2023年7月10日月曜日

東京異空間136:大名庭園を歩く13~肥後細川庭園

 

肥後細川庭園

甘泉園から神田川を渡っていくと、肥後細川庭園があります。名前の通り、もとは肥後のお殿様、細川家の庭園でした。

なお、この庭園の上には、永青文庫があります。永青文庫については、「東京異空間34永青文庫(2021/01/18)」を参照ください。

1.大名庭園の沿革

肥後細川庭園は、目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、そこからの湧水による池を中心とした池泉回遊式庭園となっている。この辺りは、江戸中期以降は旗本の邸地になり、江戸末期には清水家や一橋家の下屋敷となった。そして幕末には細川侯の下屋敷に、明治15年には細川家の本邸となった。ここに、細川家の邸宅として1892年(明治26)に洋館・日本館が建設された。日本館は宮内省の木子清敬が書院造で設計し、洋館は同じく宮内省の技師であった片山東熊が設計した。木子清敬(1844-1907)は、明治宮殿をはじめ皇室関係の造営工事を担った。片山東熊(1854-1917)は、現・迎賓館(国宝)、東博・表慶館などを設計している。

しかし、こうした明治期の建物は、関東大震災により焼失してしまったが、今に残る「松聲閣」は、日本館の一部といわれる。

戦後は、華族の土地・邸宅の多くが西武の堤康次郎によって買い取られたように、この松聲閣 と庭園も1950年(昭和25)には西武鉄道に売却され、在日米軍を相手とする旅館・細川となった。1955年(昭和30)代には、震災後、昭和期に建てられた細川邸自体も、和敬塾(学生寮)に売却された。なお、細川家の屋敷跡にある永青文庫は、昭和初期に細川家の事務所として建てられたものであり、細川家にある数多くの美術品を管理・保存し、いまは美術館として公開されている。

その後、西武が所有していた旅館・細川も、在日米軍の撤退に伴い、分譲されようとしていたのを東京都が一括して買収し、1961年(昭和36)に「新江戸川公園」として開園した。1975年(昭和50)に文京区に移管され、2017年(平成29)に「肥後細川庭園」に名称変更された。

杉谷雪樵「小嵐山図」

上図は、松聲閣の庭園を描いたもの。明治27,28年頃の作品で、「小嵐山図」ということから、京都の嵐山を模して造られたのが由来とされる。杉谷雪樵(1827-1895)は、雪舟の流れを汲む日本画家。熊本藩最後の御用絵師。

2.肥後細川庭園

(1)庭園

幾多の変遷を経てきた庭園だが、いまは、池を中心として池泉回遊式庭園として、多くの人に親しまれているようだ。池の背後は永青文庫のある山側であり、反対側には神田川が流れる。池の端には滝があり、池に注いでいる。

池は、南門から、小池、中池、大池と3つあり、それぞれ石橋、土橋で繋がれている。一番大きな池には、中島があり、船着き石、州浜、突き出したところには雪見灯篭が据えられている。

十三重塔



大池


州浜、向かいに雪見灯篭

州浜、左奥は十三重塔

(2)松聲閣

正門入口のすぐ左手に「松聲閣」がある。その前庭に、枯山水が造られ、手水鉢が据えられている。広い芝生を通して、庭の池を見通せるようになっている。

山側から見た松聲閣

松聲閣前の枯山水


松聲閣前の手水鉢

松聲閣・玄関

左・松聲閣、右・中門

正門

肥後細川庭園は、永青文庫とともに、何度か訪れていますが、四季それぞれに庭の景観を楽しめます。秋の紅葉もすばらしく、冬には雪吊りもなされるようです。また、春には、そばを流れる神田川は、桜並木が見事になります。

今回訪れたときには、松聲閣の傍には、蓮が植えられていて神秘的な花を咲かせていました。




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