2020年12月16日水曜日

湖の国の旅3:教林坊・五個荘・石馬寺・彦根城


教林坊の紅葉

湖の国の旅の3日目は、紅葉が素晴らしい教林坊、近江商人の発祥地の一つ五個荘金堂と、見事な仏像のある石馬寺から、彦根城・玄宮園まで回りました。

安土駅前の信長像
 1.教林坊

近江八幡からコミュニティバス(あかこんバス)に乗り、途中、安土駅を通り、駅前の信長の像を見て、石寺東出という教林坊の近くのバス停で降りた。なお、「あかこん」とは、地元の名物赤こんにゃくのことである。

 

教林坊は、605年に聖徳太子が観音正寺を創建した際に、その塔頭の一つとして開かれたと伝わる。寺名は、太子が林の中で説法したことに由来する。また、御本尊は、石窟に祀られた観音の石仏で、やはり聖徳太子の作とされる。子宝を授かった村娘の難産を助けたときに、傍らの小川が安産の血で赤く染まったことから「赤川観音」とも呼ばれる。

 

境内に入ると、山に続く急勾配の土地に巨石を配し、それらが苔生しているとともに、この時期は、一面にモミジの落ち葉が赤い絨毯を敷いたように広がっている。近江・長浜の生まれである小堀遠州の作庭と伝わる。

白洲正子は、ここを訪れ、『かくれ里』で、その石庭の見事さから「石の寺」として紹介している。










































「赤川観音」



十一面観音



十一面観音

 2.五個荘金堂

五個荘は、近江商人の発祥地の一つ。初日に訪れた近江八幡の八幡商人、日野の日野商人、そして、ここ五箇荘の五個荘商人が、近江商人の主な発祥地とされる。その活動時期は、八幡商人が江戸前期から、日野商人が江戸中期から、五個荘商人は江戸後期からで、明治以降になると朝鮮、中国にも進出したという。(中江家の三中井百貨店)

 

ここ五個荘金堂は、聖徳太子が金堂を建てたという伝承に由来する地名だという。黒い舟板塀に囲まれ土蔵、屋敷、庭園といった伝統的建築群が続く街並みは、訪れる観光客も少なく、静かで、ゆったりとした時間が流れている。

 

町は、大きな屋根を持った真宗寺院を囲むように広がっている。あたかもヨーロッパの町が聖堂を中心として形成されているかのように。そうした寺院を4か所見て回った。




舟板塀

船の形の残る舟板塀









 

・弘誓寺(ぐぜいじ)

町の中心に位置する真宗寺院で、近江八幡にあった本願寺八幡別院に次ぐ大きい本堂を持つ。寺伝によると、開基は那須与一の孫愚咄坊(ぐとつぼう)といわれ、表門の屋根の瓦には那須与一に由来する扇の紋が入っている。



那須与一に由来する扇の紋




 ・浄栄寺

弘誓寺に隣接する浄栄寺は、金堂という地名の由来に関わる寺院。聖徳太子がこの地を訪れた際、不動坊という僧とともに大きな金堂を建立したことからこの村の名になったという。不動坊は不動明王の化身であったことから不動院とした。その後、寺は荒廃したが、浄栄法師が再興し、今の浄栄寺(浄土宗)になったという。



 
・勝徳寺

やはり真宗寺院で、江戸時代には向かいに大和郡山藩の陣屋が置かれており、当寺が大和郡山藩柳生家の供養堂とされた。


 
・安福寺

開基等は不明だが金堂の始まりの寺といわれる。江戸末期から無住の寺院で、浄土宗(もとは天台宗)。本堂の屋根に乗る鯱が角のように見える。寺の前に広場があり、そこに古い五輪塔が置かれている。地獄絵図を所蔵しており、外村繁は『澪標』の中で、「春秋の彼岸会に、地獄極楽の絵が掛けられ、その絵を見て戦慄を覚えた」と記している。



五輪塔



続いて近江商人屋敷を訪れた。

 

・外村繁邸

外村繁の屋敷は、この安福寺のすぐ近くにあり、五個荘商人の屋敷として公開されている。

外村家は、ここ五個荘金堂を本宅に、東京の日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開き商売を拡げた。外村繁は三男であったが、一時家業を継ぐも、文学を志し弟に家業を託した。

三部作『草筏』『筏』『花筏』は、近江商人の外村家がモデルとなっている。癌で亡くなるが、最後まで「親鸞の生涯」を書きたかったという。司馬遼太郎は、『澪標』などの私小説も一種の宗教文学だと評している。

東京・阿佐ヶ谷に住み、作家活動は、井伏鱒二などと交流し阿佐ヶ谷文士と呼ばれる。

なお、小説『花筏』にちなんで庭に「花筏」が植えられていた。この植物は葉の中央に花や実をつけることから、葉をイカダに、花を船頭と見立てて名付けられている。蔵を守るという狸の置物とともに、庭の点景となっている。

 



見事な松

「川戸」

若冲の屏風が置かれている

古い電話機も

天井の梁

天秤棒




阿佐ヶ谷文士・左端が外村繁


花筏

花筏の葉・中央に実

蔵を守るという狸


・中江準五郎邸

五個荘商人の屋敷として公開されている中江邸に入った。中江家は、明治38年(1905)に朝鮮に三中井呉服店を創業し、昭和に入って三中井百貨店となり、戦前まで本宅をこの五個荘金堂に置き、朝鮮半島および中国大陸に20店舗を経営していた。

屋敷の中には、小幡人形といわれる郷土玩具が展示されている。この日の朝、京都新聞で、2021年のお年玉切手のデザインに、小幡人形の「俵牛」が採用されたという記事を見たばかりであった。

外村邸もそうだが、屋敷には趣のある庭が作られており、飛び石、池、立派な松など池泉回遊式庭園となっている。










「おごる者必ず久しからず」

2021年の年賀切手に採用された「俵牛」

小幡人形



 お昼をとったあと、同じ五個荘町にある石馬寺にタクシーで向かった。




 3.石馬寺

石馬寺の由来については次のような伝承がある。その昔、聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて鎮護国家、仏法興隆を祈る場を求めていた。繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来て、駒は歩みを止め進まなくなり、傍らの松の木につないで山に登ったところ、瑞雲がたなびき風光明媚な風景が広がっていた。太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動し、山を下ると、松の木につないだ駒が傍らの池に沈んで石と化していた。この奇瑞に霊気を感じ、山を「御都繖山(ぎょとさんざん)」と名付け、寺を建立し、馬が石となった寺から「石馬寺」と号されたという。

 

かっては天台宗であったが、転宗して臨済宗となっている。御本尊は「十一面千手観音」で秘仏となっている。他に十一面観音像や大威徳明王像などの仏像を所蔵していて、とりわけ、役行者像は、鎌倉時代の作で、肖像彫刻のように優れている。

 

寺を辞して、バス停で待っていると、大宮ナンバーの車が止まった。石馬寺のご住職が、能登川駅まで親切に送ってくれた。車中でのお話で、近く埼玉・飯能へ法要に行く予定があるという。近江商人の人たちは地方に出ても、有難いことに檀家を離れることはなく、そのため遠くにも出かけていくという。

そうなんだ、それほど近江商人の人たちは商売をするにあたって信仰深く、そして今も続いているのか、と納得するお話であった。



寺の境内に神社-神仏習合



枯山水の庭





本堂前の観音像


不動明王の石像

「平等利益」と



神社の磐座


石馬の池:石と化した太子の駒

太子が駒をつないだ松


石馬寺の仏像・パンフレットより

役行者像


 JR能登川駅から彦根に向かった。

 

4.玄宮楽々園

まずは城の前にある玄宮園に行く。正確には、御殿の建物を「楽々園」、それに隣接する庭園を「玄宮園」とし、あわせて「玄宮楽々園」として国の名勝となっているという。

広い池を中心とした池泉回遊式庭園である。周りの紅葉が池に映り、一幅の絵画のように観える。橋を渡り池を回ると、奥に彦根城が見えてくる。この庭園は、彦根城を借景としている、というより城をより美しく際立たせるための庭となっている。

 

徳川の時代になり、藩主の慰楽の場、饗応の場として造られ、茶室も4つあり、茶会がよく開かれたという。また、能舞台もあり、能役者を抱え演じさせていたという。

彦根城と玄宮楽々園は、もはや、戦国の城、邸宅・庭園でなく、藩の権威、威厳を示すための城・庭であり、将軍が上洛する際には、宿泊場所、歓待する場所であった。























楽々園

楽々園

楽々園の石庭


ひこにゃん

能舞台

能面・小面

能面・べしみ

井伊の赤備え・当世具足



井伊直弼の像

 5.彦根城

徳川家康の信頼が篤かった井伊直政は、関ヶ原の戦いの功績により近江国に封じられ、石田三成の居城であった佐和山城に入城したが、これを嫌い城を移すことを計画していたが、亡くなってしまった。その遺志を継いで直継のときに彦根城が築城された。(1603年)

井伊家は、徳川200年の間この地域を治めた。幕末には、藩主・井伊直弼は、大老として開国を進め、タウンゼント・ハリスとの日米修好条約締結に至ったことは、よく知られている。明治になり廃城令による破却を免れ天守が現存し、国宝となっている。


天守閣の建物は、大津城から移築され、有名な天秤櫓は長浜城から移築されたという。天秤櫓は、あたかも天秤ばかりのような形をしている。この形が近江商人が天秤棒を担いで出かけることにつながったのではないか、と勝手な想像をしてしまう。

 

さらに想像を膨らませてみると、朝乗ったコミュニティバス「あかこん」の赤こんにゃくは、井伊家の「赤備え(あかぞなえ)」といわれる甲冑などの武具を赤で統一していたこと、また井伊直政が赤備えをまとい、兜には鬼の角ような手て物をあしらい出陣した勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と恐れられたということから、こんにゃくまで、赤くしたのではないか?つまり、こんにゃく製造業者が井伊家に「忖度」したということ??(赤こんにゃくについては、諸説あり、派手好きな織田信長が赤く染めさせたという説、近江商人が全国を商売しているときに奇抜なアイディアを思いついたという説など)

 

天守閣に登って降りるころには、夕日が城にあたり、紅葉とともに赤く染まってみえた。その夕日を眺めるかのようにカラスが城のてっぺんに止まっていた。天秤櫓の上には月が出てきている。

城を出るころには、もう薄暗くなり、ライトアップされた天守閣がお堀に映り、銀色に輝いてみえた。


十月桜

天秤櫓


天秤櫓








玄宮園が見える
















城のてっぺんにカラス

城のてっぺんにカラス






天秤櫓の上に月


堀の周りは「腰巻石垣」



お堀に天守閣が映る

ライトアップされた天守閣



6.ふりかえり

旅行3日目、五個荘から彦根と東近江をめぐって、ふたつのことを考えてみた。一つは、東近江のこの辺りが近江商人の発祥地であるが、近江商人は、なぜ発生し、興隆したのだろうか。もうひとつは、この辺りの寺院などには、聖徳太子にかかわる伝承が多いのは、なぜだろうか、ということである。

 

(1)近江商人の発生・興隆の理由

初日に訪れた近江八幡でも、八幡商人といわれる近江商人の街並み、屋敷を見てきたが、五個荘でも舟板塀に囲まれた屋敷、真宗寺院を中心とした街並みを見てきた。

なぜ、近江に活躍する商人が発生したのか、について、司馬遼太郎は、その風土にあると、つぎのように述べている。

「その一部で傑出した者が出、成功することによって、一族、一郷が真似をした。ただ、絶えず大小の傑出者が出、独創的なことをはじめねば、近江商人というぜんたいの興隆現象が持続しない。つまりは独創者をおさえつけずに、逆にほめそやす気分が風土としてあったのであろう。」

 

近江商人については、これまで多くの研究がなされ、色々な説が説かれてきた。古代から多くの渡来人がこの地にやってきて活躍した説、中世にかけて比叡山の荘園として市が開かれた説、中世から近世にかけて没落した武士が商人となった説、税に苦しむ農民が困窮して商人となった説、交通の要所、琵琶湖の利用など地理的環境説、などなどがあるが、やはり、この地の風土と近江人の性格にその理由を求めたいと思う。


司馬遼太郎は、近江商人の特徴をつぎのように述べている。

「近江のどの商家の成立にも、その天才的な祖が、天秤棒で荷をかついでまわるところから出発した。ただ他国の商人とちがうところは、近江商人に遠隔地商業の感覚があったことである。かれらはとなりにゆくように京・大坂にのぼり、江戸へくだり、さらには奥州、松前まで足を伸ばし、成功すると土地土地に支店をつくった。」

 

商売の仕方に、そうした独創性、先取の気風を持っていた。また、それぞれの家訓にみるように、天秤棒一本を担いで行商に出て、朝は星を頂いて家を出て、夜には星を頂いて戻ってくるという勤勉さや、堅実、信用、倹約などを守ることが近江商人の活躍を支えたのであろう。

 

司馬遼太郎の本『街道をゆく 近江散歩』を読んでいて、もう一つ興味深い箇所があった。それは近江商人には、真宗門徒が多く、その言葉使いに、「・・・させていただく」という物腰の柔らかい、丁寧な表現があるという。

これは、真宗においては、すべて阿弥陀如来、(すなわち絶対他力)によっていかされているという教義から出ているという。例えば、近江商人が「かしこまりました。あすの三時に届けさせていただきます」などというのは、「門徒語法」だとする。

私たちも、よく「おかげさまで、・・・何々させていただいております」などと使うことがある。知らずうちに、こうした信仰心から出る言葉が使われるようになっていることに気付いた。






(2)聖徳太子ゆかりの寺院が多い理由

滋賀県は聖徳太子を開基とする寺院が一番多い県だそうだ。もちろん、聖徳太子の建立した寺というのは、法隆寺と四天王寺のほかは伝承によるものだ。


今回の旅でも、初日に行った長命寺、二日目の湖東三山の百済寺は聖徳太子の開基とされている。また、この日一番で訪れた教林坊も、五個荘の浄栄寺も、そして石馬寺も、聖徳太子と深いゆかりの寺と伝わっている。

これらの寺院は、天台宗であること、十一面観音を御本尊としていること、などが共通してみられる。


また、聖徳太子は仏教を日本に広めた祖であり、奈良時代には、仏教を深く信仰した聖武天皇が紫香楽宮を造営し、そこに渡来人や、工人が多く集まってきていることも要因のひとつとして考えられる。

 

天台宗・最澄との関わりでは、聖徳太子は中国天台宗開祖の天台智顗の師、南嶽慧思の生まれ変わりであって、その玄孫が最澄自らであるということを固く信じていたという。こうしたことから寺伝に聖徳太子をもってくることで、仏教的な正統性や権威を高めたのであろう。

 

観音との関わりでは、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりであるとして尊ばれた。法隆寺・夢殿には救世観音像があり、近江の寺院には十一面観音を御本尊(秘仏)としているところが多い。観音菩薩は、あらゆる人を救い、あらゆる願いをかなえるということから十一面とか、千手とかいろいろな姿に変化し、三十三観音ともいわれる。(そこから「33」という数字で、西国三十三所観音巡りなどが生まれた)


観音菩薩は、水との関わりが深い仏様で、海や川から出現した観音菩薩を引き上げて祀ったという寺院は各地にある(例えば、浅草寺も)。そのため琵琶湖湖畔の寺院に十一面観音菩薩像が多く安置され信仰されていていったと考えられる。

 

さらに時代が下って、親鸞は、比叡山を下りて六角堂に参籠した際、救世観音菩薩の夢告によって自分の進むべき道を問い、開いていったという話は、よく知られているが、近江商人をはじめ、真宗門徒の多いこの地域で、こうした太子信仰を受け入れる下地があったのであろう。

 

翌日は、その十一面観音を拝するために湖北へ、さらに長浜から竹生島にも渡った。

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