2024年5月6日月曜日

東京異空間197:洋と和の庭園~旧古河庭園

 

旧古河庭園・入口

旧古河庭園に行ってきました。ここはバラ園として有名で、訪れた五月初めには、そろそろ見頃を迎えていました。バラのほか、ジョサイア・コンドルによる洋館、そして小川治兵衛による日本庭園も見どころとなっています。

1.旧古河庭園の沿革

江戸末期には戸川播磨守の下屋敷であったが、明治時代に、元勲・陸奥宗光の邸宅となる。宗光の次男が古河財閥の創業者・市兵衛の養子に入ったことで、古河家の所有となる。 大正時代になって、市兵衛の息子である古河家3代目当主・虎之助が隣接する土地を購入し、約1万坪の広大な敷地に造ったのが、現在に残る邸宅と洋風庭園、日本庭園である。邸宅と洋風庭園はジョサイア・コンドルが設計し、1917(大正6)年に完成した。日本庭園は、植治の名で知られる京都の庭師・小川治兵衛が作庭した池泉回遊式で、1919(大正8)年に完成した。

1923(大正12)年の関東大震災の時には、開放して避難者の救護事業にあてられた。その後、虎之助は西ケ原に本邸を移し、ここを迎賓館として 顧客接遇に利用した。

戦争末期には、聯隊本部将校宿舎として接収されたが、終戦時の滝野川地区は被害は軽微で、古河邸は洋館も庭園も損害を受けなかった。

戦後は、進駐軍に接収され、英国大使館の武官独身宿舎として使われたあと、1952(昭和27)年に接収解除となった 。古河家は相続等のためほとんどの資産を物納として納めたことから大蔵省の所管となる。その後、東京都が大蔵省から貸付を受け、1956(昭和31)年に都立旧古河庭園として開園した。

2.洋館

旧古河邸はコンドルの最晩年の設計で、洋館内部に和室を完全な形で取り込んだ極めて珍しいプランである。1階がすべて洋室で主に接客のための空間なのに対し、2階の寝室を除いたすべての部屋が伝統的な和室で、和洋の様式を折衷することなく巧みな構成で和洋の調和を図っている。和と洋を共存させる手法は、自然地形を利用した庭園の配置にも見られ、大きな特色となっている。

なお、ジョサイア・コンドルの設計による邸宅としては、旧岩崎邸(1896明治29年)があるが、こちらは洋館と和館が併設されている。

旧岩崎邸

旧岩崎邸・洋館

旧岩崎邸・和館

ところで、洋館は、現在、(公財)大谷美術館が建物の管理運営を行っている。その経緯は、ニューオータニなどを創業した大谷米太郎が戦前から事業を通じて古河家と親交があり、財閥解体のなかで古河家から敷地と建物の今後の対応について、売却等の相談を受けた。そうしたことから昭和39年に国、東京都、古河家、大谷家により覚書が結ばれた。しかし、しばらくは手が入れられず、邸宅は蔦でおおわれ、お化け屋敷ともいわれたというほど荒廃した。昭和58年から修復工事を行い、平成元年より一般公開された。

(参照):

東京異空間130:大名庭園を歩く7~ニューオータニ


旧古河邸










3.洋風庭園

旧古河庭園は、邸宅が立つ小高い丘から続く斜面に洋風庭園、さらにその先の低地に日本庭園が配されている。邸宅前の洋風庭園はバラの庭園として有名で、100品種200株ものバラが育てられているという。

洋風庭園は、平面的で幾何学的に構成されるフランス式庭園で、 バラの庭園は、1段目の花壇は正しく左右対称形であるが、2段目は中央の階段を挟んで左右に方形の植え込みとなっている。3段目は非整形的なツツジ園となっており、手前の西洋庭園と奥の日本庭園との連続性をもたせる仕組みになっている。

ジョサイア・コンドルの設計による建物は都内でもいくつかあるが、庭園まで設計しているのは珍しい。コンドルは日本の建築の礎を築いたことで知られるが、日本文化にも通じていて、『Landscape Gardening in Japan』という英語による初めての体系的な日本庭園論もあるほど日本庭園に対する造詣を持っていた。

(参考):

Landscape Gardening in Japan, Supplement to Landscape Gardening in Japan

は、『日本庭園入門』というタイトルで、講談社インターナショナルから復刻されている。2002年。明治時代の各地の庭園の貴重な写真(小川一眞による)と、巻末に藤森照信による「ジョサイア・コンドルと日本」 が付いていてる。

整形的なフランス式庭園



2段目整形型のバラと非整形的な3段目のツツジ





4.日本庭園

日本庭園は、植治の名で知られる京都の庭師・小川治兵衛が作庭した池泉回遊式庭園で、1919(大正8)年に完成した。 「心」の草書体をかたどった心字池、水を使わずに山水の景観を表現した枯滝、武蔵野台地の高低差を利用して造られた大滝など、治兵衛の職人技が随所に見られる。

何より、庭の中心は池に淵に据えられた大きな雪見灯籠だろう。枯滝石組から栗石により磯浜風の護岸を展開して、大きな雪見灯籠を据えている。

また、財閥の庭園に見られる大型の石灯籠や十三重塔なども庭のあちこちに置かれている。植治らしさは、池の中島にかかる石橋や、渓谷を模した流れだろうか。深山幽渓のよう渓谷を表現しており、小川治兵衛が力を入れた場所のひとつとされる。

また、洋風庭園と日本庭園の境界部分の段差は「黒ボク石積」みで処理されている。 黒ボク石は富士山の溶岩であり多孔質で軽く加工しやすいという特徴があるが、黒ボクが石垣状になっているのは珍しいといわれる。黒ボク石には苔が付き、これによって洋風庭園から日本庭園へ境界部に違和感を感じさせない見事な意匠となっている。

もう一カ所、入母屋造の茶室に至るところに、「崩石積」がやはり池側との境界として造られている。これは、石を垂直に積む方法のなかで京都で発達した伝統的な手法であり、石と石が噛み合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされ、小川治兵衛の力作といわれている。

入母屋造りの茶室は二つあり、緑に囲まれ静かな佇まいを見せている。茶室の奥には

蔵造りの建物がある。これは、旧古河邸時代の旧書庫で、西ケ原邸の前の築地邸から移築したと推測される。明らかに書庫として設計されたものではないという。

なお、都内にある小川治兵衛の作庭としては「国際文化会館」の庭園がある。

(参照):

東京異空間131:大名庭園を歩く8~国際文化会館


心字池・雪見灯籠

心字池・雪見灯籠


心字池・雪見灯籠

雪見灯籠

十三重塔

枯滝

磯浜風の護岸に立つ雪見灯籠


渓谷

渓谷




黒ボク石積

洋風と和風の境界

崩石積

茶室

茶室

旧書庫

旧書庫


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