2021年1月16日土曜日

東京異空間33:二つの禅寺~泉岳寺・東禅寺

泉岳寺・赤穂義士記念館

東禅寺・三重塔

品川にある二つの禅寺を訪ねた。一つは赤穂浪士の墓のあることで知られる泉岳寺。もうひとつはイギリス公使館宿のあった東禅寺、こちらは知る人ぞ知るというところか。

1.泉岳寺

泉岳寺は、曹洞宗の寺院である。浅野家の菩提寺であったことから赤穂浪士四十七士の墓があり、いまでもお線香をあげる人が絶えない。

中門をくぐると、右手に大きな像が立っている。大石内蔵助良雄の銅像である。つづく山門には「泉岳寺」と白く書かれたの扁額が掛けられている。そして正面が本堂である。左手に回ると、「首洗い井戸」との看板がある。吉良上野介の首級をこの井戸で洗い、主君・浅野内匠頭の墓前に供え、本懐成就を報告したところだという。さらに進むと、義士墓入口の門がある。この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門であったものを明治時代に移築したものだという。中には、浅野内匠頭の墓、大石内蔵助の墓をはじめ、赤穂浪士の墓があり、お線香の煙があたり一帯に漂っている。

 

大石内蔵助の墓標に刻まれていることを書き写してみると、

 

浅野内匠頭家来大石内蔵助良雄

忠誠院刃空浄劔居士

元禄十六癸末歳二月四日行年四十五逝

 

とあり、戒名に「忠誠」が入り、「刃」と「劔」の両方の文字が入っていることがわかる。また45歳で逝ったことも。元禄16年は1703年である。

 

墓地を下っていくと、「赤穂義士記念館」という立派な建物がある。その入口に「義」の文字が掲げられている。

「義」とは、人としてふみ行うべき道、利欲を捨て、道理にしたがって行動すること、と辞書にある。

元禄から約150年後の幕末になると、尊王攘夷論が展開され、「大義」に基づく行動として、動乱を引き起こすとともに、明治維新という大きな政治的・社会的革新を求める運動となった。そうした幕末に引き起こされた事件があったのが、次の東慶寺である。

 

なお、泉岳寺には、僧侶の養成所である学寮があり、吉祥寺・旃檀林学寮、青松寺・獅子窟学寮と統合して、いまの駒澤大学に発展した。

泉岳寺・中門


泉岳寺・大石内蔵助銅像

泉岳寺・山門

泉岳寺・山門

泉岳寺・山門から本堂

泉岳寺・山門から本堂

泉岳寺・山門

泉岳寺・本堂

泉岳寺・本堂

泉岳寺・本堂

泉岳寺・本堂

泉岳寺・首洗い井戸

泉岳寺・首洗い井戸

泉岳寺・義士墓入口

泉岳寺・浅野家墓

泉岳寺・浅野内匠頭の墓

泉岳寺・大石内蔵助の墓

泉岳寺・義士たちの墓

泉岳寺・赤穂義士記念館

2.東禅寺

東禅寺は、臨済宗妙心寺派の寺院である。泉岳寺の近くにあるが、こちらは訪れる人が少ない。そもそも、このお寺は非公開となっていて、山門をくぐって静寂な参道をとおり本堂前まで行っても、ひっそりとしている。しかし、本堂の横には三重塔が建つなど立派なお寺である。

ここを「知る人ぞ知る」と、言ったのは、維新の時にここに仮のイギリス公使館が置かれ、そこを襲撃する「東禅寺事件」が起きたという歴史を知る人は知っているだろう、ということからだ。


山門の入口には「イギリス公使宿館跡」という石碑が立っている。

ペリー来航により開国した幕府はイギリス公使館を、東禅寺に仮の場所としておいた。この時代、タウゼント・ハリスの米国領事館が置かれた下田もそうであったが、公的な広い建物として寺院を間借りすることが多かった。ちなみに仮公使館は、アメリカが麻布の善福寺、フランスが三田の済海寺、オランダが芝の西応寺と、それぞれの寺院に置かれた。


ここ東禅寺に置かれたイギリス公使宿館が襲撃された事件が「東禅寺事件」といわれる。それも2度も、一回目は1861年は水戸藩の浪士によって、二回目は松本藩士によって行われた。

 

第一次東禅寺事件(1861年)は、イギリス公使オルコックが、長崎から江戸に移動するにあたり、陸路を通ったということに、尊王攘夷派の志士たちは「異的である外人男子に神州日本が穢された」と憤慨し、公使オールコックらを殺害しようと襲撃した事件である。

浪士たちは、この襲撃の「斬奸趣意書」を懐中しており、それには「今度尊攘の大義に基き決心仕候事に御座候」と、大義のために実行したとある。因みに「義」の反対語が「奸」であり、正道を犯す、邪悪な人、という意味がある。

 

第二次東禅寺事件(1862年)は、松本藩士によって起こされた。藩士の伊藤軍平衛は、この東禅寺警備に自分の藩が多くの人手だけでなく多くの出費を強いられていることを憂いていた。そして再び浪士による襲撃を受けることがあれば、外国人のために日本人同士が殺し合わなければいけない、ならば公使を自ら殺害して、松本藩が東禅寺警備を解任されるようにしようと考えた。第一次事件からちょうど一年後、公使であったジョン・ニールの寝室に侵入したが警備のイギリス人に見つかり乱闘となり、自らも負傷し、自刃してしまった。その遺書には、次のような趣旨が書かれていたという。

国中のため御藩主様の御ためと存じ、異人を討ち取とうと思い狙っていたところ、四方神力の恵みにより、首尾よろしく討ち取ることができました。

御家においては、汚らわしい御勤めをしては、恐れながら第一に御先祖様へ御不忠になるのではないでしょうか。

ここにも藩への忠義、あるいは先祖への忠義の精神が語られている。その行動の正しさは神の力も借りることができた、と強調している。

 

 

イギリス人に対する襲撃事件は、このあと、神奈川の生麦村で、江戸から薩摩へ帰る途中の島津久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件(1862年)が起こる。

こうした度重なる攘夷派による襲撃事件に対してイギリスをはじめとする諸外国は、それまでの寺院を間借りしたものと異なる公使館の建設を幕府に要望。幕府は、品川・御殿山に攘夷派の襲撃に備えた構造をもつ公使館の建設を決定していた

そこに、ほぼ完成していたイギリス公使館が焼き討ちされされる(1863年)。メンバーは高杉晋作を隊長、久坂玄瑞を副隊長とする13人の長州藩士。その中には明治政府において活躍する井上馨、伊藤博文、品川弥二郎など吉田松陰の教えを受けた若い藩士がいた。

 

ここに挙げたイギリス人への襲撃だけでも、このように何度もあり、しかも水戸藩、松本藩、薩摩藩、長州藩と、各地の藩士が、忠義を掲げて行動した。こうした藩に対する「義」が集約され、倒幕の、そして維新へのエネルギーとなったといえるだろう。

しかし、先祖に対する、また藩主に対する「義」は、しだいに国家に対しての、そして天皇に対しての「大義」となり、多くの若者が死んでいった、戦争という不幸な歴史をたどったことも忘れてはならないだろう。

 

二つの禅宗寺院には、それぞれの歴史にふれ、「義」とは何かをあらためて考えることができた「東京異空間」があった。

東禅寺・イギリス公使宿館跡

東禅寺・山門

東禅寺・山門・仁王像

東禅寺・山門・仁王像

東禅寺・参道

東禅寺・鐘楼

東禅寺・三重塔

東禅寺・本堂

東禅寺・本堂の瓦屋根





東禅寺・三重塔

東禅寺・三重塔

東禅寺・観音菩薩像


東禅寺・三重塔

 

それにしても、東禅寺のイギリス大使宿館であった建物「僊源亭(せんげんてい)や池泉回遊式庭園は、ほぼ当時のまま残っているということだが、残念ながら非公開となっていて見ることはできない。(東禅寺の公式HPもないようだ)

また、品川・御殿山に建てられたというイギリス公使館が焼失せずに残っていれば、江戸作事方大棟梁により、当時日本で手に入る最良の材料を使い、伝統的木造工法で建てられた最初の西洋風建築として、美しい姿を見ることができただろう。「歴史にifはない」というが。

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