| 「ザ・ファミリー・オブ・マン写真展」@日本橋高島屋 |
2026年8月12日から24日にかけて、日本橋高島屋で開催された「ザ・ファミリー・オブ・マン写真展」を観てきました。
いまから約70年ほど前にニューヨークで開かれたこの写真展は世界各地を巡回し、累計900万人を超える来場者を集めたといいます。日本でも日本橋髙島屋を皮切りに20都市以上で開催され、約100万人が来場したとされ、写真史では、よく知られた歴史的展覧会です。
今回の展覧会は、サブタイトルに「人類愛と平和のビジョンを、いま再び」とあるように、1956年に同じ日本橋高島屋で開かれた伝説的な展覧会から70年ぶりのリバイバル開催です。写真展の歴史もあわせてみてみます。
1.「ザ・ファミリー・オブ・マン」展
「ザ・ファミリー・オブ・マン」展は、1955年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された、写真史における「20世紀最大の写真展」と称される伝説的な展覧会である。この展覧会は8年間世界各地を巡回し、900万人以上の来場者を集めた。 日本では1956年に日本橋高島屋などで開催され100万人以上を動員、世界全体では900万人以上が観覧した。現在は、展覧会のそのものがスタイケンが生まれたルクセンブルクのクレルヴォー城に永久展示されており、ユネスコの「世界の記憶(世界記憶遺産)」にも登録されている。
この展覧会は、当時、近代美術館MoMAの写真部長を務めていた高名な写真家、エドワード・スタイケン(Edward Steichen)が中心となり企画された。 スタイケンは写真家たちに作品の応募を呼びかけ、世界中から集まった200万枚以上の写真から精査を重ね、世界68カ国・273人の写真家による503点の作品を選び出しました。参加した写真家には、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ロベール・ドアノー、ユージン・スミスなど、写真史に名を残す巨匠たちが含まれている。
<ロベール・ドアノー>
エドワード・スタイケンは、1879年、ルクセンブルグに生まれ、2歳の時、家族とともにアメリカに移住する。少年時代、絵画と写真に興味を抱き、16歳の時にカメラを初めて買った。1900年(21歳)には、 アルフレッド・スティーグリッツと知り合う。その後、 とくにファッションや広告の写真で活躍し、1920年代から30年代にかけてアメリカでもっとも稼ぐ写真家となった。 戦後は、ニューヨーク近代美術館の写真部門ディレクターを1946年から1962年まで務め、この時に「ザ・ファミリー・オブ・マン」展を企画した。
(2)テーマ
第二次世界大戦の終結から10年、米ソ冷戦や核兵器への不安が募る緊迫した時代において、「人類は一つである」という強い平和へのメッセージを打ち出す。その一貫したテーマは「人間」である。人間の「誕生から死まで」にわたる、国境や人種、文化を超えた人間共通の普遍的な営みや感情をテーマにしている。展示構成は、 「恋人たち」「家族」「教育」「労働」「戦争の顔」「水爆実験」「子供たち」など、37の章に細かく分類され、フォトエッセイの形式をとっている。
(3)展示方法
展示方法は、当時の美術館における「額縁に入れて等間隔で壁に掛ける」という伝統的な鑑賞スタイルを覆し、すべての写真は額縁に入れず、直接パネル化して展示された。さらに、それぞれの写真は作品ごとにサイズ変化をつけ、写真が壁から突き出していたり、天井から吊り下げられて自立した壁のようにしたりして、来場者は写真の「間」や「裏側」を歩き回るように設計されていた。これにより、平面的ではなく3次元の空間体験(没入感)を生み出した。
また、展示空間には写真家名などの文字情報が非常に小さく配置されているのみで、説明文や解説パネルはほとんど付けず、鑑賞者が言葉(先入観)に頼らず、写真のイメージと直接対峙して、自らが考え、感じるように工夫されていた。
(4)写真展に対する批判
この写真展は絶大な人気を博した一方で、後に思想家のロラン・バルトをはじめとする批評家たちから「世界にある貧困や人種差別などといった過酷な政治的・経済的な格差や、歴史的背景を『人間はみんな同じ』という美名のもとに覆い隠してしまった」という厳しい批判も受けた。また、冷戦期における「アメリカ的な民主主義や中間層の価値観」を世界に浸透させるためのプロパガンダ的側面があったことも指摘されている。
| 中央の写真はアンリ・カルティエ=ブレッソン |
| アインシュタイン |
「教育」
「選挙」
2.日本での「ザ・ファミリー・オブ・マン」展
1956年、戦後復興期の日本において、この展覧会が開催された。日本橋高島屋を皮切りに、全国20都市以上で大規模に開催され 「人類はみな家族」というストレートなメッセージが戦後日本の人々の心をとらえ、全国で約100万人が来場する歴史的社会的現象となった。
1955年のニューヨーク近代美術館(MoMA)でのオリジナル展示には、アメリカ側の意向もあり原爆被害の写真は含まれていなかったが、スタイケンの指示により、山端庸介をはじめとする9人の日本人写真家による作品(広島の原爆被害の写真など)が追加され、より日本に引き付けた内容として構成された。
(1)実行委員
展覧会は、日本経済新聞社やアメリカ文化情報局(USIS)などが主催し、委員会が組織され、委員長にはスタイケン、委員には建築家の丹下健三(42歳1913-2005)、写真界からは金丸重嶺(55歳1900-1977)、木村伊兵衛(54歳1901-1974)、渡辺義雄(48歳1907-2000)、石元泰博(34歳1921-2012)が加わり、主催側として日本経済新聞編集長円成寺次郎(48歳1907-1994)などで構成された。
(2)展示会場のデザイン:丹下健三
実行員会名簿で委員長の次にランクされている丹下健三が国内展の展示空間の設計にあたった。丹下による会場構成は、単に「写真を並べる枠組み」を超え、空間デザインそのものがビジュアルコミュニケーションにおいて重要なメッセージを伝える媒体になることを示した。
なお、丹下は当初『人間家族』展については特に大 きな興味を抱いておらず、スタイケンについてもほとんど知識 がなかったという。しかし、1955年、展示プロジェクトの実現の ため来日していたスタイケンに京都で会い、協力姿勢に転じた と述べている。
(3)参加した日本人写真家
主な日本人写真家の作品をあげて置く。
木村伊兵衛: 『秋田の農村(大曲)』を舞台にした、田植えをする農家の女性たちの姿。
石元泰博: 『シカゴ』または『東京』で撮影された、子どもたちが遊ぶ様子や都市の日常の一コマ
田沼武能: 下町(東京・浅草など)で無邪気に遊ぶ子どもたちの写真。
山端庸介:長崎の原爆投下翌日(1945年8月10日)に撮影された「爆心地付近の生存者(母子、おにぎりを持つ少年など)」
9枚の顔写真の中央に「おにぎりを持つ少年が置かれている。
(4)日本の写真界に与えた影響
1950年代前半の日本写真界は、土門拳らが提唱した「絶対非演出の絶対スナップ(リアリズム写真運動)」が主流であったが、「ザ・ファミリー・オブ・マン」の到来はこの潮流を大きく変えることになった。というのは、 同展は、写真家が撮影した個々の作品のコンテキストを無視し、展示の意図に合わせて引き伸ばし、トリミング、テキストを並置して配置するといった「演出」をとっていた。また、個々の写真家の「作家性や特色」が封印され、キュレーター(スタイケン)という「編集者」の意図によって完全にコントロールされた展示デザインは、「写真は誰のものか」「写真のメッセージを決めるのは撮影者か、編集者(あるいは空間)か」といった、大きな課題を日本の写真界に突きつけた。
これを機に、土門的リアリズムから脱却し、写真家の内面や美学を重視する「主観主義写真」や、後に「VIVO(東松照明、奈良原一高、細江英公ら)」を結成する若手写真家たちによる、より私的・前衛的・批評的なドキュメンタリー表現への移行が加速することになった。
(5)山端庸介
参加した日本人写真家のうち、山端庸介の果たした役割は大きかった。その一つは、原爆の写真を展示したこと、もうひとつは、展覧会に展示されるすべての作品のプリントを担当したことである。
山端が原爆投下翌日(1945年8月10日)の長崎で撮影した「おにぎりを持つ少年」などの生存者の写真は、このセクションの極めて重要なピースとして選ばれた。日本展では、原爆投下によって見渡す限り瓦礫と化した長崎の街並みを撮ったパノラマ写真も追加された。彼の写真は、たった一日の撮影でありながら、単なる戦況記録ではなく「逃げ場のない核の現実と、その中で生きる人間の顔」を克明に捉えている。
9枚の顔写真の次のピースは「水爆実験」の大画面である。
1956年の日本巡回展における山端庸介のもうひとつの極めて重要な貢献が、「日本展で展示された全作品(約500点)のプリント・引き伸ばし作業を一手に引き受けたこと」である。これは単なる「印刷の受注作業」ではなく、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が提示した世界最高峰の展示クオリティを日本で忠実に再現、あるいはそれ以上のものにするための「職人的・表現技術的な大事業」であった。アメリカ側から提供された貴重なオリジナル・ネガ(または複製ネガ)をすべて預かり、日本国内で焼き付けるという大役は、山端の技術が世界基準で信頼されていた証拠でもあった。
この大役を担ったのは、庸介の父・山端祥玉が1927年に東京・築地に設立した「合資会社ジーチーサン商会」にあり、これが1943年に「山端写真科学研究所」へと改称された。この研究所が他と一線を画していたのは、「日本初となる高速度輪転写真」や「超巨大プリント」の技術開発であった。その象徴的な実績として、戦時中の1943年、東京有楽町の日劇壁面や大阪高島屋の正面に掲げられた「100畳敷写真大壁画(『撃ちてし止まむ』)」(戦争プロパガンダ)の制作・引き伸ばしがある。当時、これほど巨大な印画紙の現像・焼き付けを均一に行える組織は、日本国内に山端写真科学研究所をおいて他になかったとされる。
父・祥玉と庸介の略歴をみると、二人とも戦争に深く関わっていたことが分かる。
山端祥玉(1887-1963)の略歴
1887年4月4日、福井県生まれ。
1910年、蘭領スマトラ島メダン市の朝日写真館技師長に就任。
1914年、英領シンガポールに写真材料商サン商会と写真館設立。
1927年、ジーチーサンサン商会を東京築地に創設(1943年に山端写真科学研究所と改称)。
1937年より終戦まで、内閣情報部、海軍省、陸軍省の嘱託となり、1938年より陸軍の上海写真製作所であるプレス・ユニオン・フォトを名取洋之助と共に担当。
1945年10月、写真通信社サン・ニュース・フォトスを設立。
1946年、G.T.サンを再興する傍ら、毎日新聞社の出資を得てサン写真新聞社創設。
1947年、公職追放となり、各社代表を退く。
1963年2月24日没。
山端庸介(1917- 1966)の略歴
1917年、英領シンガポールに生まれる。父は山端祥玉。
1925年に帰国後、青山学院中等部を経て法政大学予科に入学するが、1936年に中退。
1935年に父からライカを譲り受けたのを機に本格的に写真を始め、中退後は父が経営する「ジーチーサン商会」にカメラマンとして就職した。
1940年、海軍省軍事普及部従軍写真班員となり、中国大陸や台湾、インドシナ、シンガポールなどを巡り撮影に従事する。
1945年、陸軍西部軍管区の報道部へ徴用(軍嘱託の写真報道班員)される。
1945年8月10日 長崎への原爆投下(8月9日)の翌日未明、軍の命により長崎市へ徒歩で入る。
爆心地周辺を含む凄惨な惨状を約12時間かけて100枚以上撮影。この時撮影された「おにぎりを持つ少年」や「黒焦げの少年」などの写真は、被爆直後の状況を伝える最も包括的かつ貴重な視覚的記録となった。
戦後はグラフィック・タイムス・サン社の社長などを務める。
1945年、ライフ社による「人間天皇」の写真を撮りたいという申し出があり、父とともに皇居で天皇一家を撮影した。皇居で撮影されたこれらの写真は、植物の手入れや家族との散歩、アメリカの新聞や漫画を読む姿などを捉え、天皇を親しみやすいファミリーマンとして紹介した。翌年、『LIFE』2月4日号に「Sunday Hirohito」として掲載された。
「日本の皇室は『特別な栄誉』として、12月の日曜日(12月23日(皇太子・明仁親王の12歳の誕生日)に皇室の方々を撮影することをライフ誌に許可した」と記事には書かれている。「皇室は暗殺を恐れているため、アメリカ人カメラマンは排除され、サン通信社の日本人カメラマン(山端)が起用された。」
父親の山端祥玉は、戦前から写真撮影や印刷・プリント業務を行う「ジーチーサン商会」を経営しており、皇室関係の公式写真などを手がけ、宮内省から高い信頼を得ていた。
1952年、撮影写真を取りまとめた『記録写真―原爆の長崎』を出版。
1955年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された歴史的な写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」に長崎の写真が出品され、世界的な大反響を呼んだ。
1966年、48歳の若さで逝去(病没)。彼が残した写真原板(ネガフィルム)は、現在は日本写真保存センターなどで大切に管理・保存されている。
(6)天覧事件
写真展の開幕から2日後の1956年3月23日、昭和天皇が日本橋高島屋の会場を視察されることになった。 その際、共催者である日本経済新聞社の幹部・円城寺次郎らは、「敗戦からまだ日が浅く、原爆の被害写真は天皇に対して刺激が強すぎる」と政治的に配慮し、天皇がその展示エリアを通過する間だけ、山端の原爆写真の前に「紫色のカーテン」を引き、見えないように目隠しをするという措置が密かに取られた。
この事件が発覚すると、実行委員だった木村伊兵衛をはじめ、名取洋之助、伊藤逸平、渡辺勉、田中雅夫といった当時の日本写真界を代表する大物写真家や批評家たちが連名で主催者側に猛烈な抗議を行った。
このことは、戦後日本における「表現の自由」と「天皇への配慮(タブー)」が衝突した最初期の重大な事件として、日本の写真史・美術史に深く刻まれている。
しかし、当の山端は感情的に激昂することはなく、終始落ち着いた様子で事態を見守っていたという。このあまりに「淡々とした反応」は、周囲の熱い反発ぶりと好対照をなすものとして記録に残されている。
(こうした山端のスタンスは、戦後まもなく、山端親子が天皇一家の写真を撮ったことからも推測できよう。)
山端は、次のように述べている。
「ここに掲げられた兄弟、親子は一帯その後どうしたであろうか。・・・この人たちは、その後に起こる恐ろしい原爆病をさけることはできたであろうか悲しい事実である。長崎に原爆が投ぜられてから12年、人間の記憶や思想は年々環境や生活の変化で過去の批判を誤ったり、あまくみがちであるが、カメラがつかんだ現実は冷厳で拒むことはできない。今日でもすこしも粉飾されず当時を物語っている。」(「原爆『カメラ毎日』1956年6月号)
(参考):
『日本の写真家23 山端庸介』岩波書店 1998年
『原爆の長崎 記録写真』北島宗人 編 学風書院 再刊 昭和34年(初版・第一出版社、1952年)
『ナガサキの原爆を撮った男 評伝・山端庸介』青山雅英 論創社 2014年
『NHKスペシャル 長崎 よみがえる原爆写真』NHK取材班 日本放送出版協会 1995年
この本で、NHK取材班は被爆50年後の「おにぎりを持った親子」についても追っている。
「おにぎりを持つ少年」に映っている男の子は山田伸一、当時3歳。伸一の母はヲミ(ふみこ)29歳(享年74歳で死去)で別の写真「おにぎりを持つ母と子」に2人で映っている。伸一は23才で結婚、鉄工所を立ち上げ、3人の子供、4人の孫に恵まれた。2022年、80歳で亡くなる。
(7)新たに追加された写真
今回の写真展には、2027年の日本・ルクセンブルク外交関係樹立100周年を記念し、現代の視点から応答する作品として、ルクセンブルクの写真家と 日本経済新聞社の写真記者が撮った写真が追加展示されていた。
<ルクセンブルクの写真家>
(8)写真展の反響
今回の「ザ・ファミリー・オブ・マン」写真展は、約70年前の歴史的な写真展に比べ、ほとんど大きな話題にはなっていない。テレビではテレ東の「新美の巨人たち」が取り上げたのも日本橋高島屋の写真展ではなく、ルクセンブルグにあるオリジナルな写真展の様子であった。
「ルクセンブルグの至宝!900万人が見た伝説の写真展」2026年8月15日放送
今回の写真展を機に、歴史的な「ザ・ファミリー・オブ・マン」をふりかえることができました。とくに日本人写真家・山端庸介について、父・祥玉とともに戦時中は戦争プロパガンダに携わっていたことなど、多くのことを知ることができました。





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