2021年1月4日月曜日

成田山新勝寺1:建築と装飾

成田山には、子供のころ親に連れられ初詣に何度か行ったことがある。何十年ぶりになるのだろうか、久しぶりに成田山に行ってきた。

 

1.総門・仁王門・大本堂

成田山新勝寺の縁起は、平安中期、東国で起こった平将門の乱を調伏するため、不動護摩の儀式を行ったことにはじまるとされる。

江戸時代から多くの信仰を集め、いまでも、新年の初詣の人出は、明治神宮に次いで多いところとして知られている。広い境内には多くの御堂があり、それぞれに素晴らしい装飾が施されている。

 

(1)総門

表玄関にあたる総門には、蟇股(かえるまた)といわれる欄間の部分に十二支が彫られている。令和3年の干支、「丑」を見つけた。いい年になりますように、と門をくぐる。

総門

総門・蟇股

蟇股「丑」

総門

総門

総門

総門

 

(2)仁王門

続いて仁王門、浅草雷門と同じように中央「魚がし」の文字が大きく目立つ大提灯がかかる。これは築地の魚河岸講が奉納したもの。提灯の底には、やはり龍が描かれている。

また門の装飾彫刻として、「琴棋書画」と「司馬温公の瓶割」が刻まれている。

仁王門

仁王門

仁王門・大提灯

大提灯・龍


「琴棋書画」の彫刻

「司馬温公の瓶割」の彫刻

(3)仁王池

仁王門をくぐり、仁王橋を渡ると、池には大きな亀。石で作られているが、本物のカメも住んでいる。

仁王池に架かる橋

仁王池・亀石

仁王池・亀石

(4)灯明塔

池の奥に立つ塔は、石工灯明講の奉納した灯明塔で、周囲には建立に協力した市川團十郎、市川左團次、市川染五郎など当時の 市川宗家の歌舞伎俳優の名が多く彫られている。 東日本大震災により火袋から上が倒壊し失われている。

灯明塔

灯明塔・市川の名が刻まれている

 

(5)獅子岩

階段の左右に立つ岩は「獅子岩」といわれる。獅子の子落としという、わが子に厳しい試練を与え、その器量を試すことで 一人前に育てることができるというたとえを表わしている。


獅子岩

(6)狛犬

また階段の両側には、江戸町火消し六番組が奉納した青銅製の狛犬が置かれている。

青銅製狛犬

(7)こわれ不動

左側の階段を上ると、「こわれ不動堂」がある。何度修理しても不思議と壊れるので、この名が付いたという。この小さな御堂の周りにも彫刻が施されている。

こわれ不動


(8)利剣

不動堂の横には大きな「利剣」がそそり立っている。これも、江戸の町火消しの「み組」によって奉納された

なお、「利剣」とは、煩悩や邪悪なものを打ち破る仏法や智慧のことで、不動明王が右手に持つ。

こわれ不動横の利剣


(9)大本堂

ちょっと急な階段を上りきると、大きな本堂が構えている。昭和43年(1968年)、吉田五十八(いそや)によって設計され、建立された。

(吉田五十八(1894-1974)は、数寄屋建築を独自に近代化した建築家で、吉田五十八賞は、建築界の芥川賞ともいわれる。他に、中宮寺本堂、前の歌舞伎座などを手がけている)

 

大本堂では、最も重要とされる御護摩祈祷が行われる道場となっている。御本尊は、不動明王である。

 

本堂の歴史は次のように、新たな本堂が建立され、旧の本堂は次々に移り変わり、それぞれ名前を変えて別の場所に移築され現存している。

現・本堂から順次、旧・本堂を並べると次のようになる。

 

大本堂1968年建立→釈迦堂1858年建立→光明堂1701年建立→薬師堂1655年建立

 

このように本堂を並べてみると、いかに次々と本堂が大型化していったか、それは成田山の信仰の広がり、庶民への「人気」が高くなったことを示している。

大本堂への階段

大本堂
 

10)築山の仏

本堂の裏手の築山には、大日如来像や、露仏がずらりと並び、下の台には、多くの寄進者の名前が刻まれている。

中央は大日如来像、下に寄進者の名
 

2.三重塔・一切経堂・鐘楼

大本堂に向かって右側には、三重塔、経堂、鐘楼が並ぶ。これらは江戸時代の旧本堂・光明堂が建立された後に建てられた。それぞれ極彩色の雲水紋が施され、また周りには彫刻や火灯窓で飾られている。

 

(1)三重塔

三重塔は、25メートルの高さがあり、各層の垂木には雲水紋がほどこされ、その先には龍が彫られている。塔内には大日如来を中心に五智如来が安置されている。周囲には「十六羅漢」の彫刻がめぐらされている。














「十六羅漢」の彫刻

「十六羅漢」の彫刻

「十六羅漢」の彫刻

(2)一切経堂

一切経堂も、三重塔と同様に内部は極彩色で飾られていて美しい。堂内には一切経2000巻が納められている。入口の扁額は松平定信の筆によるものだという。火灯窓がつくられており、その中に司馬温公の瓶割図などが彫られている。

一切経堂と鐘楼






一切経堂の火灯窓

一切経堂の火灯窓

火灯窓「司馬公の瓶割」

(3)鐘楼

その隣にある鐘楼も絢爛豪華なつくりになっている。これほど美しい鐘楼は他では見られないという。ここで朝・昼・夕と一日3回、時を告げている



 

3.釈迦堂・光明堂・薬師堂・額堂・奥之院

大本堂の左手側にある、かっての本堂を見ていく。ついでに左手奥には広場があり、ここに飲食店、土産物店、そして占いのお店が並び、参詣客にとって楽しみのひとつとなる。

 

(1)釈迦堂

釈迦堂は、現在の大本堂が建てられる前までの本堂であり、江戸後期に建立された。堂内には、釈迦如来、普賢、文殊、弥勒、千手観音の4菩薩が安置されている。



釈迦如来像

大日如来像

大日如来像

胴羽目には「五百羅漢」と「二十四考」を題材にした彫刻がめぐらされている。

五百羅漢は、狩野一信の下絵により、彫師・松本良山によるもので、迫力がある。

とりわけ、羅怙羅(らごら)尊者は、胸を開け、そこに仏が宿る姿は、見る者の目を奪う。ただ、柴又帝釈天の装飾彫刻と違って、保護のための金網がはられていて見難いのが残念だ。

なお、狩野一信は、五百羅漢の100幅を残しており、増上寺に奉納された。

 

「二十四考」は、八代目嶋村俊表(しゅんぴょう)により彫られている。嶋村家は左甚五郎を祖とする彫物大工を継承する家柄で、二代目・嶋村圓鉄(えんてつ)は光明堂の彫刻を手がけ、八代目・島村俊表は、釈迦堂の彫刻を手がけており、他には田無神社本殿なども手掛けている名工である。

「五百羅漢」の彫刻

五百羅漢・羅怙羅(らごら)尊者









「二十四考」

「二十四考」
 

(2)光明堂

光明堂は、「元禄の本堂」とも呼ばれている、前の前の本堂で、嶋村圓鉄の素晴らしい彫刻が周りに施されている。

大きな利剣がある額は、日本橋にあったころの魚河岸の奉納によるもの、左に少し見える額が築地の魚河岸の奉納によるもの。上端に見られるのは迦楼羅(インドのガルーダという神鳥)の彫物で、嶋村圓鉄によるものである。



利剣と上端に迦楼羅(かるら)

 

(3)薬師堂

光明堂の前の本堂である薬師堂は、この境内の中ではなく、少し離れた参道横にある。成田山に残る本堂としては一番古く、1655年の建立である。しかし、当時のものはほとんど残されていないという。

薬師堂が本堂であったころには、徳川光圀公や初代市川團十郎が参詣したと伝えられている。

薬師堂

 

(4)額堂

七代目市川團十郎の寄進による第一額堂「三升の額堂」があったが、昭和40年に焼失し、いま残るのは第二額堂とよばれていたもので1861年建立された。

ここに七代目市川團十郎の石像があるが、これは第一額堂に自らが奉納したものであったが、額堂が焼失したため、第二額堂に移設したものである。



市川團十郎と成田山新勝寺との関係を見ると、初代市川團十郎は跡継ぎに恵まれなかったため、新勝寺に祈願し待望の長男を授かった。その念願成就の感謝として大神鏡を奉納し、成田山の江戸出開帳の際に、御本尊に因んだ「成田山分身不動」という歌舞伎を演じ、「成田屋」の屋号を使うようになった。これにより成田山の霊験が江戸中に広まり、庶民の信仰を集め、成田山参詣が大流行したという。

 

初代だけでなく、七代目市川團十郎も男子に恵まれなかったため、成田山に祈願し、千両という大金を投じて「三升の額堂」を寄進したところ、八代目を授かることができた。また七代目は豪勢な生活を送っていたため、天保の改革の質素倹約に触れ、江戸十里四方追放の処分を受けてしまい、以降8年も江戸を離れ成田山に身を隠した。八代目は、成田山の不動明王に父の赦免を祈願し、追放令が解かれた。その報恩として、七代目は自身の等身大の石像を奉納したという。

こうしたことから、市川家の歌舞伎に伝わるにらみや不動の見栄は、不動明王への信仰の証とされる。

 

今も続く、成田山への広い信仰、多くの人からの「人気」は、こうしたその時代のスターによる、広告宣伝が効果があったともいえる。いまも節分に大相撲の関取やNHK大河ドラマの出演者など有名人を呼んで豆まきなどをするのも、この流れを引き継いでいるのであろうか。

 

額堂には、市川團十郎の石像以外にも、多くの寄進者からの奉納額、絵馬、青銅製大地球儀などがある。地球儀は、上野の牛肉店が店名の「世界」の因んで、日露戦争の戦勝記念として明治40年に奉納したものだという。

 

建物の木鼻には龍や獅子などの彫刻があり、これらは江戸彫工の後藤勇次郎経慶の作という。額堂の建物、飾られている彫物、奉納された額、絵馬など、これらはみな庶民信仰の高まりを示している。

額堂・市川團十郎の石像と地球儀


市川團十郎の石像と地球儀

七代目市川團十郎の石像







(5)清瀧権現

清瀧権現密教の鎮守神であるが、ここでは妙見菩薩も祀っている。妙見信仰は、北斗七星(北辰)を神格化したもので、坂東武者の千葉氏が守護神としたことから、この地域では広く信仰された。そして千葉氏は平将門の子孫とされ、将門成敗の新勝寺の境内に妙見宮があるのも仏の縁の深さだろうか。

なお、葛飾北斎も、妙見菩薩を信仰していたとされる。

小さなお堂であるが、屋根の下は極彩色の雲水紋で飾られている。

清瀧権現



 

(6)三神社

三神とは、白山、金毘羅、今宮であり、神仏習合の形を残している。他にも境内には天満宮、出世稲荷などの神社がある。

三神社


出世稲荷

(7)奥之院

洞窟の奥に、大日如来を安置しているという。両側にある板碑も鎌倉・室町時代のものとされている。

奥之院・左右に板碑

(8)開山堂

開山寛朝大僧正のご尊像を安置するお堂

開山堂

(9)利剣碑

不動明王が右手に持つ利剣、左に制多迦(せいたか)童子と右に矜伽羅(こんがら)童子。利剣は不動明王を表わし、左右の童子が脇侍となる。

 

利剣碑

4.平和大塔・医王殿

平和大塔は、昭和59年に建立された。真言宗系では多宝塔と呼ぶ、初重が平面方形、二重は平面円形とする二層塔は日本独自の形式といわれ、空海が高野山に建てることを計画していたのが、現在の高野山にある多宝塔に近いものである。

 

塔内には、不動明王像を中心に、降三世明王、金剛夜叉明王、 軍荼利明王、大威徳明王の立像が囲んでいる。両側には、金剛界・胎蔵界を表わす大きな曼荼羅が掲げてある。柱には菩薩が極彩色で描かれている。

 

大塔の横にある医王殿は、平成29年に建立された。堂内には、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将が安置されている。

平和大塔

平和大塔と左が医王殿


5.聖徳太子堂・大師堂

大本堂と三重塔の間の奥にある、平成4年に建てられた聖徳太子堂は、日本仏教の祖である聖徳太子を祀る。

大本堂と三重塔の間にある聖徳太子堂

聖徳太子堂

聖徳太子像

総門の横にある大師堂は名前の通り、弘法大師を祀る。

大師堂

大師堂
 

6.御護摩祈祷

成田山新勝寺は、朱雀天皇より勅命を受けた寛朝僧正が、平将門の乱を調伏するため、不動護摩の祈祷を行ったという開山縁起を持つことから、いまも御護摩祈祷を行っている。


朝6時から始まる御護摩祈祷に参加した。薄暗い本堂の空間に僧侶の読経が響き、護摩を焚く赤々とした炎が上がる。厳粛な空気に包まれた。

朝護摩を終えた僧侶は、それぞれの御堂での朝のお勤めに向かう。その姿に清々しさを感じる。

朝の御護摩祈祷が行われる大本堂

朝の御護摩祈祷を終えた僧侶

香閣

7.建築と装飾~なぜ初詣が多いか?

成田山新勝寺には、多くの御堂があり、それに多くの装飾が施されている。それに加えて、数多くの額、絵馬、剣、石仏、石塔などが奉納されている。


寺院の建築は、江戸時代以降は、その信仰は庶民に広がり、財的支援も従来の権力者ではなく、講を組んだ商人や町人などに移ったことから、それに応えるべく装飾には、親しみのある十二支や、説話などが施され、塔なども見栄えよく極彩色で飾られてきた。

それを支えた大工技術は、日光東照宮の左甚五郎の名があがるように、江戸時代を通して引き継がれ、嶋村家、後藤家などの家系から名工が輩出した。さらに前回の柴又帝釈天で見たように、明治から昭和まで続き、超絶技巧の作品が残っている。

 

とりわけ、成田山の場合は、市川團十郎というスターを広告塔にしたことで、一層、庶民の信仰、江戸っ子の人気を集めたといえるだろう。いまでも、節分などには人気スターを呼んでイベントを行っている。

 

また参詣客のための広場をつくり飲食、土産、そして占いのお店が出て、成田山という、いわばテーマパーク、と言えるのではないだろうか。参道にも有名なうなぎ屋やお土産の定番、米屋、柳屋の羊羹などのお店が並ぶ。

 

そうしたことから、江戸の昔から成田山の初詣が多いのだろう、と思っていたが、調べてみると、そもそも初詣というのは、それほど古いことでなく、鉄道が発達し社寺へのアクセスが容易になったことからのもので、習慣化してきたのは大正期だという。

そういえば、初詣の参拝客の人数が一番の明治神宮の創建は大正9年(1920)であるということも符合する。

 

成田山の場合は、京成電車が名前の通り、東「京」と「成」田を結ぶ鉄道として敷かれたのは1900年代である。

JRの場合は、上野と成田を結ぶ列車が運転されたのは1902年(明治35年)であり、当時から双方の鉄道が競い合って成田山への参詣客を運ぶようになった。

こうした鉄道の発達が、それまで江戸っ子を成田山の参拝客として運んでいた成田街道、水運として栄えていた佐原街道、千葉街道などに代わって多くの客を運ぶようになり、郊外への行楽の楽しみも加わり、初詣という習慣が広がってきたという。

 

残念ながら、2021年の初詣は、これまで正月三が日で300万人の初詣客があったものが、大幅に減少しているという。早く、安心して参拝出来るよう祈願したい。

釈迦堂

額堂

総門

米屋

参道・うなぎ屋

参道

境内には、これまで見たような御堂などだけでなく、大きな公園があり、秋深まる紅葉を見ることができた。次回、アップしたい。


なお、成田山は学校法人として、小中高の学校を運営している。成田高校は、スポーツに強く、プロ野球ではロッテ・唐川投手、マラソン・増田明美、ハンマー投げ・室伏広治などを輩出している。

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