2020年12月20日日曜日

湖の国の旅4:湖北・長浜・竹生島

 

十一面観音菩薩像・渡岸寺

湖の国の旅の4日目は、十一面観音を拝するために湖北へ、長浜から竹生島に渡りました。

高月へ向かう列車から

1.湖北・渡岸寺

高月駅を降りて、向源寺へ向かう。


目ざす十一面観音は、向源寺の近くにある渡岸寺(どうがんじ)観音堂の収蔵庫に収められている。

そもそも、渡岸寺というのは地名として残るのみであり、寺院の存在も推測の域を出ないものだという。ただ、次のような伝承がある。

聖武天皇の時代、疫病が流行ったことから、天皇は除災の祈祷を僧・泰澄に命じ、泰澄は、十一面観音像を刻み、寺を建て息災延命、万民豊楽の祈願を行ったという。その後、桓武天皇の時代、比叡山の最澄が勅を奉じて伽藍を建立し、多くの仏像を安置し、寺勢が大いに栄えたという。しかし、戦国時代には、兵火が堂宇を襲い、廃滅したが、信仰深い村の人々が、猛火を冒して観音像を運び出し、土中に埋めて守ったという。

 

収蔵庫に入ると、薄暗い中から十一面観音像が浮かび上がってくるようだ。学生時代に法隆寺の百済観音像を見たときのような驚きと感動があった。

 

この十一面観音像については、二人の作家が描いた文を引用して置く。

まずは、井上靖『星と祭』から。

「架山(主人公)は初め黒檀か何かで作られた観音さまではないかと思った。肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。・・・丈高い十一個の仏面を頭に戴いているところは、まさに宝冠でもいただいているように見えた。・・・衆生のあらゆる苦難を救う超自然の力を持つ十一の仏の面で飾られているのである。・・・しかも、腰をかすかに捻り、左足は軽く前に踏み出そうとでもしているかのようで、余裕綽々たるものがある。・・・確かに秀麗であり、卓抜であり、森厳であった。」

 

美術鑑賞をしているかのように正しく描写している。次は、水上勉が描くところを引用する。水上勉『湖の琴』から。

「紋左衛門は、やがて本堂の前に立ったが、足を凍らせたように動かなくなった。正面の段に安置された観音像の美しさに息を呑んだのだ。
女像がそこに在るような気がした。(略)
外からさしこむ陽光が、その穴から、縞目になって堂内へさしこんでいる。いま、正面壇上に向って、光線は雨を降らせたようにさしている。その中で、観世音菩薩の立像が、金色に輝いて浮いていた。不思議であった。観音は、心もち腰をひねって、くびれた胴から下肢にいたる太股をすんなりとあわせて立っていた。その姿勢が、光のかげんで動いたように思えた。

紋左衛門はつばを呑んで、声も出さずに見惚れた。何とふくよかな、荘厳な微笑であろう。(略)片手は、胴につけ、片手は肘を曲げて壺をもっているが、くびれた胴が心もち左にまがって、色気があふれている。」

 

美しく、情感的な描写である。

 

十一面は、それぞれ、前三面は慈悲の表情の菩薩面であり、左三面は憤怒の表情の瞋怒面(しんぬ)面で、右三面は讃嘆の表情の狗牙上出(くげじょうしゅつ)面、後一面は暴悪の大笑面、頂上に一面の如来相となっている。

このうち「大笑面」とは、悪への怒りが極まるあまり、悪にまみれた衆生の悪行を大口を開けて笑い滅する、笑顔を表わす。

土門拳は、『古寺巡礼』のなかで、この「大笑面」をみて怖くなって眠れなくなったと吐露している。被写体を鋭く見つめ、細部まで捉える土門拳ならではの言葉ではないだろうか。

 

もちろん、私のようなアマチュアがこの仏像の写真を撮るわけにはいかない。そこで、ポストカードから、写真を転載しておく。

 

駅に戻る途中、記念塔が立っていて、「みな人の 迷いの海は 深くとも 法(のり)の舟にて 渡す岸寺」という歌が書かれている。左側には井上靖による「慈眼 秋風 湖北之寺」と書かれている。

 

湖北の東にそびえる己高山(こだかみやま)は、古くから霊山、修行の場であった。修験道の開祖・役行者、白山信仰を開いた泰澄や、行基、最澄などがここで修行したと伝わり、観音信仰を中心とした独自の仏教文化圏が広がっていた。いまは「観音の里」といわれ、かって白洲正子が「かくれ里」といったこの辺りの集落ごとに十一面観音があり、そのほとんどは小さな観音堂につつましく安置されている。

 

 井上靖の『星と祭』の最終の場面で、立ち現れてくる十一面観音さま、鶏足寺、石道寺、充満寺、赤後寺などがそれだ。今回は渡岸寺の十一面観音を拝したが、またいつかこれらの十一面観音巡礼ができればと思う。

 

高月駅から長浜に向かった。

向源寺

渡岸寺観音堂

観音堂横の天神社


灯籠の火口に蓑虫




弁財天像?

十一面観音像のレプリカ

十一面観音像

耳の脇に面があるのが特徴

背面にある面

大笑面

近くの「観音の里歴史民俗資料館」横の道にサギが


記念塔
「みな人の 迷いの海は 深くとも 法(のり)の舟にて 渡す岸寺」
「慈眼 秋風 湖北之寺」 井上靖

2.長浜

長浜駅には、豊臣秀吉が描かれた大きな看板が掲げられていた。かってこの地は「今浜」といわれていたが、秀吉が長浜に城を築くにあたり、信長の「長」をもらって「長浜」と名付けたという説があるようだ。

豊臣秀吉によってつくられた町・長浜

(1)旧長浜駅舎 

駅を出ると、長浜鉄道スクエアとして鉄道博物館とともに、日本で現存する最古の駅舎という「旧長浜駅舎」がある。この駅舎は、1882年(明治15)に完成した。設計はお雇い外国人のホルサムらのイギリス人鉄道技師が行ったという。



現存最古の駅舎「旧長浜駅舎」

(2)慶雲館

旧長浜駅舎の前にあるのが「慶雲館」である。ここは1887年(明治20)に、明治天皇が京都から帰路に長浜で、昼食をとるということから迎賓館として急遽、建てられたものである。ただ、天皇のここでの滞在時間は1時間弱であったという。


建物は、長浜の豪商・実業家の浅見又蔵が私財を投じ、その後、二代目又蔵が、京都の七代目小川治兵衛(植治)に作庭を依頼し、池泉回遊式庭園がつくられた。巨石のみならず、巨大な灯籠なども配置した、いかにも明治の実業家、資産家の庭園である。なお、相撲の常陸山谷右衛門の力士像が置かれている。浅見又蔵が贔屓にした横綱だという。

慶雲館








庭で婚礼前の写真撮影が行われていた




玉座の間



常陸山谷右衛門の力士像


 

(3)長浜タワー・旧開知学校

駅前通りを歩くと、ビルの上にタワーがある。地元の資産家が長浜にも東京タワーのようなものをつくりたいということで、1964年(昭和39)にビルの上にこの鉄塔を建てたという。展望台として使われたが、もちろん電波の送受信といった機能は一切ないという。


因みに、「塔博士」といわれた内藤多仲は6つの鉄塔を設計しており、名古屋テレビ塔が1954年、大阪・通天閣が1956年、別府タワー1956年、さっぽろテレビ塔1957年、東京タワーは1958年、博多ポートタワーが1963年に建てられている。また今回、帰りに寄った京都タワーは、山田守の設計で1964年に完成している。

長浜タワー
長浜タワーの向かいに、3階建ての建物に八角形の塔をのせた擬洋風の建築が見える。「旧開知学校」の建物で、長野・松本の「旧開智学校」とほぼ同じころに建てられた。また、やはり伊豆・松崎の「岩科学校」と同じように、明治維新後、人材育成の必要性を受け止めた町民らの寄付によって建てられて学舎だという。

旧開知学校

旧開知学校


 (4)安藤家

駅前通りから北へ行くと、北国街道に入る。宿場町の街道で古い建物もある、ちょっと賑やかな通りだ。すぐに「安藤家」の屋敷がある。

安藤家については、展示されていた二つのパネルから紹介しておく。一つは「長浜十人衆と三年寄」。秀吉が長浜城を築き、城下の町をつくるにあたり、南北十地区に分け、それぞれに町年寄によって治めさせた。それが長浜十人衆といわれる。そのうち三人の町年寄が選ばれ、三人寄と呼ばれる。安藤家はその町年寄として江戸時代を通して勤めたという。いずれも、長浜町形成の当初からの功労者で、最初は、宮部・下村・田辺・樋口・大依・河(川)崎・安藤・吉川・今村の10家で子孫に世襲されたが、のち樋口・西村・大依・宮部の4軒は絶家し、残る6家が明治まで続いている。

 

もうひとつのパネルには、「長浜の庭園文化を築いた造園師」ということで、小堀遠州・辻宗範・勝元宗益(鈍穴)・小川治兵衛・布施宇吉の5人が挙げられている。このうち小堀遠州と小川治兵衛(植治)はよく知られている作庭家である。安藤家の庭は布施宇吉によるものだという。さきに行った「慶雲館」は小川治兵衛によるものだが、布施宇吉も手伝ったとされる。

こうした庭師たちが、長浜ばかりでなく、これまでみてきた近江商人の屋敷や、町家、実業家の邸宅のなどに優れた庭を作っていたことをあらためて知る。

安藤家



篆刻による看板



安藤家の庭園


安藤家の庭園


 (5)北国街道沿い

安藤家の前の通りは北国街道で、北陸と京阪を結ぶ街道であり、長浜はその宿場町であった。

通りに変わった建物が見える。「慈雲山・浄琳寺」という浄土真宗大谷派の寺院だが非公開になっている。黒壁の部分に設けられているのは「虫籠窓(むしこまど)」という町家によく見られるつくりだそうだ。

北国街道

北国街道

「虫籠窓(むしこまど)」・浄琳寺

道の脇に「長浜キリスト教会跡」という石碑があり、そこに西田天香の顔が刻まれている。西田天香は、ここ長浜の商家の生まれで、長浜名誉市民の第一号という。京都に一燈園をひらき、その教えの実践として、各地の家などに行って無償で便所掃除をすることで知られている。

長浜キリスト教会跡」の石碑


 角に黒い建物が見える。これは、国立百三十銀行の長浜支店で明治33年に建てられた。当時の愛称は「黒壁銀行」と呼ばれ、今は黒壁ガラス館となっている。

旧国立百三十銀行・長浜支店


 この建物の右側にアーケードが続き、「常夜灯門」や、曳山で演じられる「連獅子の歌舞伎」看板などが見られる。

通りの上に常夜灯門

連獅子歌舞伎の看板があるアーケード


 この通りにある「翼果楼」という食事処で昼食をとった。「翼果」というのはモミジの種ように種の実に羽がついてヘリコプターのように回転して落ちる種子のことで、お店の名前は「よかろう」と読むそうだ。長浜の郷土料理という「焼鯖そうめん」を食べた。この地方では、農繁期の5月に農家へ嫁いだ娘を気遣って実家から嫁ぎ先に焼鯖を届ける「五月見舞い」という習慣があることに由来する食べ物だという。美味しくいただいた。

「翼果楼」

「焼鯖そうめん」


 こうした歴史ある通りはぶらぶら歩くだけでも、いろいろなものを見、知り、食べ、楽しくなる。

 

(6)知善院

町から少し離れたところに知善院があるのをガイドブックで知り、訪ねてみた。この寺も秀吉が長浜城下を作る際に、浅井の小谷城下から移築させたという(先の浄琳寺も同様)。町の鬼門守護の役割が与えられていた。

ここには、十一面観音坐像があるという。十一面観音の坐像は珍しい。先の井上靖の『星と祭』にも出てくる。しかし寺に人は見当たらず、電話をしてみたが連絡取れなかった。せっかく訪ねたが、残念。ネットで検索した写真を載せておく。

知善院


知善院・本堂


地蔵菩薩像・知善院

役行者像?


十一面観音坐像

 (7)大通寺

知善院から少し行ったところに大通寺がある。こちらは、徳川家康によって本願寺の分立が許された真宗寺院である。真宗寺院だけあって大きな伽藍配置となっているこれらは伏見城の遺構を移築したという。狩野派の絵師や岸駒の障壁画がある。またここの庭園も見事なものがある。

 

大通寺の表参道も老舗の和菓子店などがあり、趣のある通りになっている。その先に曳山博物館がある。

大通寺・山門

大通寺・山門

大通寺・山門

大通寺・山門

大通寺・本堂

大通寺・鐘楼

大通寺・本堂から

大通寺・本堂から広間へ


大通寺・庭園

大通寺・山門前

大通寺・参道

大通寺・参道(反対側から)

老舗「叶匠寿庵」


 (8)曳山博物館

長浜城主であった羽柴(豊臣)秀吉公に男子が生まれたことを祝って、長浜の町衆がはじめたと伝わるのが長浜曳山祭り。豪華絢爛の曳山(山車)の舞台で演じられる子供歌舞伎が見物客を引き付けるという。

ところで、秀吉のこの時の男子とは?、秀吉は晩年になってやっとできたのが、茶々に産ませた男子の秀頼ということになっているが・・・。これも戦国史の謎のひとつだそうだ。

いずれにしても、長浜の曳山は江戸時代の伝統工芸を結集した飾金具や彫刻、絵画で彩られ「動く美術館」とも呼ばれていて、この博物館で見ることができる


豪華絢爛な曳山


(9)長浜城址

秀吉が築城した長浜城については、その縄張り的構造は一切分かっていないという。今ある長浜城は、天守を模擬的に復元して歴史博物館となっている建物である。

秀吉のあとは、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成が入城しているが、山内一豊の時には大地震に遭い、その後、内藤氏が転封され廃城となった。城の遺構は多くが彦根城の築城に使われたという。

長浜城

長浜城


3.竹生島

長浜城のある公園の先に竹生島に渡る船着き場がある。船は、湖北のシンボルともいわれる伊吹山を後ろに見ながら船は湖上を走り、約30分で竹生島に着く。

 

古来から神の住む島といわれ信仰を集めてきた竹生島は、神仏一体の聖地であった。島には、宝厳寺と都久夫須麻神社が祀られている。明治の廃仏毀釈にともない、宝厳寺を廃寺とし神社に改めよという県令が下り、本堂の建物を神社に引き渡し、社名を「竹生島弁天社」から「都久夫須麻神社」に改めることになったという。

 

宝厳寺の御本尊は弁財天と千手観音で、西国三十三所の三十番札所である。ここでも、御朱印を頂いた。戦後、西国三十三所を巡礼した曾祖母が頂いた古い御朱印をみると、大きく「竹生島」と踊るように書かれていた。

 

ちなみに弁財天は、鎌倉・江の島の弁財天、安芸・厳島の弁財天とともに三大弁財天といわれる。また上野の不忍池辨天堂は、池を琵琶湖に見立て、小さな島を竹生島に、お堂を宝厳寺に見立て、弁財天を祀っているものだ。

 

都久夫須麻神社の御神体は、島そのものである。本殿は国宝となっており、豊臣秀頼による伏見城から移築されたものと伝わり、黒漆と金蒔絵で草花が描かれた装飾が美しい桃山建築である。


宝厳寺・御本尊千手観音菩薩の御詠歌に。

「つきもひも、なみまにうかぶ、ちくぶじま ふねにたからを、つむここちして」 

長浜港から竹生島へ

湖畔に立つ観音像

湖北のシンボル・伊吹山

煌めく湖面にヨット

竹生島

宝厳寺に鳥居:神仏習合

本堂(弁財天堂)

湖底からの清浄水

不動明王

弁財天


弁天様の幸せ願いダルマ



観音さまの足元に老夫婦






賓頭盧尊者

朝鮮出兵のおりに秀吉のご座船として作られた日本丸の船櫓(ふなやぐら)を利用して作られたという



白巳大神は弁財天の神使


蛇は脱皮をすることから復活と再生を

弁財天像

龍神拝所:投げたかわらけが鳥居をくぐれば、願い事が成就すると


懸け造り







長浜城が

曽祖母が頂いた御朱印

今回頂いた御朱印


 

4.ふりかえり

この旅行でぜひとも訪れたかったのは、先の湖東三山と湖北の十一面観音像を拝することであった。湖北の十一面観音については、水上勉、井上靖、白洲正子らが小説、エッセイに書いている。また写真では、土門拳『古寺巡礼』、石元泰博『湖国の十一面観音』などを見て、いつかは訪れたいと思っていた。

ただ、これらの十一面観音像は多くは秘仏であり、非公開となっている。なにより訪れるには、車でもないと不便なところが多い。

 

しかし、渡岸寺の十一面観音を拝することができ、その感動は、旅の思い出として深く残ることだろう。こうした観音像が信仰深き村人たちによって守られてきたことも。

 

観音信仰は平安時代に広まっていたが、この時代は、比叡山に最澄が天台宗を開き、ここ琵琶湖周辺は、いわばお膝元ということで、天台系の山岳寺院が多い。湖東三山もそうであったように、山懐に抱かれた寺に登る石段はきつく、サンザンな目に。

 

しかし、時代が下ると、親鸞を開祖とする浄土真宗が広まる。琵琶湖周辺は、中興の祖・蓮如による布教もあり、近江商人にも深く信仰されるようになった。真宗寺院は、町の中心的な位置に大きな伽藍を配置している。この日訪れた大通寺は、山門、本堂など大きな建物を配置し参道にも店が並び、「ごぼうさん」として親しまれている。

 

寺院が山から平地に下りてきたように、城も山城から長浜城のように水城、また前日訪れた彦根城のように立派な庭を持つ城として、平地に下りてきている。

時代は、信長、秀吉から家康へ、元和偃武へと、大きな歴史の流れをあらためて感じる。そうした時代に、町人、商人とともに、石工、大工などの工人集団が活躍した。また時宗を母体とした同朋衆や河原者から能役者、庭師、歌舞伎役者などが活躍してきた。

 

そんな歴史的なふりかえりも、この旅で、寺院、城、町並み、屋敷・庭を訪れたことで得られたことだ。

ちょうど、「伝統建築工匠の技」がユネスコの無形文化遺産に登録されたというニュースがあった。残された建築物のみならず、歴史の心を大事に引き継いでいくことが大切だと思う。

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