虫>によって起こるとされ、これを封じる祈祷が行われた。戦前までは、こうした子供の健康、成長を願う信仰が庶民ばかりでなく皇族までに広まっていたということだろう。
信仰が広まるにつれ、社殿も、大正五年から昭和九年にかけて大規模な修繕を行い旧時の盛観に復しつつあったが、その多くは東京大空襲で失われた。再び、平成元年より慶安・元禄の江戸権現造の設計絵図を基に本殿の造営を初め、隋神門や出現殿、鼓楼、手水舎などの再建が行われている。
(参照):大名庭園・戸山荘については、
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早稲田通りに面した正面鳥居 |
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正面鳥居 |
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隋神門 |
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隋神門 |
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隋神門 |
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隋神門 |
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隋神像 |
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隋神像 |
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鼓楼 |
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手水舎 |
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布袋尊舎 |
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手水舎 |
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拝殿 |
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拝殿・扁額 |
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拝殿前の獅子・奥は鼓楼 |
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奥は隋神門、左は布袋尊舎 |
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拝殿前の獅子 |
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寛永時代の穴八幡宮(江戸名所図会より) |
2.落馬地蔵と子育地蔵
早稲田通り沿いに、小さな祠が二つある。ひとつは落馬地蔵と呼ばれる。縁起によると、三代将軍・家光が遠出(鷹狩り)の途次、この地を通った時、突然馬が驚き、落馬した。怪しんで公がその地を探させると、土橋の下から地蔵が現れ、いたく畏怖してこれを祀ったという。また高田馬場の道順に当たることから、馬術武芸の上達、安全を祈念し信仰されたという。
ちなみに、近年はJRの駅名等が浸透し、「たかだのばば」、<だ>と濁るのが一般的になっているが、史跡や地名などは「たかたのばば」と濁らないとされる。
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落馬地蔵 |
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落馬地蔵 |
もうひとつの祠は「子育地蔵」、こちらは
「源兵衛子育地蔵」とも呼ばれている。この付近は、元禄年間に源兵衛という者が鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開墾して、当時28戸からなる村が出来た。源兵衛の死後、村人は源兵衛に感謝して、供養のためにこの地蔵を立てたと伝えられる。
源兵衛地蔵は享保11年(1726)の建立である。
ご利益は、とくに子供に関しての願いが叶うとされ、子育地蔵と呼ばれるようになった。近年は早稲田大学の入試シーズンになると合格祈願に多くの人が参拝するという。
地蔵の祠の隣には馬頭観音、庚申塔なども置かれている。その奥には「彰忠碑(しょうちゅうひ)」という立派な石碑が建っている。これは、日清・日露戦争に戸塚村から出征した人たちの忠霊として、大正3年(1914)に建立された。石は伊予の青石が使われている。
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子育地蔵 |
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馬頭観音 |
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「源兵衛子育地蔵尊」 |
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「彰忠碑」
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早稲田の街は、もちろん大学の学生街としてよく知られていますが、穴八幡宮もあり、多くの人が参拝に訪れています。また、早稲田通り沿いには地蔵を祀った祠があり、古くから庶民の信仰の場となって大切にされてきたようです。そうした昔と今の信仰の場、信仰の姿を垣間見るようでした。
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