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「歸空庵コレクションによる洋風画という風」展@板橋区立美術館 |
板橋区立美術館(以下、板美と略)で、「歸空庵コレクションによる洋風画という風」展が開かれているので観てきました(6月16日
まで)。板美では、2004(平成16)年に、同じ歸空庵コレクションによる「日本洋風画史展」を最初に開催しています。歸空庵コレクションは、板美に多く寄託されており、今回の展覧会は、新たに寄託された作品も展示されていました。
展示作品は、すべて撮影可でしたので、しっかりと撮ってきました。
(参考):
図録『歸空庵コレクション 日本洋画史展』安村敏信 編 平成16年
1.桃山の洋風画
西洋との最初のコンタクトは、大航海時代、ポルトガル、スペインの宣教師たちが布教のため日本に来たことにはじまる。この時に来日したポルトガル人やスペイン人を総称して南蛮人と呼び、彼らがもたらした異国情緒豊かな美術は南蛮美術ともいわれる。
キリスト教布教のため日本人に聖画を制作することを宣教師が教えたとされる。桃山時代に制作されたこうした洋風画は、キリシタン禁教に伴い衰退していく。加えて鎖国が始まり、西洋との窓口は長崎など限られたものになる。
(1)西洋風俗画・作者不詳
イエズス会の絵画や銅版画などの技法を教育する施設である画学舎などで西洋画を学び宗教画を書いていた日本人は、禁教に伴い、西洋の風俗などを描いたという。
この作品も作者は不詳だが、読書する男性や、逢引する男女など、聖と俗の両方を描いている。
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西洋風俗画・逢引する男女 |
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西洋風俗画・逢引する男女 |
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西洋風俗画・読書する男性 |
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西洋風俗画・読書する男性 |
(2)信方・神農図
信方の経歴の詳細は未詳である。慶長年間(1596年-1615年)頃を中心に活躍し、「獅子と鷲」の印章と「信方」の落款の作品が残る。日蓮宗の僧の像など仏教を主題をした絵も描いていることから、キリシタンの洗礼を受けセミナリオなどで洋風画を学びながら、後に棄教したした人物であると考える研究者もいる。以前、このブログでもとり上げたハビアン(恵俊)の境遇にも似ているのか。
描かれている「神農」とは、農耕神と医薬神の性格をもち、百草の性質を調べるために自ら舐めたと伝えられる中国の神で、日本でも、医者や商人の信仰の対象となった。
どことなく「達磨」にも似ているような顔である。
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信方・神農図 |
2.江戸中期~秋田蘭画
江戸中期に、八代将軍・吉宗は洋書の禁を緩めたため、オランダ語によるヨーロッパの文化、書籍などが入ってきて、蘭学が興る。よく知られているのは『解体新書』
であり、そこには小田野直武による挿絵が描かれた。直武は秋田藩の藩士であり、藩主・佐竹曙山らによる洋風画、「秋田蘭画」が生まれた。しかし、直武が亡くなると、後継者もなく、廃れてしまった。
「秋田蘭画」は、同じく秋田出身の日本画家平幅百穂が1930(昭和5)年に『日本洋画曙光』において紹介された。その後、秋田県内では展覧会が行われたが、東京では、板美が、2000年にはじめて「秋田蘭画」展を開催した。
(参考):図録『秋田蘭画ー憧憬の阿蘭陀』安村敏信 編 2000年
(1)小田野直武
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鷺図 |
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岩に牡丹図 |
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新蕨飛虻蚊 |
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新蕨飛虻蚊(部分) |
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柘榴図 |
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恵比寿図 |
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富嶽図 |
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梅屋敷図 |
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不忍池図 |
(2)佐竹曙山
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老松図 |
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老松図(部分) |
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紅梅水仙図 |
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紅梅水仙図(部分) |
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竹二鶴図 |
(3)佐竹義躬
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松にこぶし図 |
(4)作者不詳
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流木花鳥図 |
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流木花鳥図(部分) |
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秋田蘭画の展示室 |
4.洋風画~油彩画と銅版画
洋風画の中心となるのは司馬江漢と亜欧堂田善の二人の画家とその作品であろう。二人は、西洋風の油彩画と銅版画に取り組んだ。
(1)司馬江漢
小田野直武に西洋絵画の技法を伝えたのが平賀源内といわれている。江戸の天才、異才から洋風画を学んだのは、ほかにも司馬江漢らがいる。司馬江漢は、当時の西洋文化を学べる唯一の場所、長崎に遊学している。ここでは、西洋だけでなく中国画家の沈南蘋
の写実的な花鳥画が当時の多くの画人に影響を与えた。沈南蘋の画風を江戸で広め、当時の画壇に大きな影響を与えた
のが宋紫石 である。その弟子の一人に司馬江漢がいる。
若き司馬江漢は、鈴木春信の弟子となり、浮世絵師としてスタートしたが、宋紫石に南蘋風の写実的な花鳥画を学んだのち、平賀源内や小田野直武らとの交流もあり、洋画風に関心が移っていく。西洋への眼差しは、絵画技法だけでなく油彩絵やさらに銅版画という新しい領域に取り組みようになる。
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西洋風景人物図屏風 |
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西洋風景人物図屏風 |
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西洋風景人物図屏風(部分) |
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学術論争図 |
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月下柴門美人図 |
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樹下美人愛児図 |
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樹下美人愛児図(部分) |
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卓文君図 |
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卓文君図(部分) |
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篭造り図 |
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異国風景図 |
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大峰覗岩図 |
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西洋婦人図 |
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西洋婦人図 |
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西洋職人図 |
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西洋職人図 |
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深川洲富士遠望図 |
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広尾親父茶屋図 |
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流水双馬図 |
(2)亜欧堂田善
亜欧堂田善は、司馬江漢とほぼ同時代を生きたが、江漢が江戸生まれで早くから浮世絵などを学び、多くの文人とも交流があった知識人でもあったのに対し。田善は東北の須賀川の生まれで、47歳までは家業の染物の仕事をしていた職人であった。田善47歳の時、白河藩主・松平定信に見出され、谷文晁に師事することになり、さらに江戸に出て銅版画を修得することを命じられ、本格的に西洋画法を学び始めた。
司馬江漢の弟子となって銅版画を学んだともいわれるが、白河藩の蘭学者の協力を得てその技術を習得したというのが定説のようだ。
定信に取り立てられた経緯は不明ながら、定信が領地巡回のおり須賀川に昼食ため立ち寄った居室に、田善が描いた「江戸芝愛宕山図屏風」に目を止めて呼び寄せたという。
定信は、銅版画技術を「海防」に、そして「解剖」などにも必要な技術として、田善に学ばせた。
晩年は、御用絵師を辞し町絵師に戻り、銅版画をあきらめ、日本画に移っていき、地元民のために描いた
という。
亜欧堂田善については、没後200年の記念展覧会が昨年、2023年に千葉市美術館で開催された。
(参照):
「亜欧堂田善」展を観た~千葉市美術館2023/02/11
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イスパニア女帝コロンブス引見図 |
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馬人物図 |
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蘭医図 |
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三囲雪景図 |
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三囲雪景図(部分) |
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大日本金龍山之図 |
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大日本金龍山之図・彩色 |
(3)安田田騏
田善の洋風画の画業を受け継ぐものたちが出てきた。なかでも安田田騏(1784-1827)は、この画系で最も画技に秀でた画人といわれる。
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象のいる異国風景図 |
(4)結城正明
医師の依頼により作成した銅版画で、ヒポクラテスを描いたものとされていたが、髑髏を抱え、頭に輪があることから聖人ヒエロニムスを描いたものとされた。迫真的な顔は忘れがたい。
結城は、幕末から明治にかけての絵師で、江戸に出て狩野派を学ぶが、維新後に画風を模索し西洋表現や銅版画を制作した。東京美美術学校で横山大観、菱田春草らを指導した。
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HIPPOCRATES→聖ヒエロニムス |
(5)中伊三郎
杉田玄白が、大槻玄沢に命じて解体新書の買い手版を作成させた。銅版画を作成したのは、京都の絵師・中伊三郎で、中は結城正明の師であった。
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大槻玄沢『解体新書』の改訂版 |
5.長崎の洋風画
鎖国の中で、西洋の窓口の中心になっていたのは長崎である。長崎で、西洋人物や異国の風俗を描いた絵師が多くいる。鎖国体制の中、人々は、こうした作品を通して異国の文化に触れていたのであろう。
(1)川原慶賀
よく知られているシーボルトのお抱え絵師として川原慶賀がいる。彼は出島の出入りを許され、シーボルトのいわばカメラマンとして活躍した。シーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
「彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている」
慶賀のほかにも長崎で、西洋人物や異国の風俗を描いた絵師がいる。
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蘭人図 |
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蘭人図 |
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蘭人図 |
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シーボルト像 |
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シーボルト像 |
(2)梅湾竹直公
竹直公については、署名に「瓊浦」とあることから長崎の絵師か、詳しいことが分かっていない。「西洋婦人図」は、額縁が珍しい16角形で、それを書く四角形の枠には青空を思わせるような色が塗られている。鑑賞者が窓から中を覗き見るような効果があるようだ。中に描かれているのは男女が花を愛でている姿、しかし、女性の目線は花籠を運ぶ若き従者に向けられている。画面全体が歪んでもいて異様な感覚を覚える不思議な絵だ。
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西洋婦人画・右は(1)の「西洋風俗画」、左は亜欧堂田善「イスパニア女帝コロンブス引見図 |
」
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西洋婦人画・額縁が16角形 |
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西洋婦人画 |
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西洋婦人画・額の隅に「瓊浦」の署名 |
(3)広渡湖秀
広渡湖秀は江戸時代中期の長崎の画家。舶来した書画の鑑定や模写などを行う「唐絵目利(からえめきき)」となり、御用絵師も兼ねた。
屏風の1扇ごとにそれぞれ各国の男女の姿を描いている。描かれているのは現代でいう中国、朝鮮、ベトナム、モンゴル、アメリカ、オランダ、アフリカなどの人物が描かれている。
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万国人物貼交屏風 |
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万国人物貼交屏風 |
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万国人物貼交屏風 |
(4)城義隣
城義隣は、長崎の町絵師で、出島に来た阿蘭陀人、中国人や異国船などを描いた。また通商を求めて来航したプチャーチン、レザノフなどの露西亜人などを安い絵の具で描いて量産したという。
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唐人・露西亜人図 |
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阿蘭陀人図 |
なお、板美では、2017年に「長崎版画と異国の面影」
展を開催しており、異国趣味に溢れた町の雰囲気を伝える版画
を多く展示していた。これらの版画も大量に刷られ土産物として売られたという。
(参考):
図録『長崎版画と異国の面影』植松有希,編
読売新聞社 2017年
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「万国人物貼交屏風」などの展示会場 |
6.江戸後期(19世紀)の洋風画
(1)安田雷洲
安田雷洲は、江戸における銅版画家としては司馬江漢、亜欧堂田善に続く、
重要で優れた作家である。 蘭名として「Willem
van Leiden」(ウィレム・ファン・ライデン)、また「Yasuda
Sadakiti」と落款した作品が残る。「雷」と「ライデン」をかけているのか?貞吉は通称。
雷洲がどうやって銅版画を身に付けたかは明らかでないが、北斎周辺の人物から習ったと推測されている。
その画風は、北斎の影響もあってか、洋風画と、中国の山水画を融合したような「奇想」が漂う。
雷洲の作品は、これまでも府中市美術館などで開催された展覧会でも観たことがあり、奇妙で不思議な画風に惹かれるものがあった。
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左・山水人物図 右・富士箱根遠望図 |
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富士箱根遠望図 |
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山水人物図 |
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山水人物図(部分) |
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山水人物図(部分)釣りをする人物など |
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山水人物図(部分)岩(滝?)の傍に家、屋根には石を置く |
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山水人物図(部分)大滝?の流れ |
(2)石川大浪・石川孟高
石川大浪は、江戸の旗本に生まれた。大浪の号は、喜望峰にそびえるテーブルマウンテンの中国名「大浪山」に由来し、作品の多くにそのオランダ名「Tafel
berg」とサインした。絵は狩野派から始めたが、杉田玄白などの蘭学者とも交流し、蘭書の挿絵を参照しただけでなく、それが内包する海外情報や図像の意味を理解した上で模写するなど深い教養と好奇心の持ち主だった。
(大浪の描いた杉田玄白の肖像画は早稲田大学図書館所蔵)
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麻姑仙人図 |
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異国風景図 |
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ターフェルベルグ天使図 |
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浜田弥兵衛台湾討入図 |
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浜田弥兵衛台湾討入図 |
浜田弥兵衛は朱印船貿易の商人で、台湾タイオワン)を占領したオランダと戦った。(1628年タイオワン事件)。本図は、フランソワ・ファンタインの著書(オランダ語版)『Oud
en Nieuw Oost-Indiën』の挿絵(下図)を模写したもの。
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フランソワ・ファンタインの著書(オランダ語版)『Oud en Nieuw Oost-Indiën』の挿絵(ウィキペディアより) |
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ヒポクラテス像 |
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杉田玄白肖像画(早稲田大学図書館蔵) |
石川孟高は、大浪の弟で、兄がターフェル・ベルグと称したのに合わせ、その山の隣にあるレーウベルク(獅子山)の名をとってサインしている。兄と同様、蘭書の挿絵や銅版画から洋風画を研究した。
ここでの作品は「天使」が題材となっているが、当時は空を飛ぶ姿から「天狗」と混同されるなど誤解も多かったようである。弟の天使のほうが、愛らしくなり、天使のイメージに近くなっている。
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天使図 |
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西洋婦人図 |
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獅子図 |
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火喰鳥図 |
(3)春木南瞑(なんめい)
春木南溟は開明的な大名としてられる松平春嶽
や北方探検家の松浦武四郎と交流があり、日本を取り巻く国際情勢に少なからぬ関心を抱いていたといわれる。
展示されている作品は、銅版画の作品を肉筆で模したもので、西洋への関心の広さがうかがえる。
なお、南瞑の代表作「虫合戦図」(神戸市立美術館蔵)は、幕末の緊張した状況を虫の兵隊で戦闘を描いた秀逸な作品である。
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「虫合戦図」(神戸市立美術館蔵) |
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「虫合戦図」(部分) |
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オランダ銅版画模 |
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オランダ銅版画模 |
板橋区立美術館では、これまでも歸空庵コレクションによる洋風画展を何回か企画されていて、そのたびに珍しい作品を観ることができます。今回も、小野田直武、司馬江漢、亜欧堂田善など、よく知られている画家の作品が多く展示されていましたが、これまで知らなかった信方、竹直公といった作品、またこれまでも興味を持っていた安田雷洲の作品もあり、充実した展覧会でした。
ところで、「歸空庵コレクション」という庵主は、どういう方なのか、知りたくなりますが、なかなか情報はありません。かつて個人コレクションとして、南蛮美術の作品を蒐集した「池永コレクション」がありました。これはいまは神戸市立美術館に所蔵されています。池永孟(いけながはじめ
)は、牧野富太郎の植物標本を買い取り研究を支援したことでも知られています。この時、孟は、25歳で京都帝国大学在学中だったそうです。
歸空庵コレクションは、板橋区立美術館に多く寄託されています。これからも充実したコレクションを観せて欲しいと思います。
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