| 金沢城・石川門 |
「金沢を歩く」もいよいよメインの金沢城と兼六園に行きます。金沢の観光スポットといえば、この二つは外せません
まずは、金沢城をめぐり、その歴史と庭園、建物などを観ていきます。
1.金沢城の歴史
金沢城に前田家が入る前の歴史から現代までを概観しておく。
(1)金沢御堂(尾山御坊)の時代(1546年〜)
金沢城が立つ台地は、もともと「百姓の持ちたる国」と呼ばれた加賀一向一揆の宗教的な中心地であった。
1546年(天文15年):大坂本願寺の第10代門主・証如によって、本願寺の末寺として金沢御堂が創建された。 周囲に堀や石垣、柵を張り巡らせた「城造りの寺院」であり、実質的な軍事要塞で、一向一揆の拠点であった。
(2)戦国時代:織田軍の攻略と金沢城の誕生(1580年〜)
1580年(天正8年):織田信長の命を受けた柴田勝家と佐久間盛政が御堂を攻め落とした。佐久間盛政は御堂を破却・改修し、この地に城を築き、地名をとって「金沢城」と名付け初めての城主となった。
1583年(天正11年): 前年の本能寺の変の後に起きた「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家・佐久間盛政側が豊臣秀吉に敗北し、盛政が捕らえられて処刑された。これにより勝者の秀吉が、北陸で武功を挙げた前田利家に金沢城を与えた。 城主となった前田利家は、自身に敵対して滅ぼされた盛政のイメージを一新するため、自身の故郷(尾張国)に通じる「尾山」へと城名を変更した。 しかし、「金沢」という地名がすでに広く定着していたため、「尾山城」は普及せず、結局「金沢城」の呼称が使われ続けることになった。
1586-1587(天正15)年:利家はキリシタン大名として知られる高山右近を客将に招き、本格的な石垣や堀を備えた近世城郭へと大改修を進め、天守の創建(1586年頃)、本丸周辺の高石垣の建造、大手口の付け替えなど、整備が進められた。
1592年頃 :その後、2代藩主・前田利長の時代に、城下町の拡張や堀の整備が行われ、本格的な近世城郭としての体裁が整えられた。
<金沢という名の由来>
「金沢」という地名の由来は、昔々、山科の地に藤五郎という男が山で掘ってきた芋を近くの湧き水で洗ったところ、たくさんの砂金が出てきたという。そこから、その泉は「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、それが転じて「金沢」になったという。
砂金を洗った伝説の泉は、現在の兼六園のすぐ隣にある金澤神社の敷地内に「金城霊澤」として残っており、今でも水が湧き出ている。
(3)江戸時代:
1602年(慶長7年):落雷で天守が焼失したが、その後は、徳川幕府への配慮などもあり天守は再建されず、3代・利常により、二ノ丸御殿が創建され、城の中心となった。
江戸時代を通じて、寛永(1631年)、宝暦(1759年)、文化(1808年)という3度の大火に見舞われ、多くの建物が焼失と再建を繰り返した。
(4)明治以降から現代:軍事拠点から歴史公園へ
明治2(1869)年:版籍奉還により14代・前田慶寧(よしやす)は二の丸御殿を出て、前田家による金沢城の歴史に幕を下ろした。
明治4(1871)年:廃藩置県により旧陸軍の兵営(第9師団司令部など)が置かれ、軍事拠点として使用された。この時代に多くの櫓や御殿が解体された。
明治14(1881)年:失火により、御殿や門、櫓などほとんどを失い、現在まで残る石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫(土蔵)の3棟のみになった。
終戦後(1949年から1995年まで):城跡全体が金沢大学のキャンパス(丸の内キャンパス)として広く利用されていた。
現代:1989年(平成元年)から1995年(平成7年)にかけて 大学が郊外に移転した後、石川県によって大規模な史跡整備が始まった。2001年に金沢城公園として開園。菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が完成する。2015年に玉泉院丸庭園、2020年に鼠多門・鼠多門橋などが次々と復元され、現在は二の丸の復元整備が進められている。
2.城を巡る
尾山神社側にある「鼠多門口」から入り、城内を巡り、兼六園側にある「石川門」へ出た。城内の庭園、建物など、それぞれの歴史や特徴を見ていく。
(1)鼠多門
鼠多門は金沢城の西側の曲輪である玉泉院丸に位置し、木橋(鼠多門橋)により接続される金谷出丸(現在の尾山神社境内)からの出入口。
①歴史
江戸時代:江戸時代前期には既に存在していたことが絵図等から判明しており、城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759)の大火でも焼失を免れ明治期まで存在していた。
明治期:1884年に焼失し、約140年間姿を消していた。
現代:平成の復元整備事業により、2020年に門と木橋(鼠多門橋)が甦った。
②特徴
黒い海鼠壁:金沢城の他の門が白い目地であるのに対し、鼠多門は黒漆喰の目地が用いられているのが最大の特徴。この黒漆喰により壁全体が鼠色に見えることが名前の由来ともいわれている。
鉛瓦の屋根:他の建造物と同様、木型を薄い鉛の板で覆う金沢城特有の屋根瓦が採用されている。
総檜造りの木橋:門に通じる鼠多門橋もあわせて復元され、城郭景観に調和するよう鋼材を県産の木材で覆った全長約33メートルの木橋となっている。
(2)玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園は、加賀藩主前田家のプライベートな「内庭」として機能した、金沢城内にある池泉回遊式の大名庭園。公的なおもてなしの場であった兼六園とは対照的な役割を持っていた。
①歴史
1634年の作庭開始:加賀藩3代藩主・前田利常が京都から庭師を招いて造らせたのが始まり。これは兼六園よりも古い歴史を持つ。(兼六園は、1676年に加賀藩の5代藩主・前田綱紀により造営された。)
名前の由来:2代藩主・前田利長の正室であった「玉泉院」(織田信長の娘・永姫)の屋敷跡に造られたことから名付けらた。
藩主による伝承:その後、5代綱紀や13代斉泰など、歴代の藩主によって改修が重ねられ、江戸末期まで姿を留めていた。
廃藩から現代への復元:明治時代の廃藩置県により一度は破却され、長年その面影を失っていた。しかし、発掘調査や古絵図を基に整備が進められ、2015年に当時の姿が現代へと復元された。
②特徴
立体的な造形:池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形となっている。
芸術的な石垣:滝と一体となった色紙短冊積石垣など、芸術的な石垣が庭の主役ともいえる。
池泉回遊式大名庭園:辰巳用水を水源とし、3つの中島が浮かぶ池や、石垣を流れ落ちる段落ちの滝を形成している。
(3)石垣の博物館
文禄年間から江戸時代末期にかけての約200年間におよぶ築城技術の変遷が、様々な種類の石垣として良好な状態で残されており、「石垣の博物館」といわれている。
①歴史
築城初期(1590年代〜):1592年(文禄元年)頃に積まれたと伝わる東ノ丸北面の石垣は、城内で最も古く、加工が少ない自然石を豪快に積んだもので、この時代特有の荒々しい姿を残している。
江戸時代の大改修と多様化(1620年代〜):1620年や1631年の大火災による焼失を経て、城の構造が大きく見直された。この時期から、石材を少し加工して隙間を埋める技法などが取り入れられ始めた。
江戸中期以降:後の時代の改修では、城の防衛機能だけでなく、庭園の景色としての美しさが強く意識されるようになる。色や形の異なる石をパッチワークのように組み合わせた「色紙短冊積石垣」など、全国的にも珍しい華やかなデザインの石垣が造られた。
現代・能登半島地震:令和6年1月1日に発生した能登半島地震では、金沢城公園でも石垣の崩落や変形などの被害が発生し、 5箇所で崩落、23箇所で変形が確認された。
②特徴
多彩な石積み技法: 自然石をそのまま積む「自然石積」から、石を加工する「割石積」「粗加工石積」、隙間なく美しく並べる「切石積」まで、日本の城郭に見られるあらゆる積み方が見られる。
「戸室石」の色彩美:金沢城の石垣の大部分には、城から東南に約10km離れた戸室山から産出される「戸室石(安山岩)」が使われている。この石には、赤みがかった灰色の「赤戸室石」と、青みがかった灰色の「青戸室石」があり、それらをパッチワークのように巧みに組み合わせたり、美しく配置したりすることで、他の城には見られないカラフルで華やかな景観を作り出している。
豊富な刻印: 玉泉院丸庭園などの石垣には、200種類以上の石工のマークや大名の家臣の印とされる「刻印」が刻まれている。丸や四角などの幾何学模様から、家紋に似た形、鳥の足跡のようなもの、また中には「十」や「卍」など宗教的な意味合いを持つシンボルもあり、工事の安全や防火、魔除けなどの願いが込められていたとも言われる。
(4)金沢御堂(尾山御堂)と極楽橋
「御堂」は、1546年に本願寺の10代・証如によって創建された浄土真宗の寺院。加賀一向一揆の政治・宗教の中心地として機能し、その周囲に現在の城下町の基礎となる町が形成されたのが金沢城の始まりである。 金沢御堂があった正確な位置は現在の金沢城公園の本丸跡付近と推定されている。
現在、金沢御堂跡は芝生になっており、その表示がある。また、近くにある極楽橋は、門徒たちが念仏を唱えながら御堂へ参詣した時代からあったという。
宗教の都から城下町へ: 僧侶や門徒、商工業者が集まって栄えていた宗教自治都市(寺内町)の機能をそのまま引き継ぐ形で、前田利家をはじめとする加賀藩が現在の巨大な城下町を築き上げた。
極楽橋:二の丸から三十間長屋のある本丸附段へ渡る所にある木橋。現在の橋は平成期に木橋として復元された。「金沢御堂」へ参詣する門徒が念仏を唱えながら渡り、夕方には日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願ったことに由来するとされている。
(5)三十間長屋
金沢城では倉庫と防壁を兼ねた建物を長屋と呼び、建物の長さをとり三十間長屋・五十間長屋などと名付けられた。(他の城郭においては「多聞櫓」と呼ばれる)
①歴史
創建と焼失:江戸時代初期の寛永期(1624〜1638年)にはすでに存在していたが、1759年(宝暦9年)の「宝暦の大火」で焼失した。
再建:焼失から約100年後の1858年(安政5年)に再建。本来の用途は食器などを収める蔵であったが、江戸時代後期には軍備を蓄える「鉄砲蔵」として使われた。
現代へ:1881年(明治14年)の金沢城内の大火災の際も奇跡的に消失を免れ、石川門、鶴丸倉庫とともに現在まで残る貴重な遺構となっている。
②特徴
現存する建物は幅3間(約5.3m)、長さ26.5間(約48.2m)、石垣上の高さ約8.9mで、漆喰壁の腰には海鼠瓦が貼り付けられている。入口が設けられている東面は建物の裏側で、唐破風や千鳥破風の出しが設けられた西面が本来の表側であり、城下に睨みを利かせていた。
建物の構造:2階建ての多聞櫓で、現在の長さは約48メートル(26間半)。
外観の意匠:屋根瓦に「鉛瓦」、壁面には白漆喰と海鼠壁(なまこかべ)が用いられ、金沢城特有の白と黒の美しいコントラストを創り出している。
軍事目的の堅牢性:内部は窓が極めて少なく、壁も土壁を厚く塗るなど、火薬庫や武器庫としての堅牢な防壁の役割を果たしていた。
土台の石組:土台石垣は石の接合面を直線的に加工し隙間なく積む「切石積み」で積まれ、石表面の縁取りだけをきれいにそろえて内側に瘤を残す「金場取り残し積み」の技法が用いられた意匠性の高いものである。
(6)五十間長屋
「五十間長屋」は、菱櫓と橋爪門続櫓を結ぶ巨大な多門櫓。主に武器庫として使われ、非常時には戦闘の砦として機能した。2001年に伝統的な木造工法で忠実に復元され、加賀百万石の城郭建築を今に伝えている。
①歴史
創建と度重なる再建: 江戸時代前期の1632年に創建されたが、火災による焼失と再建を繰り返した。
近代の焼失: 江戸時代後期(1809年)に再建された建物は明治時代まで残ったが、1881年(明治14年)の陸軍の失火により焼失した。
平成の木造復元: 長らく失われていたものの、古絵図や発掘調査など綿密な歴史資料に基づき、2001年(平成13年)に現在の姿へと木造復元された。
②特徴
大迫力のスケールと用途: 五十間(約90メートル)の長さをもつ巨大な二重櫓で、内部は武器や軍需物資を保管する巨大な倉庫となっていた。
戦闘に特化した防御機能: 敵を攻撃するための「石落し」や「狭間」が各所に備えられており、単なる倉庫ではなく実戦的な砦の役割を果たしていた。
金沢城ならではの建築美: 屋根には「鉛瓦」、外壁には「白漆喰壁」と「海鼠壁」が用いられており、これらが金沢城の建造物群における共通の美しい外観的特徴となっている。
伝統的木造工法: 復元時には現代のボルトや釘を極力使用せず、当時の伝統的な木造軸組工法(貫工法)が採用された。
(7)二の丸御殿(復元整備中)
加賀藩政の中心であった「金沢城二の丸御殿」は、約3,200坪、60を超える部屋からなり、数多くの飾金具や障壁画に彩られた、加賀百万石の栄華の象徴ともいえる建物であった。明治14年の焼失から約140年を経て、現在は金沢城復元の総仕上げとして主要部分である「表向」の本格的な復元工事が2033年度の完成を目指して進められている。
①歴史
創建と中心機能の移転:江戸時代前期(1631年)の寛永の大火で本丸御殿が焼失したことに伴い、機能を二の丸に移す形で御殿が建てられた。以後、明治維新まで加賀藩の政治と文化の中枢として機能した。
火災と再建:江戸時代を通じて二度の火災に遭うが、その都度再建された。
明治以降の終焉:1881年(明治14年)の火災により焼失して以降、建物は再建されることなく、令和の復元整備事業に至るまで長らくその姿を消していた。
②特徴
城内最大の規模:総面積は約3,200坪に及び、二の丸の敷地全体を埋め尽くすように建てられていた。
三つの機能空間:藩の儀礼や政務を行う「表向」、藩主の日常空間である「御居間廻り」、女性たちが暮らす「奥向」の3つのブロックで構成されていた。
豪華絢爛な意匠:金沢城の歴史の中で、最も豪華絢爛で機能性に優れた空間で、御殿の主要部である「表向」は約1000坪あり、最高級の木材や、きらびやかな装飾・障壁画が施された格式高い大広間が並んでいた。
「虎の間」の襖絵:
1808年(文化5年)に二の丸御殿が全焼した際、加賀藩は京で活躍していた金沢出身の絵師・岸駒と一門を呼び戻し、御殿内の障壁画制作を任せた。 御殿に虎を描くことには、「主人が猛獣を従えるほどの強い権力を持っている」という威厳を示す政治的な意味が込められていた。
岸駒(1756-1839)は岸派の祖であり、中国から伝わった虎の毛皮や骨格を徹底的に研究し、生々しいまでの迫力と躍動感のある虎を描き出したことで知られる。 二の丸御殿の障壁画も、毛並みの一本一本にいたる緻密な描写と、圧倒的な迫力を持つ躍動的な構図が特徴であった。
しかし、当時の金沢城の障壁画はほとんどが明治期の火災などで失われ、現存していない。現在復元作業にあたっては、詳細に残る古文書や絵図などの資料を基に行われている。
(8)河北門
金沢城の三の丸正面に位置し、大手門から入城した際に出迎える金沢城の実質的な正門(表門)。石川門、橋爪門とともに金沢城の「三御門(さんみもん)」に数えられ、防御のための要所として極めて重要な役割をもった。河北郡方面を向くことが名前の由来と言われている。
①歴史
創建(16世紀後半) : 創建時期のは不明だが、1583年に前田利家が金沢城主となった翌年、この河北門から「末森城の戦い」へと出陣したと伝えられている。
宝暦の大火と再建:1759年の宝暦の大火により城内の多くの建物とともに一度焼失した。その後、1772年(安永元年)に再建された。
明治以降の撤去:明治維新を経て陸軍の財産となった後、1882年(明治15年)頃に老朽化などの理由により解体・撤去された。
130年ぶりの復元:2007年から復元工事がスタートし、発掘調査で出土した礎石や古絵図、明治期の写真を基に、2010年(平成22年)に伝統工法を用いて実物大で忠実に復元された。
②特徴
枡形門構造: 門の手前に四角い広場(枡形)を設け、外と内の二重の門で敵を足止めして攻撃する防御性の高い構造となっている。
河北坂: 門に向かって続く坂はあえて傾斜がつけられており、攻め込む敵のスピードと勢いを削ぐための工夫とされている。
| 左奥が河北門 |
(9)橋爪門
橋爪門は、藩主が生活・政治を行った二の丸御殿の正門であり、城内で最も格式の高い門。三御門(石川門・河北門・橋爪門)の中でも、二の丸御殿に至る最後の門であることから城内で、最も厳重な警備が敷かれ、最大の枡形空間を持つことが特徴である。
①歴史
江戸時代前期: 1631年(寛永8年)の大火後に整備された。
江戸時代後期: 1808年(文化5年)の火災で焼失したが、翌1809年に再建された。
明治時代: 1881年(明治14年)の陸軍の失火により、二の丸御殿などと共に焼失した。
平成・令和の復元: 2001年に一の門や続櫓が復元され、2015年には「二の門」と枡形の二重塀が復元されて全体が蘇った。
②特徴
城内最大の枡形構造: 高麗門形式の「一の門」から入り、石垣と二重塀で囲まれた広い枡形を抜け、櫓門形式の「二の門」へと進む厳重な造りで、敵の侵入を阻む防御の要であった。
格式の高さ: 二の丸御殿に至る最後の門であるため、通行には最も厳しい制限がかけられた。門の床には御殿の玄関前と同じ「戸室石」が敷かれるなど、高い格式を示している。
伝統木工建築: 2015年の復元では、江戸時代の古写真や絵図、発掘調査に基づき、伝統的な木造工法が忠実に再現されました。隣接する菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓と連結している。
(10)石川門
石川門は、江戸時代の天明8年(1788年)に再建された城内最古の現存建造物である。かつては金沢城の裏門(搦手門)にあたる重要な拠点であった。現在は、白と黒、そして鈍い銀色のコントラストが美しい景観をつくり、金沢城を象徴する顔となっている。
①歴史
名前の由来:当時の「石川郡」の方角(南南西)を向いていたことから名付けられた。
創建と相次ぐ火災:創建は16世紀後半(慶長期以前)と推定される。寛永8年(1631年)と宝暦9年(1759年)に大規模な火災に見舞われた。
天明の再建:現在の建物は、宝暦の大火で焼失した後に、11代藩主・前田治脩の時代である天明8年(1788年)に再建された姿をそのまま留めている。
重要文化財への指定: 近世城郭の「枡形」を囲む建物群が当時のまま完全な姿で現存しているのは、全国でも大坂城大手門とこの石川門だけであり、昭和25年(1950年)に重要文化財に指定された。
②特徴
高度な防御陣形「枡形構造」:敵の侵入を防ぎ、勢いを鈍らせるために大小2つの門と櫓、太鼓塀で四角い広場(枡形)を囲む強固な造りになっている。
鉛瓦葺き:屋根瓦に鉛の板が葺かれている。戦時には溶かして鉄砲の弾丸にするための備えとも言われている
白漆喰塗籠壁と海鼠壁:上部は真っ白な白漆喰で固め、壁の腰回りには黒と白のコントラストが美しい海鼠壁を配して防湿・防火性を高めている。
平面が菱形の二重櫓:東側に建つ二階建ての櫓は、建物の平面が長方形ではなく「菱形」に歪めて建てられており、視野を広げて死角をなくすための工夫がされている。
左右で異なる「石垣の博物館」:枡形内の一度に視界に入る左右の石垣が全く異なる技法で積まれている。向かって右側は、石の接合面を美しく四角く加工し、隙間なく密着させて急勾配に積み上げた洗練された「切石積み」 。向かって左側は、自然石や割石の表面を軽くノミで削っただけの武骨な石を積んだ「粗加工石積み」で、大型の刻印が多数見られる。
(11)石川門近く
| 百万石まつりの幟が立つ |
| かつて金沢大学の前身である旧制四高などの校舎があった場所「川口門」 |
| 石川門附属右方太鼓塀の「隠し狭間」 |
金沢城は、近年、復元整備が進み、かつて来た時とは、相当景色が変わっていました。石川門を出て、向かい側にある、もう一つのメインである兼六園に行きたいと思います。
石川門近くに前田利家の銅像があります。1982年(昭和57年)に設置された金沢市出身の彫刻家・竹下慶一 の作品で、利家公が軍扇を手に金沢城の方角を見据えている凛々しい姿で立っています。
| 前田利家像 |
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