2020年12月6日日曜日

湖の国の旅2:湖東三山と多賀大社

 

西明寺の三重塔

この時期、紅葉の名所としてもよく知られている、湖東三山に向かった。湖東三山とは、湖東にある百済寺、金剛輪寺、西明寺の3つの寺をいう。

 

1.百済寺

百済寺は、近江で最古級の古刹である。寺伝によると推古14年(606年)に聖徳太子によって創建されたという。寺の名からして、百済系渡来人に関係している寺ということが推測できる。最盛期の室町時代には、300坊を抱え、ルイス・フロイスが「地上の天国一千坊」と称賛するほどの大寺院であった。天台別院と称せられるほどの勢力があったことから、織田信長の焼き討ちに遭い伽藍など多くを灰燼に帰した。

現在の建物は、江戸初期の再建になり、本堂は、江戸初期の名大工といわれる甲良宗弘の設計によるものという。

 

また、本堂の横にある菩提樹は「千年菩提樹」といわれ、信長の焼き討ちの際、幹は焼けたが根までは及ばす、再び甦って、今も生き延びているという。

 

御本尊は、十一面観音で、聖徳太子が自ら瑞香木を刻んだ立ち木仏という伝承があり「植木観音」とも呼ばれている。奈良時代をさかのぼる木彫像ともいわれるが、製作年代ははっきりしないようだ。厳重秘仏で見ることはできない。2006年(平成18年)に御開帳がされたというが、それが55年ぶりという。2014年に特例で、湖東三山IC開通記念として御開帳されたそうだ。

 

南庭から受付を通ると、本坊・喜見院の庭園が広がる。池の周りを巨石が立てられた池泉回遊式庭園である。「天下遠望の名園」ともいわれ、遠くに比叡山を望むことができる。

庭を出て、苔生した石段を登っていく。こうした石段と石垣は、城造りのもとになっていたということで、ほとんどの石垣は「石曳」といわれ、信長によって持って行かれて安土城の築城に使われたという。

長い石段を上ると、仁王門につく。金剛力士が向き合って立っており、その仁王が履くという大きな草履が両脇に掛けられている。

 

仁王門をさらに上に上がっていくと、やっと本堂につく。本堂には、先の秘仏、十一面観音が厨子の中に安置されているほか、聖観音坐像、如意輪観音半跏思惟像の美しいお姿の2体と、どっしりとした阿弥陀如来坐像があるが、いずれも撮影は不可。

本坊・喜見院


南庭




比叡山も遠望





二天門





本堂

本堂



千年菩提樹


鐘楼



 2.金剛輪寺

金剛輪寺は、寺伝によると、聖武天皇の勅願により、行基が開創したという古刹である。こちらは、渡来系秦氏との関係があるという。

聖武天皇は、742年、紫香楽宮をこの近江の地(現・滋賀県甲賀郡)に造営した。その際に渡来人の力が大きく預かったことから、湖東のお寺には、こうした渡来系との関係があるとされる。

 

阿形・吽形の仁王様が怖い形相をして睨みつけている二天門を潜り抜けると、本堂と三重塔が見えてくる。本堂は、鎌倉時代の建物として国宝になっている。三重塔は、本堂より古いとされているが、荒廃したままになっていたため、昭和49年(1974年)に復元されたもの。

 

御本尊は、聖観音菩薩で、やはり秘仏である。言い伝えでは、行基が一刀三礼で観音様を彫り始めたところ、木肌から一筋の血が流れ落ちたため、その時点で魂が宿ったとして、粗彫のまま本尊としてお祀りしたということから「生身の観音」とも言われている。こちらも、百済寺の本尊と同じ時期(2014年)に御開帳されたそうだが、粗彫の観音像は円空仏を彷彿させるものだという。

 

本堂の内陣には、阿弥陀如来をはじめ四天王像などが安置されている。後陣にまわると、十一面観音菩薩が、ふっくらと優しいお姿で立っている。また大黒天の半跏像というのも珍しい姿の像だ。

 

金剛輪寺も、信長の焼き討ちにあっているが、時の住職が機転をきかせ、本堂付近で信長の兵による放火と見せかけた火事を起こしたため、焼かれずに済んだという。鎌倉時代の本堂や、仏像がのこっているのは、この住職の機転によるものだといえる。

 

行った順とは逆になったが、本堂までの数百メートルもある石段を登る参道の途中で、白門をくぐると、本坊の明寿院がある。紅葉の時期、素晴らしい庭園が広がる。本坊の南・東・北の三方を囲むように庭園があり、それぞれ作庭された時代、様式が異なり、国の名勝に指定されている。

 

池の廻りの力強い石組や石橋など見事なものがある。また池には、モミジが落ち、陽に輝いて美しい形を拡げている。モミジが浮かぶ池には鯉がゆったりと泳いでいる。別の池には、形の良い舟石が置かれている。枯山水に舟石をみることはあるが、池の中に立てられているのは珍しいのではないだろうか。ここの庭園は、紅葉の素晴らしさと相まって、京都にある名園に比べても、美しいものだと思う。また、何枚も撮ってしまった。

 

長く続く、参道の脇には、苔むした石垣の間に千体地蔵菩薩の石仏が並んでいて、あちこちに不思議な空間をつくりだしていた。

金剛輪寺・総門

赤門


白門

明寿院庭園




















池の中も舟石

舟石

鯉が泳ぐ

千体地蔵






二天門


本堂



三重塔









3.西明寺

西明寺は、平安時代834年に仁明天皇の勅願により三修上人が開創したという天台宗の寺院である。

 

本堂は、鎌倉時代に飛騨の匠により造られた建物として国宝となっている。御本尊は、薬師如来で、これも秘仏となっている。内陣は、十二神将がならんでおり、これらは運慶の弟子によるものと伝えられている。

 

三重塔も飛騨の匠により建てられ、国宝となっている。塔の内部には、巨勢派による法華経の極楽世界が極彩色で描かれて、現存する鎌倉時代の仏教絵画として唯一のものという。これは是非とも見たかったものだが、今回、残念ながら非公開になっていて見ることは叶わなかった。

 

二天門には、持国天、増長天の二つ像がにらみを利かせている。表参道の両側には立派な石垣が造られており、一見すると城の石垣ようである。

 

この寺も、信長の焼き討ちにあっているが、本堂、三重塔、二天門は火難を免れ現存している。

 

ここの本坊にも素晴らしい庭園が造られていて、やはり国の名勝で「蓬莱庭」といわれている。池を中心に、鶴や亀を形どった石組、仏像を象徴する立石群など調和の取れた庭となっている。

また不断桜といわれる十月桜が、ちょうど満開で白い桜花が、赤いモミジと対照的に庭を飾っていた。

西明寺・総門










西明寺・本坊


不断桜













西明寺・三重塔



鐘楼


本堂

二天門







最澄像











 

4.多賀大社

西明寺からバスで10分ほどで多賀大社に行ける。多賀大社は、中世から伊勢神宮、熊野三山とともに、信仰を集め「お多賀さん」として親しまれ、「お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」ともいわれるほどであった。また「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」という俗謡もあり、これは多賀大社の祭神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神であり、伊勢神宮の祭神の天照大神の両親にあたることから謡われたという。

 

多賀社は特に長寿祈願の神として信仰された。鎌倉時代、東大寺を再建したことで知られる重源は、さらに勧進を続けるため寿命を延ばしたいと多賀大社に参拝し、神の意を得て、見事、東大寺の再建を成し遂げたという。

また、太閤秀吉は、母・大政所の延命を祈願し、成就したため米一万石を奉納したという。境内の正面にある石造りの太鼓橋は、この奉納により造られたとされることから「太閤橋」とも呼ばれる。

奥書院に庭園があり、これも秀吉の奉納により築造されたものというが、これを見過ごしてしまったことに後から気付いた。

 

大社のお守りとして、しゃもじを授ける「お多賀杓子」というのがあるそうだ。これは、元正天皇が病で倒れられた時に、強飯(こわめし)とともに、杓子を添えて献上し、病が治ったことがからだという。。しゃもじは願掛けの絵馬にも使われている。

門前のお土産屋にもしゃもじが売られている。もうひとつ名物として「糸切り餅」というのが売られている。このお餅は、蒙古襲来に際し、蒙古軍の旗印である赤青三筋の線を書き、これを弓の弦で切ってお供えしたという言い伝えによるものだ。これを作っている「ひしや」によると、いまは弓でなく、長浜の三味線の弦を使っているとか。いただいて、ホテルの戻ってから食べたが、形も綺麗で、美味しかった。

多賀大社

太閤橋



拝殿



しゃもじの絵馬

大釜


土産屋のしゃもじの看板





「ひしや」

ひしやの糸切餅


多賀大社駅からの鳥居


 5.真如寺

多賀大社で奥の院の庭園を見過ごしてしまった代わりというわけではないが、大社の近くに真如寺というお寺があるのを見つけた。拝観をお願いすると、住職さんからいろいろお話しいただいた。

このお寺は、浄土宗の寺院で、御本尊は、阿弥陀如来である。この像は藤原時代のものとされ多賀大社の本地仏であったが、明治の神仏分離によりこの寺に遷されたという。ゆったりと座られた阿弥陀は、優しく語りかけてくるようだ。光背も見事なものである。

お堂の長押に三尊のレリーフが彫られた円形板が懸けられている。今まで見たことはなかったものでお聞きすると、「懸仏(かけぼとけ)」というそうだ。銅板に現わされたほとけの像は神社の祭神、すなわち本地仏であるという。実は、滋賀県にはこうした懸仏が多いことで知られていて、これを追いかけて見に来るマニアもいるという。

 

また、地獄絵の屏風が置かれている。江戸時代に描かれた10枚の絵で、人が亡くなって初七日から順に三回忌までの節目を、地獄で裁かれ、最後に観音様が現れ救ってくださるという、それぞれの様子が描かれている。今見ると、ちょっとマンガチックにも見えるが、幼稚園の子供に見せると、怖くなって泣き出す子もいるという。

 

住職さんから、なかなか興味深いお話を聞くことができ、多賀大社駅から近江鉄道に乗って近江八幡のホテルまで帰ってきた。多賀大社駅の車庫で見たのは、西武線の電車?黄色い電車は、よく乗っている西武線の車両だ。近江八幡の町では、レオのマークの入った西武バス?も見かけた。実は、近江鉄道は、西武グループのひとつであり、そういえば、西武の創業者・・堤康次郎はここ近江の出身である。とすれば、こちらが本家本元ともいえるのか。

真如寺

懸仏

地獄絵屏風


西武線?




6.ふりかえり

湖東三山の百済寺、金剛輪寺、西明寺、いずれも天台宗であり、山岳寺院であるので、山の懐にお寺がある。天台宗といえば、最澄が開祖、その最澄はここ近江の国の生まれだ。

 

本堂、三重塔などを建てた大工には、甲賀杣大工といわれる集団が知られている。江戸時代になると、甲良宗弘という名匠が出て、百済寺の本堂の再建を手がけている。宗弘は江戸では、増上寺の台徳院霊廟、寛永寺の五重塔、江戸城の天守閣、さらには日光東照宮を手がけている。今日でいえば、丹下健三、隈研吾といったところか。

 

三山ともに山の中腹にあり、本堂まで長い石段、石垣が造られている。こうした石工集団としては、比叡山坂本の穴太集団が有名だが、金剛輪寺の配下に、西座という石工の集団があったことが知られていて、こうした石工集団が、安土城の石垣造りを競ったという。

 

信長による比叡山の焼き討ちはよく知られているが、湖東のこれらの天台宗の寺院も焼き討ちに遭った。またそれらの寺院の石を曳いて、安土城の築城に使ったという。築城の名手といえば、藤堂高虎が有名だが、やはり近江・甲良の出身である。

 

三山の本坊には、すばらしい庭園が造られていて、紅葉のなか一段とうつくしい景色を作っていた。そういえば江戸時代の作事奉行、小堀遠州も近江・長浜の生まれで、名園の作庭を手がけている。城の石造りと同様、庭の石組も巧みな技術である。

 

三山を一日で巡ったが、いずれも山の中腹にあり、長い石段を登っていくのはけっこうキツイ。しかし、紅葉の色鮮やかさ、苔の緑の癒し、もちろん、それぞれの仏像の優しさに疲れも忘れるほど充実した一日だった。


次は、紅葉の教林坊から近江商人の五個荘へ、そして彦根城まで行きました。


夫婦円満に


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