2025年9月4日木曜日

東京異空間341:戦争協力画~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館

 

東京国立近代美術館

先に、「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館の「戦争画」(作戦記録図)について見てみましたが、これらの多くは、写実を重視して洋画で描かれています。一方、日本画の画家たちは、直接、戦闘場面を描くのではなく、象徴的なモティーフを主題にして戦争に協力する絵を描いています。今回は、こうした日本画や、戦意高揚を図るための絵を観ていきます。

1.戦争協力画

「作戦記録画」は、洋画家によってリアリティのある戦闘場面が描かれたものが多く、その代表が藤田嗣治である。一方、日本画家のほうは、戦争画を描いたものもあるが、戦闘場面そのものを描いたものよりも、富士山、旭日といった国体を「象徴」するモティーフや、空飛ぶ猛禽 歴史的主題などを描き、戦意を高揚させるものが多い。これらは「彩管報国」、つまり絵を描くことで国家に報いるという考えから制作された。また、日本画は、洋画に比べマーケットが大きく、これらの作品の売り上げは軍資金に使われた。そうした「戦争協力画」の代表が横山大観である。

(1)日本画による戦争画 

山口華楊 《基地に於ける整備作業》 1943 第二回大東亜戦争美術展出品

1943年、華楊は海軍の従軍画家としてインドネシアに赴いた。海辺の前線基地に着水した戦闘機を整備兵たちが迎えている。パンツ姿のたくましい兵士が搭乗員のブーツが海水に濡れないよう背負って浜まで運んでいる様子が描かれている。水上戦闘機は、プロペラやフロートなど細部に至るまで克明に描かれている。





《基地に於ける整備作業》のための<下絵> 



<山口華楊発 上田秀雄宛書簡> 1943

山口はインドネシアに派遣される直前、知人に一通の手紙を出した。次のように書かれている。「銃後もいよいよ第一線と変わりが無くなりました・・・絵画がこれからどうなるだろうとか世の中がどうなるだろうかとか、そんな空想の時ではありません。もっと切実に此の戦争を勝ちぬく為めに闘うべき時代です」

文面から、当時の画家としての華楊の覚悟がうかがい知れる。



川端龍子 《輸送船団海南島出発》 1944

海南島は南シナ海北部に位置し、この島で鉄鉱石を採掘し本土へ送る輸送作戦は、戦争末期になると決死の様相を帯びた。そんな主題に日月と南十字星が描き込まれている。日月には、天に命運を祈るという意味合いがあり、南十字星は、当時、南方への領土拡大のシンボルであり、祈りの仕草にも見える。




岩田専太郎 《小休止》 1944 

岩田は大正から昭和にかけて、大衆小説の挿絵を描き、とりわけ華麗で官能的な女性像が絶大な人気を博した。そんな岩田も、時代の要請から戦争記録画を描いている。岩田は戦後に次のように書いている。

「華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とは知りつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道局の命令で《神風特攻隊吉出発》の記録画を描いている。・・・それが、戦争が終わると、またもとのような華麗な絵を描け、との注文である。どうすればいいのだ!と思った。」(『わが半生の記』1972年より)




矢沢弦月 《攻略直後のシンガポール軍港》 1942

資材が大量にある軍港とそこに立つ日本兵が裏に描かれている。シンガポールは194228日から戦闘が開始され、同年215日に英豪軍が降伏している。 2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を日本軍が10日足らずで攻略した結果、イギリスが率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。当時のイギリス首相であったウキストン・チャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評した。




(2)「大東亜共栄圏」「紀元二千六百年奉祝」などの図像化

戦争を遂行するために打ち上げた「大東亜共栄圏」の構想を図像化した絵画が描かれ、また「紀元二千六百年奉祝」として開催された展覧会に、多くの画家たちが出品している。

和田三造《興亜曼荼羅》 1940

1940年の第二次近衛内閣が唱えた「大東亜共栄圏」という対アジア構想は、日本を中心としてアジアのあらゆる民族が共存共栄する共同体の構想を理想としていた。その理想を図像化したのがこの絵である。画面内にバリ島、インド、タイ、ミクロネシア、朝鮮、中国などの建築・風俗がびっしりと描き込まれ、画面中央に君臨する巨大な白大理石の彫像が担がれる。これが「アジアのリーダー」たる日本を象徴している。本作をもとに2メートル超の大作が描かれ、紀元二千六百年奉祝展の招待日のみ公開され、その後、大阪高島屋の食堂に飾られていたが、戦災で失われてしまった。




伊谷賢蔵《楽土建設》1940

伊谷は1939年に陸軍従軍画家に志願して中国北部を訪れ、また華北交通の嘱託を務め、中国大陸の風景と人々を繰り返し描いた。この作品では、赤子に乳をあたえる母親を中心に麻袋に収穫物を詰める男たちや子供たちを配置した群像で構成しているが、題名とは裏腹に人々の表情は明るくない。戦禍の苦しみながらも生き抜こうとする大陸の名もなき人々に寄り添うようなまなざしである。しかし、子供が日の丸の旗を手にしていることからも明らかなように、当時はあくまでも日本主導で「楽土」を建設するという文脈の上にあった。





猪熊源一郎 《長江埠の子供達》 1941年

猪熊は19415月に報道班員として中国に渡り、長江埠で見かけた子供たちを描いた。描かれた子どもたちは極めて冷淡な「他者の眼差し」で画家を、そしてこの絵を見る者を見つめている。支配国からやってきた画家が体験した疎外感が描き出されている。

描かれているような瘦せ細った子供は、今もガザでの戦争で見る。戦争は子供、女性など弱い者を犠牲にする。





梅原龍三郎 《北京秋天》 1942

梅原は1939年から1943年まで毎年、北京を訪れている。この作品は、広々と澄み渡った秋空が描かれ、戦時下に置かれていることを感じさせない。しかし、当時はこうしたイメージは日本の大陸進出の成果として人々に受け止められていた。



福沢一郎 《牛》 1936

福沢は1935年に満州国を旅行したが、旅行前には建設と生産の国と聞いていたのに、現地を訪れると多くの人々が道端で昼寝をしているのに驚いたという。描かれた二頭の牛は威容を誇るが、よく見ると部分的に穴が開き、安普請の看板のように見える。理想国家と宣伝された「、満州国」の虚像と現地での体験した現実とのギャップが象徴的に描き出されている。




福沢一郎《人》 1936

二人の後ろにあるのは戦闘機であろうか。先の《牛》と同じように、人間も抜け殻のように描かれ、「空虚」さが込められている。



フェルナンド・アモルソロ《バターンの女性》1942

20世紀のフィリピンを代表する国民画家のひとり。1942年以降の日本占領下のマニラで、日本軍への抵抗の意志を示す絵画を多数制作した。

バターン半島での日本軍との激戦は、投降した米軍・フィリピン軍捕虜を収容所まで歩かせ、多くの犠牲者を出した「死の行進」で知られ、バターン半島は後にフィリピンの愛国・抵抗を象徴する場所となった。キリスト教の図像学を介して、倒れた兵士を悼む女性が描かれる。





(3)「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」出品作品

戦時中には、これらの戦争画、戦争協力画を展示する展覧会が日本各地を巡回し、また作品の売り上げは、軍資金として戦闘機等に使われた。

荻須高徳 《モンマルトル裏》 1940




須田国太郎《歩む鷲》 1940

鷲は、当時の日本では戦闘機を象徴する戦勝祈願のモチーフである。





桂ゆき 《作品》 1940

元々は《賀象》という、祝賀的なタイトルであった。桂ゆきは、「女流美術家奉公隊」のメンバーである。




横山大観 《海に因む十題》《山に因む十題》紀元二千六百年奉祝記念展覧会 絵葉書 

昭和15(1940)年、大観は皇紀2600年の奉祝と自らの画業50年とを記念して、「紀元二千六百年奉祝記念展」を開催し、海を題材にした「海に因む十題」と、富士を題材にした「山に因む十題」の計20幅を出品した。 当時、展覧会は二会場で開催され、「海に因む十題」は東京・日本橋の三越で、「山に因む十題」は東京・日本橋の髙島屋で展示された。その売り上げ総額50万円は、陸海軍にそれぞれ25万円ずつ献納され、その軍資金によってつくられた4機の軍機は「大観号」と名付けられ た。



横山大観 《春風万里乃濤》 1942

「春風万里乃濤」とは、春風が「万里」をわたり、やがて「濤」となること。描かれた海は祝祭にも鎮魂にも読める。春の到来を祝う高揚にも、去りゆくものへの祈りにも通じる。また、国土礼賛とも読める。

国民精神の昂揚が叫ばれる中、大観の海景は「海国日本」の象徴と読まれた。だが作品自体に軍艦も国旗もなく、描かれるのは風と濤のみである。観る者がそこに覚悟や昂揚を読み取るのは、図像の直接性ではなく、運動が生む倫理的な気分による。大観は自然の運行に寓意を宿す力を持っていた。 軍用機献納作品展に出品された。



岡田三郎助 《民族協和》絵葉書

満州国のスローガンである「五族協和」を視覚化するように、漢、満、日、朝、蒙の民族衣装を身につけた女性たちが手をつなぎ、軽やかなステップで踊っている。この作品は、新京(現・長春)の満州国総務庁玄関に壁画として制作されたが、現存しない。しかし、描かれたイメージは絵葉書や切手などにより広く流布した。



鬼頭鍋三郎 《輝く対面》『主婦の友』第25巻第5号 1941 

西城八十による詩が付けられている。

無量のおもひ、額づけば
森厳たりや、神殿(ひもろぎ)の、――
ああ、ここにこそ、なつかしの
良人の御霊住みたまふ。

(・・・)

君国と共に生死する
夫婦の幸を想ふとき、
神苑の桜、珠と散る。

戦没者の遺族は「誉れの家」として称えられた。その子供たちは「靖國の遺児」と呼ばれた。祖国日本のために生命をささげることを誓う女性の姿は、「聖母子」の姿に重ねあわされる。

鬼頭は、市立名古屋商業学校を卒業し、明治銀行に勤め、退社したのち画家にな る。美術学校で専門教育を受けたことはなく、退社の翌年23歳のときに美術研究所「サンサシオン」 を設立し、そこで仲間とともに画力をみがいた。24歳のとき岡田三郎助に師事した。1944年(45歳)陸軍版画部派遣画家として華南に従軍した。戦後は「舞妓」シリーズなどを描いた。



(4)軍用機献納作品展

日本画家報国会が主催した「軍用機献納作品展」は、1942(昭和17)年に日本橋三越で開催され、その後、大阪に巡回した。これらはすべて三越に買い上げられ代価20万円(現在の約5億円)は陸海軍に、作品は東京帝室博物館に納められた。戦争とは無関係な作品に見えるが、国土を象徴する富士や桜、国花である菊、戦闘機を暗示する猛禽類、祝勝を象徴する鯛などのモチーフには、戦勝祈願の意図が込められている。そのほかにも、歴史画や良妻賢母の理念を説く主題などが好まれた。

竹内栖鳳 《海幸》 1942

竹内栖鳳は晩年の一作《海幸》を描き、「軍用機献納作品展」への出品した。絹本に彩色をほどこし、精緻な筆触と豊かな色彩をもって描かれたこの作品のタイトル「海幸」は、日本神話における「海幸彦・山幸彦」伝承を想起させる。

縁起の良い鯛の図には、戦勝の意味が暗に込められている。



秋野不矩 《桃に小禽》 1942

桃は春を象徴する吉祥の花であり、長寿や繁栄のシンボルである。小鳥は生命の軽やかさを表す存在で、伝統的な吉祥的象徴性をもった花鳥画と言える。

しかし、そこに個人的な寓意性を読み取ると、大きな枝に寄り添う小鳥は、戦時下で抑圧される個人の姿と重なり、同時に未来への希望を秘める存在でもあるようだ。




広島晃甫(新太郎) 国光瑞色 1942

題名の 「国光」は国家的光輝・国威の比喩であり、「瑞色」は吉祥を告げる色、すなわち「瑞祥」を視覚化す色彩の総称である。




植中直斎 《重成夫人》 1942年 

江戸時代の武将・木村重成にまつわる伝説では、大坂の陣に出陣する重成の死を悟った妻が、兜に功を焚き染めた後、自ら命を絶ったと伝えられている。この逸話は、戦時中に武家の美徳を表わす画題として好まれた。

直斎が描いたのは、夫人が夫の兜を手に取る一瞬の場面である。足もとには香盆・香炉・香包が丁寧に描き込まれ、香の気配が画面に漂うように構成されている。人物描写においては、夫人の表情は沈痛さを帯びつつも毅然とした気品を失わず、まさに戦時下に要請された「大和撫子」の理想像が具現化されている。





三谷十糸子(みたに としこ) 《惜春》 1942

1941年(昭和16年)、上村松園と共に中国の風物と風俗描写、慰問を目的として1029日に京都より出発、上海、杭州、南京、鎮江、蘇州を旅行し、121日に帰国した。

1942年という制作年は、作品に避けがたい時代の陰影を落としている。タイトルが示す「惜春」とは、春が完全に去ってしまうその直前、最後の光の粒が空気に浮遊している——そんな一瞬をこの絵に込めている。




山口華楊 《鴨》 1942 軍用機献納作品展出品作品

ただ一羽の鴨を描いた小品でありながら、水面に息づく静謐、沈黙にひそむ動勢といった時局の深層を描いているともみえる。この絵のように一見、戦争とは関係ないモティーフであるが、

いっぽうで、山口華楊は、先に見た《基地に於ける整備作業》という戦争の場面も描いている。




(5)戦艦献納展出品作品

1944年2月に東京帝室博物館表慶館「戦艦献納帝国芸術院会員美術展」が開催された。さかのぼること2年前、日本海軍は第三次ソロモン海戦で戦艦2隻を失い、その喪失は国民に衝撃を与え戦艦献納運動が広がる。この展覧会には帝国芸術院の会員である横山大観、川合玉堂、小林古径、安田鞆彦などの日本画の大家が参加した。

安田鞆彦《小楠公》 1944

楠木正成(くすのきまさしげ) が「大楠公(だいなんこう)」として神格化されたのに対し、 父の遺志を継ぎ戦った嫡男・正行は小楠公(しょうなんこう)として崇められるようになり、楠公親子は「忠君愛国」の象徴として、 命に代えて天皇を守るという当時の日本国民のロール・モデルとされた。




前田青邨 《おぼこ》 1944

「おぼこ」とは、ボラの幼魚のこと。日本の河川や沿岸において春から初夏にかけて群れをなして遡上することで知られる。その生態は古来より漁師たちにとって身近であり、また子どもの健やかさや無垢の象徴としても民俗的な文脈を帯びている。おぼこは個々の命の可憐さよりも、大群としての存在の象徴、すなわち若き兵士たちに他ならない 。




(6)満州国建国十周年慶祝献納画展

1932(昭和7)年、満州事変の翌年に、日本の傀儡国家として「満州国」が建国された。この画帖は、その建国10周年を記念して制作されたもので、当時の内閣総理大臣であった東条英機に贈呈された。《画帖1》は横山大観ほか13名、《画帖2》は中村不折等11名による。

《画帖1》 1942-43

横山大観

荒木十畝

川合玉堂

小室翠雲

上村松園

結城素明

《画帖2》 1942-43

中村不折

小林万吾

中沢弘光

山下新太郎

小杉放菴

石井柏亭

岡部長景

東条首相は、1942107日満洲国建国十周年を寿いでわが慶祝会から満洲国に献納する絵画の製作者及び満洲国皇帝陛下に献上した花瓶の製作者の労を犒ふ為、これ等の美術家を首相官邸に招待した。出席者は横山大観、川合玉堂、安田鞆彦、藤田嗣治ら、18名。陪賓として日満文化協会副会長・岡部長景等であった。

なお、岡部は、戦後、戦犯容疑者として拘留、昭和21年公職追放された。釈放後は、昭和27年に東京国立近代美術館の発足にあたり、初代館長に就任している。

(参考):

『画家と戦争』別冊太陽 河田明久 監修 2014

前回の戦争記録画では、従軍画家として戦地に赴き、戦闘の場面を描いた画家たちを観てきましたが、今回は、直接、戦争の場面を描かなくとも、戦争に協力した画家たちについてみてきました。まさに「彩管報国」、すなわち絵筆をとって国に報いる、ということが従軍画家に限らず当時の多くの画家たちの使命となっていました。

続けて、戦後、画家たちの戦争責任の問題などについても見てみたいと思います。


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