2023年7月9日日曜日

東京異空間134:大名庭園を歩く11~大隈庭園

 

大隈庭園

早稲田大学の大隈講堂の横に、大隈庭園があります。政治家であり、早稲田大学の創始者である大隈重信の邸宅、庭園でした。いまは、早稲田の学生等のほか、前に建つリーガロイヤルホテルの利用者が庭園を散策しているようです。

なお、早稲田キャンパスについては、「東京異空間39~早稲田大学キャンパス(2021/11/06)」を参照ください。

1.大名庭園の沿革

この地は、江戸時代には、彦根藩井伊家や高松藩松平家の下屋敷の大名庭園であった。 彦根藩井伊家の下屋敷には、「近江八景」を築庭・造庭のモチーフとした大名庭園があったと言われている。明治維新後には転々と所有者が代わったが、1874年(明治7)に大隈重信がここを購入し別邸とした。 さらに1882(明治15)年には別邸に隣接する土地を東京専門学校(現、早稲田大学)開設のために入手した。当時、大隈重信は現在の九段下付近に本邸を構えており、西洋館と洋風造りの庭園を有していたが、1884年(明治17)に早稲田の別邸に移転し、そこを本邸とした。そして、江戸の面影が残る元別邸の庭園を、自然を活かした文人風に改造した。その造園にあたっては、佐々木可村(鈴木柯村)が作庭し、諏訪の銀次郎(庭師)や渡辺華石(画家)が加わったとされる。佐々木可村は、飛鳥山の渋沢邸、大宮氷川神社の庭園(現・氷川公園)、靖国神社の奥庭などを手掛けている。なお、渡辺華石(18521930)は、渡辺崋山の次男・小華に学びその死後渡辺家を継いだ、山水画を得意とした日本画家である。

この邸宅、庭園には、国内外の政治家や教育者、文化人、学生に至るまで多くの人びとが訪れ、多彩かつ多様な交流が展開されていた。 また、園芸に熱心だった大隈重信は、庭園内に温室や菜園を設け、洋ランやヤシ、菊、メロンなど、さまざまな植物を栽培し、盆栽も数多く手掛けていたという。

1922年(大正11)の大隈重信の没後、その遺志によって庭園は邸宅と共に大学に寄贈・公開され、東京の新名所となったが、1945年(昭和20)の空襲で庭園は廃虚と化した。

現在は、大隈講堂、大隈会館、リーガロイヤルホテルなどの建物に囲まれた和洋折衷の庭園として公開されている。

1900(明治33)年頃の大隈庭園と邸宅(早稲田大学大学史資料センター所蔵)

大隈老伯早稲田庭園画帖 藤森 桂谷(早稲田大学図書館)

2.大隈庭園

庭園に入ると、広い芝生があるが、そこに不釣り合いな大きな沓脱石が置かれている。ここには、かつては、大書院が建てられていた。その沓脱石から中心軸の先に、「地蔵山」といわれる築山がある。この築山の土を掘り上げたところが池となっている。大名庭園を文人風に改造し、池を渡る橋、石、灯篭、 多層塔などを配置し、いわゆる「池泉回遊式庭園」とした。

また、園内に田んぼがあるが、これは、「早稲田」という地名の由来の一つに「神田川が入り組んだ地形の影響で水稲の田んぼが多くあり、凶作に備えて普通の田植えより、早い時期に植える田があったため」という説があり、それにちなんで造られている。

大きな沓脱石・後ろはリーガロイヤルホテル

巨石と十三重塔

地蔵山の登り






石灯籠



ヤブカンゾウ

雪見灯篭と太鼓橋


枯滝

船着き石?

枯流れ

田んぼ「わせでん」

(1)銅像

大隈庭園内に建っている銅像は早稲田大学第4代総長の田中穗積(18761944年)銅像と、大隈重信夫人の大隈綾子(18501923年)銅像の2体で、どちらも彫刻家・朝倉文夫作である。田中穗積銅像は1957(昭和32)年に早稲田大学創立75周年記念として、校友会により建立された。大隈綾子銅像はキャンパス唯一の女性の銅像で、1927(昭和2)年の創立45周年にあたり、嗣子大隈信常より寄贈・建立された。

早稲田キャンパスには、数多くの銅像があるが、一番よく知られている大隈重信銅像は2代目の大隈銅像で、やはり彫刻家朝倉文夫の作である1932(昭和 7)に早稲田大学創立 50 周年と大隈 重信没後 10 周忌に合わせて建立された。

大隈綾子像

田中穗積像

手前・田中穗積像、奥・大隈綾子像

大隈重信像(早稲田大学キャンパス内)

(2)完之荘(かんしそう)

完之荘は、1952(昭和27)年に校友で実業家の小倉房蔵から寄贈された建物で、その名称は氏の雅号「完之」にちなんだもの。飛騨の山村に残っていた推定600700年前の古屋を昭和初期に、渋谷の邸内に移築し日常静閑の座所として愛用した。その際の移築・ 改修には、数寄屋建築家・仰木魯堂があたったとされる。現在、完之荘は大隈邸の茶室があった辺りに建っている。柱は天然の栗材で、全て直接礎石上に立っているのが特徴で、いろり、火鉢、自在鈎(かぎ)、縁先の手水(ちょうず)や石門などは昔のままであるという。 また、通路には切り石を使った延段が造られている。

庭園の石垣

石の祠

完之荘

完之荘

完之荘

延段

手水鉢

飛び石

佐渡赤玉石

(3)中国、韓国からの寄贈

園内には、中国、韓国から贈られた石造などが置かれている。そのほかにも、いくつかの記念碑が置かれている。

・獅子像

庭園入口の門の両脇にある獅子像は、早稲田大学創立100周年を記念して、台湾校友会から寄贈されたもの。 獅子像は守護像であり、元は百獣の王ライオンがオリエント、インドを経て中国にも伝わり、麒麟(きりん)や青竜などが中国古来の霊獣観と融合して唐獅子、そして日本の狛犬となった。

獅子像

・童子石・文人石

童子石は、男の子を象った墓前に立てる石像で、 朝鮮後期(19 世紀初~中期)の作であ る。墓の守り主であり、死者の世話をするという。

文人石は、陵墓を護る守護像であり、袍を着て、頭には冠をかぶり、手には笏をもつ。 朝鮮初期(15 世紀)の作 である。どちらも、早稲田大学創立125周年を記念して、2007(平成19)年に高麗大学校校友会から、寄贈された。

童子石

文人石


・エミレの鐘

エミレの鐘と韓鐘閣といわれる。韓国の国宝である新羅の聖徳大王神鐘(通称「エミレの鐘」)の2分の1の複製品で、1983(昭和58)年に韓国校友会から早稲田大学創立100周年記念として寄贈された。 韓国の鐘は、胴部に飛天などの図像が表されているのが特徴とされる。また、鐘が収められて いる韓国伝統様式の韓鐘閣には、韓国の伝統的な彩色がなされている。 韓国で伝統的に用 いられている五つの色(「五方色」=黄青赤白黒)の、間の色(五方雑色)が多く使用さ れており、特に多くこの鐘楼に使われている緑(青と黄)は、「平和と成長」という意味 が込められているという。

エミレの鐘と韓鐘閣

エミレの鐘

胴部の飛天

韓鐘閣

韓鐘閣天井・五方色

・孔子像

孔子像が両国の友好関係の更なる発展の象徴となること を願って、2008年(平成20)に中華人民共和国政府から早稲田大学に寄贈された。もともと早稲田大学はアジア、特に中国との関係が深く、1899(明治32)年には清国人留学生を受け入れている。現在では3,000人を超える中国人学生が学んでいる。

孔子像

孔子像

・平和記念碑

1990(平成 2)年、戦後 45 年の 創立記念日に、不戦の誓いと犠牲者の鎮魂のために立てられた。記念碑の裏面には太平洋戦争当時 に文学部の女子学生であった宇 都宮(旧姓堂園)満枝さんの和歌が刻まれている。

「征く人のゆき果てし校庭に音絶えて 木の葉舞うなり黄にかがやきて」

平和記念碑

稲友乃碑・稲工乃碑、後ろは大隈講堂


大隈庭園は、大名庭園の面影は、極めて少ないようです。むしろ、広い芝生を中心として、くつろげる庭園です。もちろん、庭園には、大きな庭石、石灯籠などが配置され、かつての庭園が復元されていますが、そのほかに、韓国、中国から寄贈された石像などあり、日本庭園とはちょっと違った雰囲気も味わえました。

参考:

早稲田ウィークリー https://www.waseda.jp/inst/weekly/

広い芝生と沓脱石

ソテツは、室町時代から異国風で珍重された

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