2022年12月28日水曜日

東京異空間76:護国寺と高橋箒庵

護国寺・本堂(観音堂)

文京区にある護国寺に行ってきました。護国寺は、徳川綱吉の母、桂昌院の発願により建てられた祈祷寺でしたが、明治になり、神仏分離令や上地令に加え、徳川家の庇護が無くなり、寺は苦難の時代を迎えました。そうした中、高橋義雄(箒庵)は、護国寺を茶道の本山として立ち上げることを、また画家・原田直次郎は大作「龍騎観音」を観音堂(本堂)に奉納しました。護国寺とかかわりの深い二人の人物を中心にとり上げてみたいと思います。

1.護国寺

護国寺は、徳川第5代将軍・綱吉の母、桂昌院の発願により、1681年に建立された。本尊は、桂昌院の念持仏であった琥珀如意輪観音(絶対秘仏)である。その後、1688年(元禄元年)に現・神田錦町にあった護持院が焼失し、再建されずに、火除け地となったため、護国寺に移した。護持院は上野寛永寺に並ぶほどの巨刹であり、護国寺と合わせ、寺領は2700石の大寺院となり、徳川家の祈祷寺を務めた。なお、護持院の跡地は明治になって東京大学や一橋大学などの教育機関の発祥の地となった。(これについては、「東京異空間50.51:発祥の地2021.12.26,」でとり上げた)

江戸時代には、護国寺は浅草寺、回向院などと並んで出開帳の寺として人気を集めた。護国寺の前の音羽通りの賑わいの様子を『東京名所図会』は、つぎのように記している。

「昔時当寺にて諸仏の開帳を為せしこと十数回あり。(寛永から天保まで)・・・、音羽九町に続ける茶屋には妓女も多く、寛政の昔開帳のときは、堂の裏手蓑笠を束ねて大なる虎を作り、群参奇なりとして衆評高かりしままに、品川にも是を学び柑橘籠の盧遮那仏を作り、其外にもさまざまの細工の巨大に作り出せしは、此開帳を始なりとす。」

また、音羽という地名については、徳川氏がここに町屋を再建し、その家作を奥女中の「音羽」という者に与えたことから町名となったと述べている。

しかし、護国寺は明治になると、神仏分離や上知令など仏教寺院が被った影響以上に、徳川家の庇護を失ったことにより、ひときわ大きなダメージを受け、寺領は約半分となってしまった。そのことを、やはり『東京名所図会』では、つぎのように記している。

「明治元年幕府大政を奉還し、新政府の改革行わるるや、護持院廃絶し、当寺も亦千三百石の寺禄と大衆多の檀主とを喪ひ殆むど将に退廃に帰せむとす。」

そうした厳しい時代にあって、当時の管主は、実業家であった高橋義雄(箒庵)に出会い、寺の財政再建を依頼した。

参考:

『新撰 東京名所図会 小石川区之部』 昭和44年復刻版 睦書房

原本は雑誌『風俗画報』の臨時増刊として明治29年(1896)から44年まで発刊された。

「護国寺」東京名所図会より


2.高橋義雄(箒庵)(1861-1937年)

高橋義雄(箒庵)といっても、いまでは茶道に関心のある人を除いては、ほとんど知られていない人物ではないだろうか。

高橋義雄は、水戸藩の下級武士の子として生まれ、生活困窮の中、商家に丁稚奉公として出され、武士でありながら商人に奉公することにも耐えがたく、実家に戻り水戸の中学に学んだ。そのころ、福沢諭吉が「時事新報」の創刊を企画して、記者として優秀な人材を求めていて、中津出身で福沢門下生であった水戸師範学校の校長・松本直己が高橋義雄を推薦した。慶應義塾で学んだあと、時事新報の記者として福沢の代筆をするまでの文才を発揮した。しかしながら、高橋は、自ら趣味に生きることを目的として、そのためには実業家として財を成すことを考え、出世するための箔をつけるに洋行することにした。福沢は、義雄の文才を高く買っており、いずれは自分の分身にしようと考えていたようだ。しかしながら、義雄が時事新報を退社し、洋行して実業に入ることとなり、次のような感慨を述べている。

「老生の所見にて高橋が一番役に立つ候様に覚え候得共、是れは、商売がすきと申せば致し方なし。」

高橋義雄は福沢のお気に入りであったという。

参考:

『福沢諭吉の真実』平山洋 文春新書 2004


義雄は、二年の洋行(米国、英国)を経て、帰国後、井上馨の推挙を得て、三井銀行に入ることになる。その後、三井系の各社で次の通り要職を歴任した。

三井銀行・大阪支店長、三井呉服店(三越)・理事、三井鉱山・理事、王子製紙・専務、

そして満50歳になった時、退職して、念願の趣味人として生きることを選択した。

義雄と護国寺の最初の縁は、明治42年頃、護国寺の大僧正・高城と出会ったことから始まる。義雄が王子製紙に移ったころだ。

高城大僧正から、寺の財政再建を「貴下のような財界人に是非お頼りしたい。ついては我が寺の檀徒となり当時のために尽力願いないか」と依頼された。

義雄は、高城大僧正の風格とその誠実な申し出に感激し、まず境内に墓地を求め、まもなく檀家総代となり、護国寺を茶道本山として新たに構築する計画を立てた。京都には大徳寺があって茶湯の本山のような権威があり、大茶会も開くことができる。それと同じように東京の護国寺を茶道の本山としようと考えた。

そして、実業家時代に蓄えた財力だけでなく、益田鈍翁などの数寄者や美術商、さらに井上馨、山県有朋などの政治家たちとの人的ネットワークを活用して、護国寺を茶道本山とすべく尽力する。

(1)名物石灯籠

最初に、石灯籠の寄進を行った。箒庵は、明治30年ごろから奈良方面の石灯籠を調査し、名物灯籠といわれるものを石工の石田太治郎に命じて実物と寸分たがわぬよう模写させた。それが20基ほどあり、これを寄進した。

名物石灯籠

名物石灯籠

名物石灯籠

(2)茶室と不昧公の墓

つづいて、奈良の高市にあった安倍仲麿塚を移し、それに附属して小堂・仲麿堂を建て、さらに六畳一間をつけて三笠邸と名付けた。

茶道本山らしいシンボルとして、松平不昧公の墓地を移した。不昧公の墓が関東大震災により倒壊し、松江に転墓することとなったものを、東京から去るのを惜しみ、護国寺の三条実美の墓の隣地に移し、もって茶道本山の本尊とした。

これを記念して茶室・円成庵を道具商からの寄付を得て建てた。その後も化生庵、月窓庵、宗澄庵、草雷庵などの茶室が加わった。

茶室・宗澄庵

葵の紋

(3)月光殿

さらに、原六郎邸(品川・御殿山)にあった旧三井寺日光院客殿を移築し、大茶会も開ける月光殿と新たに名付けた。移築工事に当たっては、近代数寄者でもあり、箒庵と交流のあった仰木敬一郎(魯堂)が担当した。

月光殿

月光殿

月光殿

月光殿

月光殿

(4)不老門

不老門は正面の観音堂(本堂)に上がるにあるべき中門を欠いているとみた箒庵が、三尾邦三(美術商)に寄進してくれるよう説得し、これを実現させた。中門の建築に当たっては、やはり仰木敬一郎が担当し、京都鞍馬の山門をモデルに建てられた。徳川家達に揮毫してもらい「不老門」と名付けた。この不老門は、わずか三か月で完成され、かって元禄時代に紀伊国屋文左衛門が柱を調達し建築した観音堂をわずか7か月で完成したことと一脈の因縁が結ばれているようだといわれた。というのも、どちらも紀州の出身で護国寺に一人で寄進したという共通点があったからである。

不老門

不老門

不老門

(5)多宝塔

不老門の建設と並行して多宝塔の建設も進んだ。真言宗の寺院としてあるべき多宝塔が欠けていたのを心にかけていた箒庵の最後の寄進となった。

多宝塔の建築に当たっては、仰木敬一郎らと各地の多宝塔を訪問し、滋賀の石山寺の多宝塔を模して工事を開始したが、箒庵はこの完成を見ることなくして77歳をもって没した(1937年、昭和12)。墓碑は、かって寄進した石灯籠に隣接した位置に建てられた。箒庵の名句を掲げておく。

「ちる花も紅葉もはきて春秋の あはれを知るは箒なりけり」

多宝塔

多宝塔と月光殿

多宝塔

多宝塔

多宝塔

それにしても、高橋箒庵が茶道本山としての護国寺にこれほどまでに力を注いだのは、何故だろうか?その理由のいくつかを推測してみると、まず①護国寺との最初の縁である高城大僧正の風格とその誠実な申し出に感激したこと、②数寄者である自らのライフワークとして、茶室などの建築、石灯籠などを充実させ、東の茶道本山をつくること、③箒庵の出身地である水戸藩は、いわば尊皇攘夷の総本山のようなものであり、下級藩士とはいえ、国を思う、そしてかっての徳川家を思う心(愛国心)を護国寺に託したのではないだろうか。義雄が米国に留学中、それまでのスポンサーからの支援が受けられなくなり、水戸の旧藩主徳川篤敬を頼り、留学の継続のため費用の借用を願い出たという。明治後期になっても、旧藩に対する紐帯意識は強かったということであり、義雄にとって徳川家に対する恩恵は失われていなかったということだろう。

江戸時代からの茶の湯や能楽などの遊芸は、明治維新に続く文明開化によって、否定されてきたといわれるが、明治の近代化は、西欧的近代化と日本的伝統的な価値観に両足をしっかりと置き、新たな伝統を創造したといえるだろう。 それを、実業家と数寄者という高橋義雄(箒庵)の生きざまに見ることができると思う。

参考:

『熊倉功夫著作集 第4巻 近代数寄者の茶の湯』熊倉功夫 思文閣出版 2017


高橋義雄(箒庵)は、二度結婚しているが、最初の妻・千代子とは明治24年に結婚した。この千代子をモデルにして岡田三郎助が描いた「某夫人の肖像」は、1907年(明治40年)の東京勧業博覧会に出品され一等賞をとっている。この絵は、三越のポスターに使われ、後には切手のデザインにも使われた。高橋義雄が三越呉服店にいたときに依頼したものである。

この岡田三郎助(1869-1939年)は、フランスに渡り、ラファエル・コランに師事したが、次に述べる原田直次郎(1863-1899年)は、それより前、1884年にドイツに渡り、ガブリエル・マックスに師事して洋画を学んでいる。

この原田直次郎が、ドイツから帰国して描いた大作「騎龍観音像」が護国寺に奉納されている。

岡田三郎助「某夫人の肖像」

アーティゾン美術館 H.Pより https://www.artizon.museum/


次回は、「護国寺と原田直次郎」として、この「騎龍観音」を中心にとり上げてみます。 

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