2020年12月3日木曜日

湖の国の旅1:近江八幡

 


湖の国を、湖北・湖東・湖南と巡ってきました。紅葉の時期、いくつかの十一面観音とも会うことができました。

旅で巡ってきたところを順にアップしていきたいと思います。まずは近江八幡。

 

1.長命寺


長命寺は、西国三十三所巡礼の三十一番札所になる。妻の曾祖母は、戦後まもなくこの西国巡礼をして、御朱印をいただいている。

長命寺の本堂に行くには、808段の石段を約20分かけて登らなくてはない。とても無理なこととあきらめていたのだが、別に自動車道があることを知り、こちらはタクシーで途中の駐車場まで行くことにした。しかし、そこからも残り100段あまりの石段があり、そこをフー、フー息切らせて登る。当時、ひいおばあさんは、どのように登ったのかしら、ほんとに下から登ったのかしら、と言いながら、やっと登った。本堂に入り、古い御朱印帳を開いて見せ、あらためて御朱印をいただいた。これは昔と変わらないようだ。

 

ご本尊は、千手観音、十一面観音、聖観音の3体だが、いずれも秘仏であり、平成21年に61年ぶりに公開されたそうだ。

 

境内の高台から三重塔、本堂、三仏堂などを見降ろす景観は、その屋根が並んで壮観である。太郎坊権現社の拝殿の横には、熊野のコトビキ岩を思い出させるような大きな岩がデーンと鎮座する。拝殿の反対側からは、大きく開けた琵琶湖が遠望できる。

 

琵琶湖は古代湖として世界的にも3番目に古い湖だという。その周辺にはかっては内湖が多くあったが、昭和30年代ごろからどんどん埋め立てられ、農地化された。タクシーの運転手さんによると、長命寺の周辺にも内湖があり、昔は長命寺には船で渡ったのかもしれないね、という話であった。

曾祖母がいただいた長命寺の御朱印

今回いただいた御朱印
















太郎坊権現社の拝殿










 2.本願寺八幡別院


長命寺を降りて、八幡堀近くで昼食をとったあと、長い板塀に大きな屋敷、塀越しに見越しの松がある、そうした古い佇まいが並ぶ街を歩く。

 

一目で真宗寺院であることがわかる大きなお堂が建っている。お堂の前には親鸞と蓮如の像が向かい合って立っている。

この本願寺八幡別院は、安土城の城下町から、豊臣秀次により八幡城下の現在の地に移築されたという。江戸時代には、徳川家康が宿泊し、朝鮮通信使の昼食所ともなっていたという。



親鸞と蓮如の像



 3.八幡商人の街並み


旧西川家住宅は、蚊帳や畳表などを扱って財を成した豪商で、屋号を「大文字屋」という。近江商人は、近江に本宅・本店を置き、江戸のみならず北から南まで全国で商業活動を行った。「八幡商人」は、近江商人の発祥の地の一つである。ここ近江八幡と、日野、五個荘から特に多く輩出していて、近江商人のふるさととされている。







旧西川家住宅







江戸日本橋の出店・西川家、伴家らが名を連ねている。


 旧伴家住宅も八幡商人の屋敷である。伴家は、やはり麻布、畳表、蚊帳などを商い江戸日本橋に出店していた豪商である。五代目の伴蒿蹊は、家業を引き継ぐも家督を譲って文筆業に専念し、『近世畸人伝』(岩波文庫にも入っている)を著したことで知られている。

 旧伴家住宅

伴蒿蹊

屋根瓦・八幡瓦は伝統工芸品






 街並みの一角に「朝鮮人街道」という石碑が建っている。ここは江戸時代、朝鮮通信使が通った道だという。徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利を収め、上洛するときにこの街道を通った、いわばヴィクトリーロードであり、東海道でも中山道でもなく、この縁起の良い街道を通行させることで、通信使への優遇ぶりを表そうとしたとも言われている。

朝鮮人街道

朝鮮通信使




4.白雲館


白雲館は、明治10年に八幡商人たちにより、子供の教育充実を図るために建てられた擬洋風の学校(旧八幡東学校)である。長野・松本の開智学校にも似ており、また伊豆・松崎の岩科学校を訪れたことを思い出させる建築様式である。









5.ヴォーリズと洋館


ウィリアム・ヴォーリズ(1880-1964)は、明治38年(1905)に英語教師として、近江八幡の商業学校に赴任してきた。なぜ近江八幡の商業学校に、と思うが、おそらく先取の気風があり教育にも熱心である八幡商人による引きがあったのではないだろうか。

ヴォーリズは、近江八幡を拠点に、プロテスタントの伝道、近江兄弟社のメンソレータムの実業、建築家、医療などの社会事業など幅広い活動をしたことから、「青い目の近江商人」ともいわれる。

建築については、専門的な教育を受けたことはなく、自らは設計図面も引けなかったそうだが、洋風住宅をはじめ、学校、教会、病院などいくつもの建築を手がけている。

池田町洋館街には、大正時代の洋館が、煉瓦塀で囲まれ、旧ウォーターハウス、旧吉田邸、ダブルハウスなど今現在も使われている建物が残されている。



ウィリアム・ヴォーリズ


池田町洋館街








 旧八幡郵便局は、ヴォーリズによる設計により1921年に竣工し、1960年まで郵便局として使われていた。2階には、電話交換室があって、電話・電報を扱っていたという。




 また、近江八幡を本部とする「たねや」は、かって「種屋」といって「穀物類の種を扱っていたが、和菓子に商売替えした。そのころ、近所にヴォーリズが住んでいて、彼の勧めで洋菓子の製造を開始したという。これが今人気のクラブハリエのバームクーヘンの基となった。

 


 

6.八幡堀


豊臣秀次が八幡山城を築城した際に、琵琶湖と連結し、軍事的役割と物流の要として商業的役割の両方を兼ね備えた水路として整備した。

この八幡堀は、八幡商人による町の発展に大きな役割を果たした。





 7.日牟禮八幡宮


近江商人の守護神として、崇敬を集めた。「日牟禮」という名については諸説あるようだが、応神天皇がこの近くで休憩した際に日輪の形を二つ見るという不思議な現象に会い、祠を建て、「日群之社八幡宮」と名付けられたということからだという。

八幡山を降りてきて、楼門の前を通ると、夕陽が当たり、門が美しく輝いていた。











 
8.八幡山


ロープウェイで登ると、豊臣秀次が築いた八幡城址につく。秀次、弱冠18歳だったという。よくもこの急峻な山に城を築いたものだ。いまは石垣を残すのみだが、本丸跡には秀次の菩提寺、村雲御所瑞龍寺が京都から移築されている。

ここからの琵琶湖の眺めは、夕陽を伴って、湖面が輝き、美しかった。




村雲御所瑞龍寺














 9.ふりかえり

 

近江八幡は、豊臣秀次が八幡山に城を築き、安土から商人たちたちを移住させ、城下に町を築いたのが始まりだという。江戸時代には、近江商人といわれる人々が活躍したことから、豪商の屋敷が残されている。また明治、大正には、西洋の建築を取り入れた学校、ヴォーリズによる西洋建築が建てられ、今もそこは住宅として使われている建物もある。そうした和と洋の混在した佇まいが、違和感をどころか、不思議に落ち着いた雰囲気をもっている。

豊臣秀次


 湖の国の旅の一日目は、近江八幡を歩いた。最初に訪れた長命寺はタクシーを使ったにもかかわらず、本堂まではかなりキツイ、その後、市街地を散策して、足腰にも疲れがきたが、よく頑張った一日となった。巡ったところをふりかえっておく。

 

琵琶湖に突き出して、西国巡礼三十一番札所の長命寺がある。ここは天台系の神仏習合となった寺院で、境内には、本堂、三重塔のほか、鳥居、権現社、磐座を見ることができる。ここからの琵琶湖を美しく遠望することができた。

 

八幡山に登ると、美しい夕景に輝く琵琶湖、その手前に広がる近江八幡の町を見ることができた。山を下り、日牟禮八幡宮の前を通ると、夕日に楼門が照らされていた。

 

日牟禮八幡宮の参道には、「たねや」があり、甘いものをいただいた。向かいには伝統野菜である日野菜の漬物を売る「山上」という店があり、ここの桜漬けを求めた。帰ってからいただいたが、ぴりっとした辛みがあり、ご飯にピッタリの味であった。

 

近江八幡には、戦国武将の城址から、江戸の近江商人の屋敷、明治に入ってヴォーリズなどによる西洋建物などの街並みがあり、ぎっしりと歴史が詰まっていた。

「たねや」

「山上」


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