| 瓢池の海石塔 |
いよいよメインのもうひとつ兼六園に行きます。広い庭園で見どころもたくさんありますので、エリアに分けて整理したいと思います。あわせて、兼六園の歴史も見ておきます。
1.兼六園 の歴史
兼六園は、金沢城の歴史とも切り離せない庭園で、歴代の藩主によって改修・整備されてきた。
(1)「蓮池庭」の誕生以前とルーツ
兼六園が位置する場所は、かつて本願寺の拠点であった「金沢御坊」の時代から低湿地帯であり、蓮が多く茂っていたことから「蓮池」と呼ばれていた。その後、金沢城の城下町が整備される過程で、防衛上の役割(惣構え)も兼ねる重要なエリアとなっていく。
(2)「蓮池庭」の成立(1676年〜)
1676年 (延宝4年)、加賀藩5代藩主・前田綱紀が金沢城の作事所を城内に移し、その跡地である傾斜地に別荘を建てて周囲を庭園にした。これが「蓮池庭」と名付けられ、藩主や重臣がくつろぐ迎賓の場として使用された。
(3)宝暦の大火と再建(1759年〜)
1759年 (宝暦9年)、金沢城下を焼き尽くす大火が発生し、蓮池庭もそのほとんどが消失してしまう。その後、11代藩主・前田治脩(はるなが)が安永3年(1774年)から再建に着手し、「夕顔亭」などの茶室や「翠滝(みどりたき)」が整備され、庭園としての美しさが蘇る。また治脩は、蓮池庭の上部にある「千歳台」に藩校(明倫堂・経武館)を創設した。
(4)「兼六園」の命名(1822年)
1822年(文政5年)、12代藩主・前田斉広(なりひろ)は千歳台の藩校を移転させ、自身の隠居所として巨大な「竹沢御殿」を建てた。斉広が幼少期に使っていた「竹」の印と、敷地付近の旧跡「金洗沢(かなあらいざわ)」の「沢」を組み合わせて「竹沢御殿」と命名された。竹沢御殿の造営に合わせ、もともとあった「蓮池庭」を御殿の庭園として大規模に組み込み、拡張を行った。御殿が完成したとき、斉広は、当時親交の深かった奥州白河藩主・松平定信に庭園の命名を依頼した。このとき定信が、中国・宋時代の書物『洛陽名園記』に記された「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」という6つの優れた景観は、通常は相反して両立し得ないにもかかわらず、この庭園は見事に兼ね備えているとして「兼六園」と命名した。
(5)霞ヶ池の造営(19世紀中頃)
造営からわずか2年後の1824年(文政7年)、斉広はこの御殿内で亡くなる。その後、幕府に遠慮した次代の藩主・斉泰(なりやす)によって御殿は取り壊され、庭園として整備される。
1837年(天保8年)、13代藩主・前田斉泰により、広大な「霞ヶ池」が掘られ、掘った土で「栄螺山(さざえやま)」という築山が造られるなど大改修が行われた。これにより、かつての「蓮池庭」と新しく作られた「竹沢御庭」が完全に一体化し、現在の「兼六園」の広大な回遊式庭園の骨格がほぼ完成した。
(6)近代の一般開放から特別名勝へ
明治維新を経て、1874年 (明治7年)に藩主の庭であった兼六園が一般市民に全面開放された。
1922年 (大正11年)には国の名勝に指定され、1985年 (昭和60年)には庭園として最高峰の格付けである特別名勝に指定された。
2.育徳園(江戸藩邸)との歴史的関係
いっぽう、加賀藩の江戸屋敷(現・東大本郷キャンパス)には「育徳園」が造られている。金沢の「兼六園」と江戸・本郷の「育徳園」は、ともに加賀藩前田家が築いた「国元」と「江戸(上屋敷)」を代表する大名庭園であり、単に所有者が同じというだけでなく、同じ藩主の思想によって作庭され、構造的にも深い繋がりを持っている。その歴史的関係をみておく。
(1)5代藩主・前田綱紀による「命名」と「作庭」
両園の歴史的な骨格を決定づけたのは、名君として知られる5代藩主・前田綱紀である。
育徳園(江戸上屋敷):1617年頃に前田家が拝領した本郷の地に、綱紀が1698年(元禄11年)に大改修を行い、中国の古典『周易』から引用して「育徳園」と命名した。当時、江戸諸侯邸の庭園の中で第一の名園と称賛された。
蓮池庭(金沢国元):綱紀は1676年(延宝4年)、金沢城に面する傾斜地に別荘を建てて周辺を「蓮池庭」とし、これがのちの兼六園の礎となった。
(2)明治以降の運命の分岐
明治維新を迎えると、両園の運命は大きく分かれることになる。
育徳園(東京・本郷):新政府に接収された後、東京帝国大学(現・東京大学)の敷地となる。庭園の中心である池は、夏目漱石の小説『三四郎』の舞台となったことから、「三四郎池」の名で知られている。
兼六園(石川・金沢):1822年に「兼六園」と改称された後、明治政府によって1874年(明治7年)から全面公認の「公園」として一般開放され、日本三名園の一つとして現在に至る。
(3)共通する作庭の思想
加賀藩5代藩主・前田綱紀が金沢の「兼六園(当時は蓮池庭)」や本郷の「育徳園」の作庭において、根底に据えた思想は主に「神仙思想」と「儒学・精神性(学問への崇敬)」の2つである。
①長寿と藩の永遠の繁栄を願う「神仙思想」」
近世の大名庭園に共通する最も重要な思想であるが、綱紀はこれを非常に重んじた。
不老不死への憧れ:神仙思想とは、大海の彼方に仙人が住む島(蓬莱山など)があり、そこには不老不死の霊薬があるとする中国の民間信仰である。
池と島の見立て:綱紀は、兼六園の原型である瓢池(ひさごいけ)や、育徳園の池(三四郎池)という広大な池を「大海」に見立て、その中に、「蓬莱(ほうらい)」「方丈(ほうじょう)」「瀛州(えいしゅう)」という三つの神仙島を築いた。
思想の目的:これは、前田家一族の永劫の繁栄と、領民・藩主の長寿(永遠の生命)を庭の風景に投影し、祈りを込めたものであった。
②学問・古典を重んじる「儒学・易経の思想」
綱紀は木下順庵や新井白石といった一流の学者を招聘し、自身も深く学問を修めた「文治政治」の体現者であった。そのため、庭園の命名や構成には儒教や中国古典の思想が色濃く反映されている。
「育徳園」に込められた徳治主義:本郷の上屋敷に築いた庭園を「育徳園」と名付けたのは、中国の易学の古典『周易(易経)』にある「君子以て徳を育む」という一節に由来する。藩主自らが徳を積み、優れた人材を育てるという「徳治政治」の理想を庭の名に込めている。
「兼六園(蓮池庭)」の思想的基盤:のちに12代斉広が「兼六園」と命名する際、中国・宋代の書物から「相反する6つの景観美(六勝)」を兼ね備えた庭として名付けられたが、この「相反する要素の調和(陰陽のバランス)」という美意識の土台もまた、綱紀が最初に造営した自然と人工の調和(蓮池庭)に端を発している。
③風流と実利を兼ねた「心安らぐ憩いの空間」
綱紀の作庭は、威圧的な権力誇示のためではなく、「自然の理に従い、とけ込む」という日本伝統の自然観と、中国の高度な学術思想を融合させ、歩くことで心が洗われ、徳が磨かれる精神的な体験の場として庭園を設計した。 すなわち、綱紀にとって庭園とは、単に美しい景色を眺める場所ではなく、「宇宙の真理(神仙・陰陽)を凝縮し、政治家としての徳を養う思想的空間」であったと言える。
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| 加賀藩江戸本郷邸・泥絵 |
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| 育徳園の心字池(三四郎池) |
(参照):
東京異空間154:東大・本郷キャンパスⅠ~懐徳館庭園と育徳園(2023/10/27)
3.瓢池周辺
兼六園のなかでも、5代藩主・前田綱紀が手がけた最初のエリアである瓢池(ひさごいけ)周辺から見ていく。ここには綱紀の作庭意図とともに、歴史の謎が秘められた不思議な遺構が今も大切に残されている。
(1)蓮池門
蓮池門から入る。「蓮池」とは先に述べたように、この辺りの池や沼に蓮が多く咲いていたことから付けられた。
(2)松濤坂(しょうとうざか)
松濤坂は、かつての正門であった「蓮池門(れんちもん)」の正面に位置している。 このため、松濤坂は「表坂」とも呼ばれていた。この坂を登ると、5代藩主・前田綱紀が兼六園の作庭をスタートさせた「瓢池」の周辺(旧称:蓮池庭)に辿り着く。
松の梢を吹き抜ける風の音(松籟)が、まるで押し寄せる波の音(濤)のように聞こえることから「松濤坂」と名付けられた。
(3)瓢池(ひさごいけ)
瓢池には、池の形そのものに隠された意味があるという。瓢池は、上空から見ると「瓢箪(ひょうたん)」の形をしている。瓢箪は、古来より東洋医学や道教において「霊薬(不老不死の薬)を入れる器」とされてきた。神仙思想を重んじた綱紀は、池の形そのものを瓢箪にすることで、「この池の水すべてが、前田家を永遠たらしめる不老不死の霊薬である」という究極の見立て(祈り)を庭に隠したとされる。
池には、岩島、中島という4島が造られており、これらの島は、中国の神仙思想に基づく三神仙島(蓬莱・方丈・瀛州)に見立てられている。
岩島: 小さな松が植えられた島。
中島: 池にあるもう一つの島で、高さ約4.1mの石塔「海石塔」が建っている。
| 中島の海石塔 |
| 岩島 |
| 岩島 |
(4)汐見橋・日暮らし橋
汐見橋は、蓮池門口付近)から、瓢池のほとりにある茶室「夕顔亭」の露地へと渡るために架けられた木橋である。「橋の上から遠く日本海(汐)が見えた」ことからその名が付けられた。
この木橋は、日常から茶の湯の精神世界(幽邃)へと誘うアプローチの役割を持っていた。また、金沢城の百間堀側という「日常・公の空間」から、静寂に包まれた「夕顔亭の露地」という「非日常・数寄の空間」を繋ぐ境界線として機能していた。
日暮らし橋は、夕顔亭の露地側から、瓢池の「中の島(浮島)」へと渡るために架けられた風情ある石橋である。「あまりの景色の美しさに、時間を忘れて眺めているうちに日が暮れてしまった」という言い伝えが名の由来となっている。
この石橋は、瓢池の主景である「翠滝」と「海石塔」を最高の臨場感で楽しむための鑑賞拠点となっている。また、視覚だけでなく「音」も計算して作庭されており、この橋の上に立つと、霞ヶ池から流れ落ちる翠滝の豪快な水音、日本最古の噴水の音、そして周囲のせせらぎが立体的な音響となって心を満たす仕掛けになっている。
橋は、地元金沢で採掘される青戸室石の板石で作られており、長さは約13メートル、幅は約1.75メートルある。特徴的なのは、足元の敷石である。通常の石橋のような碁盤目模様ではなく、斜めに筋違を入れた幾何学的な「四半模様」で敷き詰められている。この意匠は、兼六園が持つ「斜線の美」の代表例として高く評価されている。
| 四半模様 |
(5)海石塔
海石塔(かいせきとう)は、瓢池の中島に佇む、高さ約4.1メートルの不思議な造りをした六重の石塔である。一見すると、自然の岩を積み上げただけのように見えるが、実は非常に貴重で謎めいた遺構とされる。
①海石塔の謎
謎のひとつは、その出自(豊臣秀吉からの拝領品?)。それについて二通りの説がある。
加藤清正の朝鮮出兵説(伝承):
この石塔は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、加藤清正が朝鮮半島から持ち帰ったものという説がある。清正から秀吉へ贈られ、さらにそれが加賀藩祖・前田利家に贈られたと伝えられてきた。前田家にとって秀吉との深い絆を象徴する、極めて重要な家宝とされた。
前田利常による作庭・移設説(有力視):
近代の調査や石材の鑑定により、実際には加賀藩3代藩主・前田利常が作らせたものという説が有力視されている。金沢城の「玉泉院丸庭園」にあった十三層の石塔の一部を移築したともいわれており、石材にも南加賀産の石が含まれていることが確認されている。
もうひとつの謎は綱紀による「隠された配置」。
綱紀は、この歴史的価値のある石塔を、あえて人目につく大々的な場所ではなく、金沢城のプライベートな別荘庭園である「蓮池庭」の、さらに池の主のような場所にひっそりと配置した。徳川幕府の世になり、豊臣家との繋がりを大っぴらに誇示できない時代背景のなかで、「前田家の誇りとルーツ」をひそかに庭園の核として祀ったのではないかと考えられている。
②3種類の石材と色彩の調和
海石塔は、異なる3種類の石材を組み合わせて造られている。ここにも謎が込められている。
謎の一つは、虫が喰ったような石を使っていること。
笠:海中から採掘され、波や生物によって虫が喰ったように穴だらけになった「海石(虫食い石)」を使用している。これが「海石塔」の名前の由来である。淡黄色を帯びている。
火袋・宝珠・請花:石川県産の「坪野石」という黒っぽい石が使われている。
塔軸(低い横長の火袋):金沢城の石垣などにも使われる、青みを帯びた「青戸室石」が使われている。
屋根にあたる笠石は風化してボロボロである一方、火袋などの中心部は比較的きれいで、新旧の露骨なアンバランスさが意図的に表現されている。なぜ一番上の笠に、あえてボロボロの 虫食い石を使ったのか、謎とされている。
もうひとつの謎は、偶数(六重)というタブーで構成されていること。
日本の伝統的な仏塔(三重塔、五重塔、十三重塔など)の層数は、割り切れない縁起の良い数として「奇数」にするのが鉄則となっている。しかし、海石塔はあえて「六重」という偶数で積み上げられたのか、謎とされている。
③海石塔の持つ意味・役割
海石塔が瓢池の真ん中に建てられたのには、綱紀が重んじた「大海の彼方にある神仙島」の雰囲気をリアルに演出するための役割があった。
「神仙島(不老不死の仙人の島)」の演出:
瓢池にはいくつかの中島(岩島)があり、これらは道教思想に登場する、仙人が住む不老不死の伝説の島「神仙島(方丈・瀛洲・蓬萊)」を模している。海石塔がある島は「方丈(ほうじょう)」を指し、この世のものではない神秘的な世界を演出する役割を担っている。
池全体を「大海」に見立てる効果:
瓢池のすぐそばには、豪快に音を立てて水が流れ落ちる「翠滝(みどりたき)」がある。この滝から流れ込む池を「広大な海」に見立て、海中から上がったボロボロの海石を使った塔を配置することで、ここが単なる池ではなく「深く険しい大自然の海辺である」という視覚的錯覚を鑑賞者に与える仕掛けになっている。
(6)翠滝(みどりたき)
翠滝は、瓢池に勢いよく流れ落ちる、高さ6.6メートル、幅1.6メートルの人工の滝である。
11代藩主・治脩が、1759年の火災で大部分を焼失し庭を復旧・再整備し、その一環として「夕顔亭」などの茶室とともに整造られた。和歌山県の「那智の滝」を模して造られたと伝わり、治脩が自ら好み、水が落ちる音の響きにこだわり、何度も石組みをやり直させて現在の姿を完成させたといわれている。 その特徴はつぎのようである。
①静寂をあえて破る滝音
霞ヶ池から瓢池へと水が流れ落ちる仕組みになっており、高さ約6.6メートル、幅約1.6メートルの規模を誇る。落下地点には滝壺がなく、あえて石を配置することで水が弾け、心地よい水音が周囲に響くよう工夫されている。
日本の伝統的な庭園、特に禅宗などの庭における滝は、かすかに水の音が聞こえる「静けさ」を重視するが、この滝は、園内に響き渡るほどの激しい滝音を響かせる。
②音による「結界」と空間演出
滝音は、すぐ近くを通る道路や城外の雑音(現実世界の音)を、完全に消し去る。この滝音を境界線(結界)とすることで、外界から切り離された「仙人が住む別世界(神仙郷)」へと没入させる仕掛けであった。
③軍事的なカモフラージュ(別説)
滝音が非常に大きいため、すぐそばにある茶室「夕顔亭」での密談や会話を、屋外の者に聞かれないようにする「防音装置」としての役割を持たせていたという説もある。軍事的な機能を巧みに隠す、大名庭園ならではの思想が反映されているともいわれる。
(7)夕顔亭・三芳庵
1774年に、加賀藩11代藩主・前田治脩(はるなが)によって再建された、兼六園内に現存する最も古い建物である。待合の床の袖壁に、瓢箪とともに「夕顔」の透かし彫りが施されていることが名称の由来となってい る。
小堀遠州好みと伝わる茶室で、露地にはつぎのような手水鉢が配されている。
伯牙断琴の手水鉢:縁先にあり、中国の故事が浮き彫りにされた円柱形の黒い石で、名金工・後藤程乗の作と伝えられている。
後藤程乗(1603-1673)は、京都の格式高い金工家・後藤家に生まれる。江戸時代前期を代表する装剣金工家。加賀藩主・前田家に重用され、隔年ごとに金沢へ赴いて、現地で金工の指導を行い「加賀後藤」の基礎を築いた。
竹根石手水鉢:建物脇にあり、竹の化石のように見えるが、実際には1700万年前のヤシの化石(マエダヤシ)であることが判明した珍しいもの。
井筒型手水鉢:椎の古木の下に置かれた井筒で、そこから水が湧き出し、手水鉢へと流れる雅な趣向になっている。
三芳庵は、兼六園が一般市民に全面開放された翌年の1875年 (明治8年)に創業された老舗料亭である。隣にある茶室・夕顔亭を管理するための「本館」とすぐ前の瓢池の畔に浮かぶ「水亭」、そして瓢池に落ちる翠滝の上に建つ「別荘」(現在はない)の三つの庵を持つことから「三芳庵」と名付けられた。 瓢池の畔、翠滝のすぐそばに佇む「水亭」 では加賀料理が提供されている。
| 右側・三芳庵(本館)、左側・夕顔亭 |
| 水亭 |
| 水亭 |
| 水亭 |
(8)噴水
1861年( 文久元年 )に、13代藩主・前田斉泰(なりやす)が、金沢城内の二ノ丸御殿に噴水付きの庭園を造ることを計画し,そのための「事前試作」として兼六園内に設置されたとされる。現存する日本最古の噴水といわれる。
噴水より約5メートル高い位置にある霞ヶ池との高低差を利用して、伏せの越し(逆サイフォン)構造により、水圧のみで全く動力を使わずに、水が噴き上がる仕組みとなっている。噴き上がる水の高さは通常約3.5mだが、水源である霞ヶ池の水位の変化に連動する。雨の多い時期や雪解けの春は高く上がり、夏の乾燥期で池の水位が下がると噴水も低くなる。噴き上げるノズルの周りの筒形台が外形は八角で内径が丸型になっている。
| ノズルの周りの筒形台・外形は八角で内径が丸型 |
(9)白龍湍(はくりゅうたん)
白龍湍は、園内最古の池である「瓢池」へと注ぐ激しい曲水(流れる小川)の急流である。 12代藩主・前田斉広(なりひろ)が文政5年(1822年)に建てた「竹沢御殿」の庭園の一部として整備した。
「白龍湍」という名は、白い飛沫を上げて激しく流れ落ちる様子が、まるで「白龍」が天に昇る、あるいは駆け下りる姿に見えることから名付けられた。「湍(たん)」という漢字自体が「水の流れが急な場所(急流・瀬)」を意味している。
(10)常盤ケ岡
常盤ヶ岡は雑木や苔が美しく、まるで深い山の中にいるような静けさ(深山幽谷の風情)を漂わせている。
「常盤ヶ岡」とは、常に変わらない緑を表す「常盤(常緑)」の名の通り、松をはじめとする常緑樹が古くからうっそうと生い茂る岡であったことから名付けられた。
(11)小滝
小滝は、霞ヶ池から「日本最古の噴水」へと向かって緩やかに下る園路の脇に造られている。
水が激しく飛び散るのではなく、岩肌や段差を布を垂らしたように滑らかに流れ落ちる優美な姿から「布滝」とも呼ばれる。
続いて、園内で最も大きい池である霞ケ池周辺を巡ります。


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