高田馬場近くにある戸山公園に行ってきました。ここは江戸時代には、尾張徳川家の下屋敷が13万6000坪もあり、その8割が庭園であったといいます。また、当代随一の庭園として将軍の御成(御通抜)を迎えていました。しかし、今はその見る影もありません。ただ一つ、箱根山という築山が残っているだけです。ですから、江戸の大名庭園の姿を見るには、文献や庭園図によるしかありません。
1.大名庭園の沿革
このあたり一帯は、尾張藩徳川家の下屋敷であった。1668年頃、尾張藩藩主が徳川光友、江戸幕府将軍が四代目将軍徳川家綱の時代に、「戸山荘」と呼ばれる広大な回遊式庭園が造られた。
尾張徳川家の江戸の御屋敷はいくつもあり、幕末には40カ所以上あったという。その主要な御屋敷が「市ヶ谷御屋敷」「麹町御屋敷」「戸山御屋敷」「築地御屋敷」であった。このうち上屋敷として名高いのが「市ヶ谷御屋敷」である。1656年(明暦2)に拝領し、以後幕末まで上屋敷としての機能を果たした。市ヶ谷御屋敷は、7万8000坪、尾張徳川家当主の居住する上屋敷で、政治外交の場として機能した(現在は、防衛庁となっている)。ここには「楽々園」と呼ばれる琵琶湖を模した庭園があった。
江戸屋敷の中で最も広大であったのが郊外に位置する「戸山御屋敷」で,こちらは下屋敷である。敷地13万6000坪の8割が庭園であったという。こうした大名家の広大な庭園には、大名自身が景色を鑑賞し憩うための施設ばかりでなく、馬場や武道場など武術鍛錬の場が設けられていた。さらに、将軍の「御成」や諸大名を迎えての「儀礼」と「社交」の場として用いるために、さまざまな趣向が加えられていた。
戸山荘は武蔵野台地に入り込み、起伏に富んだ地形を活かして築庭された。中央には水面2万坪、長さ約650mという大きな池が敷地内を流れる川を堰き止め、さらに湧水を引いて造られた。また、土を揚げ、江戸一番の高さを誇った築山「玉円峰」、今の箱根山を人工的に築いた。この際、田畑を屋敷に取り込まれ他所へ替地を余儀なくされた百姓の難儀を救うため、15歳以上の男女に土を運ばせ銭を与えたという。しかも園内には、田畑をこしらえ、耕作も行われていた。また様々な建物が散在し、神社や堂塔38カ所、御亭や御茶屋107カ所などが造られていた。また、9代藩主・宗睦は儒学者・細井徳民に命じて、戸山荘二十五景を選び、詩文を作らせ、名勝を設けた。ちなみに市ヶ谷邸の楽々園は四十八景、柳沢家の六義園では八十八景が設けられていた。このように見所の多い庭園として名高かった戸山荘には、名勝地のみならず、農家や門前茶屋などの雑景も取り入れられ、節だらけの材木を用いた「コブ寺」と称する廃寺跡や鬼形を置いた「鬼の岩屋」など奇抜な趣向によって整備されていた。その極めつけが、「御町屋」と呼ばれた宿場町の景観そっくりに庭の中に取り込んだ「小田原の宿」である。
(1)小田原の宿
戸山荘を一躍有名にしたのが、園内で再現された宿場町の町並みであった。東海道五十三次を模して作られた庭園は他にもあったが、宿場町まで作ったのは戸山荘だけであり、また、この宿場町は単なる町並みの再現に留まらないものであった。ここでは街路に沿って町屋が三十数軒も並び、菓子屋、米屋、本屋、花屋、薬屋など様々な工夫を凝らした店舗が構えられていた。茶店や菓子屋では、木で作られた団子や田楽、菓子などが店頭に並べられていた。しかし、料理屋で生魚を注文すると本物の生魚がでてきたり、一部の店舗では酒肴が振舞われたりと、虚と実がない交ぜになっており、当時の将軍や大名にとって普段できない体験を提供し、遊び心の溢れる空間となっていた。
この町の北側の入口には、高札が掲げられており、そこには、次のような文言が記されていた。
一、この町中において喧嘩口論これなきとき、番人はもちろん、町人早々に出会わず、双方を分けず、奉行所へ届けべからざること
一、この町中に押し買いは了簡におよばざること
一、竹木の枝、キリ(切り)シタンかたく禁止のこと
一、落花狼藉、いかにも苦しきこと
一、人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと
奉 行
この高札の戯言には、町屋が虚構の町であり、現世の法秩序はむしろ逆転させられ、遊びと風流が支配する、いわば桃源郷であることを示している。
こうした高札に見る遊び心は、7代藩主・宗春によるものではないかと推測されている。
(2)7代藩主・徳川宗春(1696-1764)
当時の幕府は将軍・吉宗による享保の改革により、質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていった。緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和を藩として進めていった。ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っていたとされる。
宗春の当時としてはユニークな政策のいくつかを揚げると次のようなものがある。
・奪い合うことや義に合わぬことを禁止した
・自分の身にあった遊びは大切であるとした
・法律や規制は少ないほうが良いとした
・心を込めた贈答・饗応を大切にした
・庶民と上級藩士が出会う場を提供した
・商人との対話を積極的にした
・庶民が喜ぶことをした
・社会的な弱者を大切にした
この時期には、享保の改革(1716-1745年)が行われたが、その後、田沼時代には天災や飢餓が続出したため、 庭園も荒れたようだが、次の老中・松平定信による寛政の改革(1787-1793)の時期にあたる11代将軍・家斉の時代(在任1787-1837年)は、戸山荘 の全盛期 と もいえる時期 で、1793年(寛政5)には将軍・家斉公が初 めて戸山荘 を訪れた。それを迎えるため庭園も整備された。家斉は、のちに「園壁将軍」ともいわれたほど、庭園好きであったという。
(3)将軍・家斉の御通抜(御成)
家斉は、しばしば諸侯の庭園を訪れているが、なかでも戸山荘は、ことのほか気に入った庭園とみえて、鷹狩の途中に立ち寄ったという「御通抜」と称して都合4回も訪れ、「すべて天下の園池は当にこの荘をもって第一とすべし」と述べたという。
将軍家斉の、「御通抜」と称しての来臨のために、戸山荘にあった数寄屋風御殿の余慶堂、望野亭、両臨堂や茶室・町屋などには、様々な道具が飾り付けられた。その装飾法は、将軍の来臨といっても気楽に庭を散策する「御通抜」であったので、格式の高い名物道具で揃えられる正式な御成とは異なり軽めの道具が主体であった。とはいっても、尾張徳川家が将軍をお迎えするので、前遺物道具や、商号は持たなくても名物に相当する品が用いられた。これらの調度品は尾張徳川家から運ばれてきた尾張家伝来のものであった。
大名庭園が社交の場として活用され、とくに茶の湯を中心として繰り広げられた。そうしたこともあり、大名の御庭では、「御庭焼」よと呼ばれるやきものも製造された。市ヶ谷の楽々園では「楽々園焼」、戸山荘では「戸山焼」が造られている。
ほかにも、「御庭舞台」といわれる能舞台も設えていた。また、薬草園、植物園、動物園なども設けられ、大名、藩にとっての趣味・実益とともに、いわばテーマパークの様相を呈していたといえる。
(4)庭園画
時の尾張9代藩主・宗睦(むねちか)は、将軍家斉を迎えた直後に、谷文晁に庭園の景色を絵巻に描かせており、文人画風の折本帖として伝えられている。大名庭園を主題とした絵は「庭園図」と呼ばれ、11代将軍家斉の時代にかけて盛んに製作された。中でも尾張徳川家の戸山荘は、最も多く描かれた庭園の一つであった。「戸山荘八景図巻」狩野惟信、「戸山御庭之図」、「戸山山荘図」谷文晁、「戸山名園ノ図」、「戸山庭園之図」長谷川雪提などがあり、当時の戸山荘の姿を見ることができる。
また、この時期、寛政の改革を推進した松平定信は、その隠居後、五つもの庭園を造っており、その庭園画をお抱え絵師である谷文晁らに描かせている。そのなかで、現在の築地市場跡にあったという「浴恩園」が知られている。松平定信は、「浴恩園」を描かせることにより、名園であればこそ、そこから多くの詩文、絵画が生み出されるわけであり、逆に、名園の価値を高めるために、その庭園の所有者が、詩歌や絵の創作を依頼し、庭園が芸術的、文化的な価値を持つものにしたといえる。そうした名園を持つことが政治的ステータスを高めるだけでなく、文化人として価値を高めることにつながっていた。だからこそ、将軍の御成は、そのご褒美であり、名園たることを証明するものであった。(このことは、明治以降になると、天皇の行幸を仰ぐということにつながっている)。すなわち、大名庭園は、茶事、饗応を中心とした社交、儀礼の場というだけでなく、大名の権威を高める政治的な空間でもあった。
(5)「写真家大名」徳川慶勝(1824-1883)
戸山荘については、幕末に撮られた写真が残っていて、その景観がうかがえる。写真を撮ったのは、「写真家大名」といわれる14代藩主・徳川慶勝である。
幕末期に尾張徳川家の14代藩主となった徳川慶勝は、当時、長崎に入ってきたばかりの写真に関心を持ち、自ら側近や洋学者を集めてプロジェクトチームを結成し、写真の研究を始めた。そして、戸山下屋敷で写真撮影に成功した。このとき、慶勝は、大老井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好条約を調印したことを糾弾したため、戸山下屋敷で隠居・謹慎生活を送っていた。西洋の写真技術の研究成果を試すべく、戸山荘の前述した「小田原の宿」の町屋の景色、大池泉の中央に架かる「琥珀橋」や茶屋の写真を撮っている。さらに下屋敷の座敷、書斎や廊下など採光の難しい室内の写真も収めている。また、市ヶ谷の上屋敷のパノラマ写真も撮っている。
こうした写真は、庭園画とはまた違ったリアルな大名屋敷、庭園の一部がうかがえる貴重なものとなっている。
(6)陸軍戸山学校
19世紀半ばになると、かつて優美な景観を誇った戸山荘は荒廃していく。1855年(安政2)には安政の大地震、1856年には暴風雨、1859年には大火に見舞われた。1853年のペリー来航をきっかけに幕府や諸大名は江戸の警備に追われ、庭園を楽しむ余裕がなくなったことも一因であった。明治維新となり、1868年、戸山荘の土地は、徳川宗家の静岡藩に献上され、藩は江戸に残った数多い家士たちに、この広大な園地を開墾させたという。さらに、西郷隆盛率いる鹿児島藩より徴集された御親兵の屯所となり、戸山荘は、ますます荒廃した。
1873年(明治6)に、荒れ果てた戸山荘跡は 陸軍用地になり、翌年、戸山学校が置かれた。さらに陸軍病院、近衛騎兵連隊、陸軍幼年学校などが次々に建てられた。また市ヶ谷の尾張家本邸にも陸軍士官学校が置かれた。
戦後になると、軍事施設はすべて廃止され、跡地は米軍兵舎として接収された。接収解除後には、住宅不足解消のため、1949年(昭和24)から戸山荘跡一帯に米軍兵舎の払下げ資材で建てられた木造、平屋建ての「戸山ハイツ」をつくり、戦災者、引揚げ者を入居させた。 そして日本初の鉄筋住宅団地である「戸山アパート」が建てられる。また、1950年には旧近衛騎兵連隊の建物に現・学習院女子大学が移転、1954年には、敷地の一部を公園として整備し、戸山公園が開園した。
2.戸山公園
現在の戸山公園に、かつての戸山荘の面影を見ることはできない。しかし、かろうじて戸山荘にあったとされる龍門の滝、箱根山を今に見ることができる。また、陸軍兵学校の遺構である野外演奏場跡がある。
(1)龍門の滝
江戸時代の戸山荘には、前述した「小田原の宿」が訪れた人々を驚かせ、楽しませていたが、もう一つ、「鳴鳳渓」と呼ばれた渓谷を構成する「龍門の滝」という人工の滝が造られていた。この滝の下には飛び石が設けられており、来客が飛び石を渡り終えた後、急に堰の板をはずして龍門の瀧から落ちる水が増して飛び石を水中に沈ませる、という演出がなされ、招かれた将軍や諸大名は、渡り終えたときに、危なかったと大変驚き、また、良かったと喜び楽しんだと言われている。
この龍門の滝の遺構が、1998年(平成10)に早稲田大学戸山キャンパスの敷地内で見つかった。発掘された石材は、伊豆石と呼ばれる安山岩で、総数約360個、総重量約250tに上り、江戸城築城の余り石と推定された。名古屋にある徳川園が、これらの石材を譲り受け、滝の布落ちや護岸、河床、飛石などに用いるとともに、水量を急激に増す仕掛けも取り入れて、かつての戸山荘の龍門の滝を復元している。
(なお、この徳川園を含む一帯は、かつて名古屋城下にあった尾張徳川家の屋敷跡である。)
(2)箱根山
江戸時代の築山は、そのお椀を伏せたような形から「玉円峰」などと呼ばれていたが、明治以降に「箱根山」と呼ばれるようになったという。前述した「小田原の宿」の町並みの一つに「外郎」という薬局があり、これがいまも小田原にある薬の「透頂香」を扱う外郎(ういろう)家(虎屋)に見立てたものとされ、町並みに小田原の地名が付くとともに、築山も箱根山と呼ばれるようになったとされる。
明治天皇は、陸軍戸山学校に御臨幸の際には、この箱根山に登り、眺望を楽しんだという。そうした事蹟があったことから、いまに箱根山が残ったのかもしれない。箱根山は、現在でも都内では一番高い山とされ、標高は44.6mで、登頂(?)すると、戸山公園内のサービスセンターで登頂証明書を発行してもらえる。ちなみに、都内で天然で一番高い山は愛宕山で25.7m、飛鳥山が25.4mとされている。
箱根山 箱根山・両側に大きな石 箱根山・栄螺状の坂道があったという 箱根山・頂上
(3)野外演奏場跡
明治につくられた陸軍戸山学校は、射撃、剣術など歩兵部隊の訓練・育成等を行うとともに、陸軍を代表する軍楽隊として「陸軍戸山学校軍楽隊」を有していた。ここには、團伊玖磨や芥川也寸志らも所属していた。
今に残るこの不思議なサークルは、野外演奏場であったという。
明治維新の際にほとんどの大名庭園は、藩が財政破綻していたため、維持することができなくなりました。幸いにも、庭園が現在に残っているのは、明治維新後に、①天皇家と皇族、あるいは爵位を有する華族の所有となったもの、②明治新政府の重鎮(元・薩摩・長州藩士)や、③新たに起こった財閥(実業家)が買い上げたものです。①の例としては、有栖川宮公園 ②の例としては、大隈庭園 ③の例としては、安田庭園(安田財閥)、清澄白河庭園(岩崎家、三菱財閥)などが訪れた所として挙げることができます。
しかし、多くの大名庭園は、明治以降、軍の用地や、官庁、大学など公共用地に、また、殖産興業として、当時の主要な輸出品である茶、生糸を生産する茶畑、桑畑に変えられたようです。
その後、残った庭園も、関東大震災、戦災の被害も受け、戦後になると、住宅建設などのため大規模な開発が行われます。こうして、大名庭園の姿は、ほとんど消滅してしましました。
そうした大名庭園の歴史を、この戸山荘(戸山公園)の歴史に垣間見ることが出来ました。
参考:
『江戸のワンダーランド 大名庭園』 徳川美術館 2004年
『尾張藩江戸下屋敷の謎』小寺武久 中公新書 1989年
『江戸絵画と文学』今橋理子 東京大学出版 1999年
『大名庭園 江戸の饗宴』白幡洋三郎 ちくま学芸文庫 2020年
『東京の公園と原地形』田中正大 けやき出版 2005年
『写真集 尾張徳川家の幕末維新』徳川林政史研究所 吉川弘文館 2014年
かつての湧水? |
大久保側の公園・高層マンションが |
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