2025年9月30日火曜日

千葉・旧神谷傳兵衛稲毛別荘

 

旧神谷傳兵衛別荘

稲毛にある神谷傳兵衛の別荘に行ってきました。ここは以前から行って観たいところでした。

京成稲毛駅から稲毛公園の松林を抜けて、約10分ぐらいのところにあります。

1.神谷傳兵衛(1856-1922

神谷傳兵衛は、三河国(現・愛知県西尾市)で生まれ、早くから酒造家になることを夢見ていた。

1880(明治13)年、浅草に郷里の三河に因んで「みかはや銘酒店」を開業し、当初は濁り酒を売っていたが、翌年、輸入の葡萄酒を販売する。さらに速成ブランデーである「電気ブラン」の製造販売を始め事業を拡大した。現在も、浅草に「神谷バー」があり、「電気ブラン」が看板商品になっている。電気ブランは、ブランデーをベースとし、ワインやジン、ベルモットなどをブレンドしたリキュール。

傳兵衛は本格的なワイン造りに挑み、1897(明治30)年に茨城県の原野にブドウ畑を開墾し、1903(明治36)年にはワイン醸造場のシャトーカミヤ(現・牛久シャトー)をつくるなど、1922(大正11)年に亡くなるまで、人生をワインづくりに捧げた。日本の「ワイン王」といわれる。

神谷傳兵衛

谷中霊園にあるお墓(2024年撮影)


2.稲毛海岸

明治21年、稲毛に千葉県初の海水浴場が設けられた。浜辺の松林の中に「稲毛海気療養所」(後の旅館「海気館」)もつくられ、保養所として知られるようになる。さらに、明治32年には総武鉄道の幕張~千葉間に稲毛駅が開業、大正10年には船橋~千葉間に京成電鉄が開通し、海水浴や潮干狩りに多くの客が増え、稲毛には旅館や別荘が建てられた。当時の稲毛は関東を代表する風光明媚な避暑地であった。

稲毛海岸の地図(神谷別荘・海気館・浅間神社)

稲毛海岸の絵葉書


3.別荘

稲毛の海岸近くに別荘を建てたのは、1918(大正7)年。当時は母屋である木造の和館とゲストハウス用の鉄筋コンクリート造り2階建ての洋館が隣接して造られたが、洋館のみが今に残っている。関東大震災前の建物が残っているのは貴重で、国の登録有形文化財となっている。

ガイドの方の話によると、見学に来られた人から「なぜ、こんな場所に立派な別荘を建てたのですかね?」という質問がよくあるということ。今は、近くを交通量の多い国道14号が走り、その先は住宅が立ち並び、海岸に出るまでは約3キロ近くある場所で、昔の避暑地だった面影はまったく残っていないので、不思議に思われたのも当然だ。

(1)和室

先に二階に上がると、本格的な書院造の和室。目に入るのは床の間に使われているくねった床柱、これは傳兵衛らしく葡萄の古木である。欄間、障子、窓などに美しい建具が用いられている。和室の中に洋風のデザインをした一室も設けられている。



葡萄の古木を用いた床柱










洋風のつくり



(2)階段・玄関ホール

緩やかな階段を降りると、玄関ホール。ランプが下がる天井の中心飾りには葡萄のレリーフが施されている。




葡萄のレリーフ




(3)洋間

応接間には、大理石でつくられた暖炉、木の色合いを活かした寄木つくりの床、広いテーブル、明るく光を取り入れる大きな窓など見事な造りである。




(4)ベランダ・外観

円柱に支えられた5連のアーチはモダンである。その下のベランダからは海が眺められただろう。いかにも別荘らしい。






(5)電気ブランなど

階段の踊り場には、「電気ブラン」と「蜂印香竄葡萄酒」(はちじるしこうざんぶどうしゅ)という蜂蜜で甘くしたワインが置いてある。

蜂印香竄葡萄酒

電気ブラン

神谷バー・ポスター

神谷傳兵衛の別荘が千葉の稲毛にあるのは知っていましたが、なかなか来る機会がありませんでした。建物や近くの公園に残る松林をみて、昔の稲毛海岸で遊びたくなる気分になりました。


2025年9月29日月曜日

千葉・登戸と稲毛

 

葛飾北斎・富嶽三十六景《登戸浦》1830-34年ごろ)


千葉の登戸と稲毛に行って、二つの神社に参拝してきました。この辺りは、私にとって懐かしい場所です。今では想像もつきませんが、これらの神社のすぐ近くを走る国道14号線から先は海だったのです。今は埋立てされ、官庁や住宅が立ち並らび、海は見えませんが。

1.登渡神社

登渡神社は千葉市中央区登戸に位置する。神社は「とわたり」で地名は「のぶと」である。登戸という地名は、いくつかあり、よく知られているのは川崎市の登戸で、こちらは「のぼりと」と読む。地名の由来は多摩丘陵への「のぼり口」にあたることからだとされる。同じように、ここ千葉の登戸も海岸から急に丘に登る入口に当たる。

この辺りは、かつては登戸浦と呼ばれる入江で、 江戸時代には船で江戸に年貢米や海産物などの物資を運ぶ交通の要衝として繁栄していた。いまでは想像もできないが、海は遠浅で、汐干狩りなどが楽しめた。葛飾北斎の富嶽三十六景《登戸浦》は鳥居のある海岸で汐干刈りを楽しむ人たちが描かれ、鳥居の間からは富士山が望まれる。

登渡神社は、由緒によれば、千葉氏の末裔、登戸権介平常胤が祖先を供養するため、地区の最高点である遠望台(標高約15m)に千葉妙見宮(現在の千葉神社)の末寺を1644年に勧請し、僧定弁を守護の任にあてたのが始まりとされる。その後、1867(慶応3)年に、登渡神社と改め祭神を妙見菩薩と同一視される天御中主神以下の造化三神に定める。

社殿は、総檜造で、もとは寺院であったことから伽藍構造の特徴を持っている。95日は例祭で神輿渡御などが賑やかに催される。子供のころ、このお祭りに屋台がたくさん出ていたのを覚えている。この神社の向かいに登戸小学校があり、ここに通った懐かしい思い出がある。1873(明治6)年に開校した日本一古い小学校の中の一つだというのは、今度調べていて初めて知った。。

葛飾北斎・千絵の海下総登戸1830年ごろ)


登渡神社






お祭りの屋台(千葉に住む友人の写真から)


登戸小学校



2.稲毛浅間神社

稲毛浅間神社は千葉市稲毛区に位置する。先の葛飾北斎の《登戸浦》に描かれた海にある鳥居は、登渡神社ではなく、海中に鳥居があったことが記録されている稲毛浅間神社ではないかとする指摘もある。

「稲毛(いなげ)」という地名は、古代の官職名「稲置(いなぎ)」に由来するともいわれている。浅間神社は名前の通り富士山信仰によるもので、808年、富士山本宮浅間大社から勧請したのに始まるとされる。

鎌倉から室町時代にかけては、千葉全域に君臨した関東の有力豪族である千葉氏が、一族の守護神である「妙見菩薩」とともに代々、浅間神社への信仰が篤かったといわれる。1187(文治3年に社殿を再建した時には、富士山の姿にならって山を整え、富士山道のように三方の参道を山に設け、社殿は湾の向こうの富士山を正面に望むように建立された。

1962(昭和34)年、原因不明の火災により、文治再建の社殿が焼失したが、1966(昭和41)年に再建されたのが現在の社殿である。

例大祭は714日から15日にかけて行われる。例大祭のお参りは1年間毎日参詣するのと同じご利益があるとされ、昔から「近郷7歳以下の児童は必ず参加する習慣があり、遠きは数里より集うもの万余に及ぶ。」(『千葉市誌』昭和28年)と記されるとおり、多くの人が集うお祭りであったという。現在も、神楽や稚児行列などが行われ、通りには露天が多く並ぶ。

稲毛区に所在する緑町中学校に3年間学び、冬にはマラソン大会があり、ここ稲毛海岸の松林が折り返し地点で走った思い出がある。緑中は、1947(昭和22年、学制改革により千葉市立第五中学校として発足、1951(昭和26年に千葉市立緑町中学校と改称した。

ちなみに、マツコ・デラックスは稲毛の出身、キムタクとは同じ高校(千葉県立犢橋高校)だったという。

ジョルジュ・ビゴー《稲毛海岸 1903明治36年・千葉市美術館蔵

左手奥に小さく見えるのは、当時海中にあった稲毛浅間神社の一の鳥居。今は埋め立てられて見る影もない。


稲毛浅間神社



松林




自分が小学校のころは、登渡神社の下の海岸に出て、汐干狩りや、小魚を獲ったりしていました。高台にある小学校からは、富士山がよく見えました。また、中学校のころは、近くの学校と野球の試合をやったりしていました。高校のころになると、埋立が一気に進み、海が遠くになったように思います。そんな埋立地にいって写真を撮ったりしていました。懐かしい思い出の場所です。

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