旧安田庭園(奥のビルはNTTドコモビル) |
両国駅の近く、国技館の後ろにある旧安田庭園に行ってきました。ここは安田善次郎によって造られ、寄付された庭園です。
1.大名庭園の沿革
この地は、常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資が下屋敷を構え、元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる。藩主・本庄因幡守宗資(1629~1699)は、桂昌院(3代将軍・家光の側室、5代将軍・綱吉の生母)の実弟といわれ、桂昌院の縁者として異例の出世をした大名とされる。1692年(元禄五年)には、本庄家屋敷が将軍・綱吉の御成という栄誉に浴した。
明治維新後に、所有者は本庄松平家から池田侯爵家(旧備前池田家)へと変わり、次いで安田善次郎の所有となった。
安田善次郎は、この場所を得る以前、1879年(明治12)に、本所横網の田安邸を購入している。田安家は徳川御三家の一つであり、田安邸には茶人好みの庭園があった。善次郎は、「深秀園」と命名し、敷地に、和風家・屋懐徳館、洋館・成務館を建て各界の名士らを招く別邸とした。矢野龍渓は、『安田善次郎伝』の中で次のようなアイロニーを引いている。「その頃或者の落首に『何事もひっくりかえる世の中や、田安の屋敷安田めが買う』とあったと云う。」
そして、1891年(明治24)には、この別邸に隣接する屋敷を池田侯爵家から購入し、小網町から住まいを移して本邸とした。その後、1922年(大正11)には、安田の没後、遺志により、本邸は東京市へ寄付された。
安田本邸は、1922年(大正11)に東京市に寄付されたが、翌年に関東大震災が起こった。安田邸の東隣には「陸軍被服廠跡」があり、多く人がこの空き地に避難していたが、そこに火災旋風が数度にわたり襲来したため、大多数が焼死した。安田邸でも四男夫妻の家族、使用人が犠牲になるなど被害があったが、ただ、安田邸に避難した人は池泉があったことで身を守れた人もあったようだ。
震災後、東京市により復旧工事が行われ、1927年(昭和2)に「旧安田庭園」として開園された。
なお、先に購入した別邸・深秀園の場所は同愛記念病院と安田学園となっている 。また、陸軍被服廠跡は、現在、横網公園となり東京都慰霊堂が建てられている。
2.安田善次郎(1838-1921)
安田善次郎は、富山藩の下級武士の子として生まれた。(ちなみに、ニューオータニの創始者・大谷米太郎も富山出身である)。25歳で独立し、乾物と両替を商う安田商店を開業した。やがて安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャル・グループ)を設立し、その後には損保会社(現在の損保ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物等を次々と設立し、安田財閥を築いた。
しかし、その最後は、大磯にある別邸で、テロリストの凶刃に倒れた。1921年(大正10)、享年82であった。犯行の動機は、善次郎が巨万の富を築き上げながら、社会的な責任を果たしていない、よって天誅を下さなければならない、というものだった。 この事件の1か月後、これに刺激を受けたテロリストにより首相・原敬が暗殺された。こうした事件は、マスコミの一面的な報道を真実と思い込んだ犯人の憤りを過激にしてしまった結果ともいわれている。
<ケチ>という世評の反面、実のところ安田善次郎は、多くに事業に寄付をしていた。先述したように本邸を安田公園として寄付をしたが、これは、当時の東京市長だった後藤新平の市政調査会構想に共鳴し、後藤個人に350万円の資金のほか本所横網町の安田本邸の土地・建物の一切を寄付すると約したものである。その覚書には、安田本邸とともに現在の日比谷公会堂・市政会館である、東京市政調査会館と東京市公会堂を後藤の責任下で建設することも含まれていた。しかし、これは善次郎が、亡くなった後、引き継がれ、実行されたものであり、生前には世間に知られていなかった。
また、善次郎が寄付をしたことで、(今では)よく知られているのが東大の安田講堂である。安田講堂の建設に対し善次郎は、匿名を条件に建設費の100万円をすべて寄付すると東京大学に約束していたが、先述のテロリストの凶刃に倒れてしまった。その後、残された遺族がその遺志を引継ぎ、寄付は実行され、講堂は竣工(1925年)を迎えることができた。こうして完成した「安田講堂」は、匿名が条件ではあったが、東京大学の意向により安田善次郎を偲び、「安田講堂」(正式名は東京大学大講堂)と呼ばれるようになった。
こうした善次郎の寄付行為には「財が出来れば、それに応じて慈善的に寄付するのは、人として先天的に義務である。しかし、寄付を世間に知らせるのは、慈善の根本に反している」という「陰徳陽報」の思想が貫かれていた。
なお、安田講堂が大きな注目を浴びたのは昭和43(1968)年の東大紛争のときであるが、この紛争で荒れた講堂は以後20年にわたって荒廃状態のまま閉鎖された。再び旧安田財閥系企業の寄付もあって修復工事がスタートし、平成6(1994)年に工事は終了して往時の姿を取り戻した。
ちなみに、善次郎が残した資産は2億円を超えていたという。この金額は、当時(大正10年)の国家予算が15億9100万円であり、その八分の一に相当する、という桁違いに巨額なものであった。善次郎の寄付額、300万円、100万円というのも、公務員の平均給与が50〜60円 であったという時代であるから、その巨額さがわかる。
市政会館 |
日比谷公会堂 |
安田庭園・入口 |
3.旧安田庭園
これまでみてきた庭園は、広尾、六本木、赤坂などいわゆる山の手にあり、武蔵野台地の高低差があり、そこからの湧水を活かした池泉を造っていた。しかし、安田庭園は、低地、いわゆる下町にあるので、そうした高低差を持った庭園ではないが、やはり、大名庭園にみられる心字池を中心とした池泉回遊式庭園である。その水は湧水ではなく、すぐ横を流れる隅田川から引き入れる、汐入り庭園となっているのが特徴である。川の潮位の上昇で、池の沢渡石も水面下に没するといった変化を楽しむように造られている。現在では隅田川からの取り入れは遮断し、庭園地下に貯水槽を設置して水位の変化を再現しているという。水位を調整した水門はいまも残されてる 。
こうした汐入り庭園は、浜離宮庭園、芝離宮庭園、清澄庭園など、江戸の低地、海、川に近いところの大名庭園にとり入れられていた。
今に残る水門 |
低地にあるため池には高層ビルが映る |
水位により沢渡石は水面下に |
汐入り庭園である浜離宮恩賜公園 |
安田庭園の池には州浜があり、沢渡石とともに雪見灯籠が据えられている。また、池に注ぐように枯れ滝が大きな石組で造られている。
雪見灯篭 |
雪見灯篭 |
心字池 |
太鼓橋 |
太鼓橋 |
涸れ滝の大きな石 |
目隠しをするような大きな庭石 |
庭の片隅に「駒止石」とその奥に駒止稲荷という社が建てられている。この駒止石 には次のような言い伝えがあるという。寛永8(1631)年、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、3代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという。その際に馬を繋いだのが「駒止石」で、当時は隅田川岸にあったが、現在は旧安田庭園内に置かれている。なお、葛飾北斎は、「馬尽」シリーズの中で、この駒止石を描いている。
左下が駒止石 |
駒止稲荷 |
先に引いた落首のように、明治維新により、世の中がひっくりかえり、大名庭園もその主人が大名から実業家などに移っていきました。また、武蔵野台地の高低差、湧水を利用した庭園とは違い、下町の低地に造られた庭園は、隅田川など川、海の水を引き入れる汐入庭園となっています。その一つの例が旧安田庭園として残されています。
また、<ケチ>といわれながら巨額の富を一代で築いた安田善次郎の思想の一つである「陰徳陽報」は仏教に基づくものであるといいます。多く寄付を匿名でしたことも、この思想によるもので、この庭園、そして日比谷公会堂、安田講堂にその形を見ることが出来ます。
また、テロ事件が繰り返される日本の歴史にも目を向ける機会にもなりました。
参考:
安田不動産(株)H.P https://www.yasuda-re.co.jp/yasuda/
『安田善次郎伝』矢野龍渓 中公文庫 1979年
『銀行王 安田善次郎』北康利 新潮文庫 2013年
入口からの竹垣 |
国技館側の庭園・入口 |
隅田川 |
国技館 |
JR両国駅 |
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