懐徳館庭園 |
東大本郷キャンパスのホームカミンデイに行ってきました。お目当ては、一年に一回、この日だけに公開される懐徳館庭園。旧加賀藩・前田家の庭園を観たいために行きました。もちろん、よく知られている三四郎池、赤門、安田講堂など郷キャンパスにある歴史的建築物、さらに新たに建てられた建築なども観てきました。また、ブログでは、何回かに分けて掲載したいと思います。
1.懐徳館庭園の沿革
旧加賀藩前田邸が懐徳館となるまでの沿革を追ってみる。
(1)明治期
江戸時代、加賀藩は幕府から、約10万坪のこの地を拝領した。そのうち8万8千坪を上屋敷として構えた。明治に入り、この地は上地となり、1万3千坪が前田侯爵家に与えられた。残り約9万坪がすべて東京大学の敷地となった。
侯爵となった前田家16代当主利為は、先代からの天皇の行幸を願った。侯爵をいただき、皇室の藩屏として、もっとも願うことは天皇の行幸を得ることであった。天皇を迎えるため、利為は、明治38年に日本館(設計・北沢虎造)、明治40年に西洋館(設計・渡辺譲)を竣工させ、その後天皇行幸の内示を得て、明治43年にこの日本庭園を造った。造園は、前田家の庭師を務めてきた二代目伊藤彦右衛門に任せられた。伊藤は、前田家根岸別邸の庭園の材料を主に転用し、また讃岐・小豆島からも多くの石材を集めた。築山の斜面には3段の立体的な構成を持つ滝石組みを設け、水道水を用いて築山の頂部から水を落とした。その下方から流れが始まり、北方の芝生地に面して広がりを見せつつ築山の裾部を大きく巡り、南西の池泉へとつながる。池泉には、京都鴨川から取り寄せた河鹿蛙数十匹を池に放ち、さらに、蛍二万匹を放つなど、迎えるための演出も凝らしたという。
こうして完成した本邸と庭園をもって、また仮設の能舞台(設計・北沢虎造)も造るなど余興のパフォーマンスの準備を整え、明治43年に明治天皇行幸、昭憲皇太后、さらに皇太子殿下・同妃殿下の行啓を迎えた。それを記念した「臨幸碑」が今も築山に残されている。
前田侯爵邸・西洋館 |
行幸に向け整備された日本庭園と西洋館 |
旧前田侯爵邸(東京大学大学史史料室所蔵写真、昭和11年撮影) |
臨幸碑 |
(2)大正期から昭和期
その後、関東大震災(大正12年)からの復興を進めるため東大から、敷地を拡張して大学を整備したいと、前田家に本郷と駒場の土地の等価交換を申し出があった。
これに関して、利為は以前より、本郷から本邸を移す構想を持っていたことから、本郷の建物と土地と、東大の所有する駒場農学部の土地との交換を決めた。その際、「本郷の邸は、明治天皇行幸の折の建物などは残し、公共に提供する」ことを約した。
そして、新しく駒場の地に前田邸として、昭和4年(1929)に洋館が、昭和5年に和館が竣工した 。(駒場の前田邸については、「東京異空間126:旧前田家本邸~前田利為」2023/6/25参照)
いっぽう、震災の被害を受けた本郷の西洋館は、大学が震災復興事業に追われる中で放置された。昭和8年になって、前田家から補修費二万円の寄付があり、これを受けて修復工事が行われ、昭和10年にようやく階下のみの使用が可能になった。同時に、『論語』の「君子懐徳」(人の上に立つものは常に徳を心掛けるという意味 )から採り、「懐徳館」と命名された。しかし、昭和20年の東京大空襲で灰燼に帰してしまう。
現在の懐徳館は、大学の迎賓館として、昭和26年になって新たに建設された木造建築である。外観に往時の日本館の面影を反映させ、基礎には西洋館の石材を使用した。また庭園も改変されたとはいえ、全体の敷地構成、庭園の主たる地割・意匠はほぼ作庭当時を継承しているという。
駒場の前田邸・洋館 |
懐徳館 |
懐徳館・南原繁の揮毫 |
懐徳館 |
懐徳館・室内 |
懐徳館 |
懐徳館 |
石灯籠に前田家の家紋「梅鉢紋」 |
枝ぶりの良い松 |
池泉からみる懐徳館 |
懐徳館庭園 |
懐徳館 |
懐徳館庭園 |
懐徳館庭園・滝組 |
懐徳館庭園・滝組 |
滝から池泉へ流れる |
懐徳館庭園・滝組 |
池泉 |
池泉 |
懐徳館の門と本郷キャンパスの境 |
懐徳館と本郷キャンパスの境 |
2.育徳園の沿革
明治以降の東京大学・本郷にあった懐徳館庭園の沿革について述べたが、それ以前、江戸時代には、この地は加賀藩前田家の上屋敷であり、育徳園という庭園が設けられていた。現在に残るのは、三四郎池で知られる心字池である。育徳園の沿革を追ってみる。
(1)江戸期
1615(慶長20)年、大坂夏の陣の活躍で、加賀藩第2代藩主・前田利常(前田利家の四男)に家康から与えられたのが本郷の土地約10万坪であった。庭園が築かれたのは、1629(寛永6)年のこと で、1638(寛永15)年には、将軍・徳川家光が再度の御成があったため、3 代藩主前田利常が本郷邸に園池を設け庭の大修築を行なった。加賀藩の上屋敷となったのは 1683 年 、4代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)がさらに手を入れて、加賀百万石の名に恥じない江戸諸侯邸の庭園中第一という名園が誕生した。これを、綱紀は育徳園と命名した。
小亭や奇岩の配置された庭園は、静寂で鬱蒼とした木立に覆われていた模様であり、 とりわけ育徳園の有する林園美が賞賛され、築山 として螺旋状の登り道のあるサザエ山が築かれた。また、将軍に献上するための氷を貯蔵する「氷室」も園内に築かれた。
育徳園は主として、藩主が来客を接待する中心的な場として用いられており、庭園内を散策し、御亭で休憩し、その後馬場へ行くという一連のもてなしが行 われていた 。また、加賀藩上屋敷全体からすれば、育徳園には火除け地としての役割も期待されていた。その延焼防止、避難場所、消火用水として心字池の水が利 用されていた。
加賀藩江戸本郷邸・泥絵 |
(2)明治期
1867年、明治維新をむかえ、加賀潘の屋敷は官有地へと改められた。育徳園のある区域は 1871年に文部省用地として接収された。その後、1876 年に東京医学校が本郷の地に移転し、翌年には 東京医学校と東京開成学校が合併し東京大学が誕生したが、このころに、残された育徳園の池と 樹叢を大学構内に組み込むことが決まったとされる 。
東京大学の敷地となってから、育徳園の周囲には、急速にさまざまな部局の校舎が建設されていった。1892年の時点ではキャンパス内のレンガ造の建物の総面積は2500坪に過ぎなかったが、 その後の25 年間で 9300 坪に増加した。この時期、本郷キ ャンパスの中には、育徳園以外は未使用の空地をほとんど残さないほど建築物が増えたとされる。 東京大学の医・法・文・理・工それぞれの部局の配置は、敷地のほぼ中央を占める旧加賀藩上屋敷及び育徳園の周辺に広がる。これらの配置は加賀藩時代の敷地の構造に強く則っていたが、建築のスタイルは多様あった。 周囲の様相が変化するに伴い、育徳園もその空間の一部が徐々に侵食され、 庭園内部まで変化が生じた。
1 つ目は、校舎の拡充の過程での、育徳園を構成していたサザエ山と水路の消失である。1897 年からこの近傍に医科 大学衛生学・生理学・医化学・薬物学の 4 教室 3 棟が着工され、その工事の過程でサザエ山は消滅した。
2 つ目は、大名庭園から東京大学という土地の役割の変更に伴い、氷室と御亭という庭園構成要素の消失である。育徳園の北東部に位置していた氷室は、明治初期まで存在しており、キャンパス 編入後に撤去されたものとみられる。 氷室は氷を将軍へ献上用するため の施設であり、御亭は客人の接待のために使われていたという用途を考慮すると、大学キャンパ スになることで結果的に不必要な施設となり、消失した。
なお、育徳園の心字池が三四郎池と呼ばれるようになったのは、1908年に朝日新聞で連載された夏目漱石の「三四郎」で、主人公の小川三四郎が散策する舞台として取り上げられたことによる。ただし、いつから三四郎池と呼ばれるようになったかは定かでなく、確認されている中では、1946 年 8 月の東京帝国大学新聞に初めて「三四郎池」という呼称が使われたとされる。なお、駒場キャンパスには、これに対応して「一二郎池」と呼ばれる池がある。正式には「駒場池」といわれ、明治時代には農学部の養魚場として整備されていたという。
旧加賀藩上屋敷育徳園心字池(前田家18代当主・利祐氏の書による石碑) |
駒場の「一二郎池」 |
(3)大正期から昭和期
1923 (大正12)年に関東大震災が発生し、本郷キャンパスや育徳園に甚大な被害をもたらした。その際、育徳園の心字池と樹林帯は、延焼防止、学生・教職員や近隣住民の避難場所、消火用水として機能した。
震災後にキャンパスの復興計画が検討された。この計画の指揮を執ったのは当時の営繕課長を務めていた内田祥三(後の東京帝国大学第 14 代総長)であった。復興の基本方針は、災害を最小限とするために建物の周りに広い空地を作ること、そして建築物のデザインを統一し、諸施設の配置を秩序立てることであった。そこでは、育徳園はキャンパスの緑地という位置づけをされ、震災からの復興の中で登場した「改変せず保全する」とい う継承された。
育徳園の心字池(三四郎池) |
心字池(三四郎池) |
心字池(三四郎池) |
心字池(三四郎池) |
次に、加賀藩前田邸の表門であった「赤門」、そして東大の「正門」を観て、さらに内田ゴシックとも呼ばれるキャンパス内の歴史的建築物を観ていく。
(参考)
「育徳園の履歴とあり方」 平成 28 年 1 月
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400038393.pdf
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